第292話:深淵の第一階層と、最速のショートカット(物理)
東京・新宿上空に開いた絶望の大穴、『深淵の門』。
その内部――東京の空間と癒着した巨大な深淵迷宮の『第一階層』に、淡い黄色のサマードレスを着た少女が音もなく降り立った。
「うわぁ……。なんかここ、すっごく空気がよどんでるね。嫌な匂い」
本作の主人公、如月三月は、周囲を見渡して小さく眉をひそめた。
彼女が降り立った第一階層は、見渡す限りの赤黒い荒野であった。
空(天井)は血のように赤く、大地は鋭利な黒曜石で覆われている。さらに致命的なのは、空間全体を満たしている『濃密な猛毒の瘴気』だ。
通常の探索者であれば、防毒マスクと高度な浄化魔法を展開していなければ、数秒呼吸をしただけで肺が焼け爛れ、数分で全身の皮膚が溶け落ちてしまうほどの最悪の環境である。SSランクの迷宮は、ただそこに存在しているだけで致死のトラップとして機能していた。
しかし、三月は防毒マスクはおろか、浄化魔法すら展開していなかった。
彼女には、そんなありふれた防御手段など使うまでもなく、完璧な『毒対策』が備わっていたからだ。
「すぅーっ……はぁー。うん、ちょっとピリピリするけど、平気だね!」
三月が深呼吸をすると、致死の瘴気が彼女の肺へと吸い込まれていく。
だが次の瞬間、彼女の体内に構築されている『毒の魔力回路』が即座に起動した。かつて迷宮の強敵を喰らい、極限まで高められた『毒耐性』と組み合わさったその特異な回路は、致死の猛毒を無害化するどころか、純粋な魔力エネルギーへと変換し、彼女の細胞を活性化させていく。
SSランク迷宮の凶悪な瘴気すらも、最強の主人公にとっては「ちょっとピリッとするエナジードリンク」程度の認識でしかなかった。
「ねえ拓也、聞こえる? 無事に中に入ったよー」
三月は、毒の霧の中でケロリとした顔のまま、耳元のインカムを指先で叩いて通信を入れた。
『……ああ。聞こえてるよ、ねえさん。アーヴィングさんの端末経由で、そっちの空間データも俺の右眼に同期できてる』
通信機越しに聞こえてくるのは、愛する弟・拓也の冷静な声だ。
しかし、その声には明らかな疲労と、痛みを堪えるような響きが混じっていた。
『ゲホッ……っ。だけど、この迷宮、空間の折り重なり方が異常だ。ただの物理的な広さじゃない。次元が捻じ曲がってて、俺の右眼(解析システム)でも最深部のコアまでのルートを割り出すのに、脳の処理限界を叩きそうになってる……』
拓也のいる自室。
彼は今、鉄山厳特製の『絶対防御パーカー』を着込み、右眼のチート能力『深層言語・限定解析』をフル稼働させていた。
魔力ゼロの人間が、単なる脳の処理能力と右眼の機能だけで、SSランク迷宮の全容をマッピングしようとしているのだ。その情報量は狂気じみており、彼の脳と胃袋には想像を絶する負荷がかかっている。
「拓也様ッ!! どうか無理をなさらないでください!! すぐに胃薬と、極上の湧き水をお持ちしましたわ!!」
通信の向こうで、狂信者のクロエ・アーヴィングが悲鳴のような声を上げているのが聞こえた。
「拓也、大丈夫!? あんまり無理しないでね! お姉ちゃん、すぐに終わらせて帰るから!」
三月が心配そうに声をかけると、拓也は『……大丈夫だ。俺の指揮に従え』と息を整えた。
『まずは第一階層の突破だ。ねえさんから見て北北西、距離にして約5キロの地点に、第二階層へと下る【転移陣】がある。
……だが気をつけてくれ。その転移陣を護るように、第一階層の【階層主】が配置されてる。俺の右眼のデータだと、魔力密度はSランク下位に匹敵する化け物だ』
「北北西に5キロだね! わかった、すぐに行くね!」
三月は、Sランク相当のボスがいるという情報を『道端に石が落ちている』程度の認識でスルーし、荒野の地面を軽く蹴った。
ドゴォォォォォォォンッ!!!!!
