第287話:帰路の土産と、世界最強の留守番
林間学校の最終日、三日目の朝。
緑星山の県立ロッジは、異様なほどの活気と『生命力』に満ち溢れていた。
「おはよーっす!! いやー、昨日はぐっすり眠れたぜ!!」
「すっごい! 私、昨日あんなに山