彼女が軽く一歩を踏み出した瞬間。
足元の黒曜石の大地が、まるで隕石が衝突したかのように爆発四散した。
三月の細い体が、音速を遥かに超える速度で弾き出される。
大気を切り裂くソニックブームが巻き起こり、猛毒の瘴気ごと荒野の景色が後ろへすっ飛んでいく。
『ぶふっ!? ちょっと待て、ねえさん!! 移動速度が速すぎて、俺の右眼の映像処理が追いつか……ゲホッ、オエエェェッ!!』
「ああっ!! 拓也様がぁぁぁっ!! 神の視界に一般人の肉体が耐えきれず、激しく嘔吐を……ッ!!」
「ごめんね拓也! でも、パンケーキが冷める前に帰らなきゃいけないから、ちょっと急ぐね!」
わずか数秒後。
五キロの距離を文字通り『一瞬』で踏破した三月は、目的の転移陣がある巨大なクレーターの中心でピタリと停止した。一切の慣性を無視した、物理法則をあざ笑うかのような急停止である。
『……ハァッ、ハァッ。よし、なんとか映像の同期が追いついた……』
インカムから、ひどく疲弊した拓也の声が響く。
『ねえさん、正面だ。来るぞ』
拓也の警告と同時だった。
「グオォォォォォォォォォォッ!!!」
クレーターの奥底から、大地を揺るがすような咆哮と共に『それ』が姿を現した。
体長五十メートルを超える、巨大な骸骨の竜。
その骨の隙間からは青白い地獄の炎が漏れ出し、周囲の空間すらも熱で歪ませている。SSランク迷宮の第一階層を護る階層主、『アビス・ボーン・ドラゴン』であった。
『……こいつは厄介だぞ、ねえさん』
拓也の右眼が、瞬時に敵のステータスと弱点を解析し、三月のインカムへ情報を送る。
『奴の骨は、魔力を無効化する特殊なコーティングがされてる。中途半端な魔法じゃ傷一つつけられない。それに、口から吐く青い炎は、対象の【魂】そのものを燃やす呪いだ。
安全に倒すなら、俺が敵の死角とブレスのタイミングを1ミリ単位でナビゲートする。ねえさんは俺の指示通りに動いて、奴の胸の奥にある【魔核】だけをピンポイントで――』
「えっ? 魔力が効かないの? じゃあ、普通に叩けばいいんだね!」
三月は、弟の完璧で緻密な戦術指導を半分も聞かず、ふわりと空中に跳躍した。
『あっ、おい! ねえさん、待て! だから魔法じゃなくて……』
「大丈夫だよ拓也! お姉ちゃん、魔法なんて使わないから!」
三月は、咆哮を上げて巨大な顎を開くアビス・ボーン・ドラゴンの頭上に躍り出ると、空中で小さく息を吸い込んだ。
愛剣である『黒月』を抜く必要などない。今の彼女の異常な出力に、武器の方が耐えられないからだ。
彼女はただ、サマードレスから伸びる白くて細い右脚を、上段へと振り上げた。
純粋な、筋力。
純粋な、質量と速度の乗算。
「えいっ!」
可愛らしい掛け声と共に、三月の右脚が『踵落とし』の軌道で振り下ろされた。
その瞬間。
空気を叩き潰すような、鈍く、そして絶望的な轟音が迷宮に響き渡った。
ドバキィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!
三月の踵が脳天に直撃したアビス・ボーン・ドラゴンは、悲鳴を上げる間すらなかった。
魔力を無効化するはずの強靭な骨格は、純粋な『圧倒的すぎる物理打撃』の前に紙屑のように粉砕され、五十メートルの巨体が、まるで圧縮機にかけられたかのようにペチャンコに潰されたのだ。
それだけではない。
三月の踵落としから発生した『余剰の運動エネルギー』は、ドラゴンの巨体をすり抜け、その下にあった第一階層の強固な黒曜石の大地すらも、すり鉢状に完全に粉砕してしまったのである。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!
大地が崩落し、底知れぬ巨大な『穴』が空いた。
その穴の奥底には、第一階層とは全く違う景色――第二階層の不気味な森の様子が見えていた。
「あっ。なんか、地面が割れて下の階に行けるようになっちゃった!」
三月は、空中でふわりと身を翻しながら、自分が物理的にぶち抜いた大穴を覗き込んでニコニコと笑った。
インカムの向こう側は、数秒の沈黙に包まれた。
やがて、絶望に満ちた拓也の呻き声が聞こえてくる。
『…………ねえさん。もしかして、階層を繋ぐ正規の【転移陣】ごと、床を物理でぶち抜いたのか……?』
「うん! だって、転移陣を使うより、こうして穴を開けて落ちたほうが『ショートカット』になるでしょ? パンケーキ、冷めちゃうもん!」
『アホかァァァァッ!! 迷宮の構造を物理で破壊するな!! 階層を繋ぐ次元のバランスが崩れて、俺の右眼のマッピングデータが全部エラー吐いてるじゃねえか!! 吐き気が倍増したぞ!!』
自室で絶対防御のパーカーを着込んだ少年指揮官は、最強の主人公が引き起こした『規格外のシーケンス・ブレイク』のせいで、激しい胃痛とエラー処理に追われて頭を抱えていた。
「拓也様ッ!! お気を確かにッ!! ああ……お姉様は、神の理すらもその御足で砕き割られたのですね……ッ!!」
クロエの狂信的な祈りが、拓也の胃痛にさらに拍車をかける。
「あはは! ごめんね拓也! じゃあ、このまま第二階層に飛び降りるね!」
三月は、弟の悲鳴をBGMにしながら、一切の躊躇いもなく、自らがぶち抜いた第二階層への大穴へと身を躍らせた。
新宿の上空でSランクたちが命懸けの防衛戦を繰り広げている中。
最強の主人公による、パンケーキのための『深淵迷宮・最速クリア(物理)』への道のりは、まだ始まったばかりであった。
もし「弟らしい口調になった!」「お姉ちゃんの踵落としヤバい!」「拓也の胃がもたない(笑)!」と思っていただけましたら、
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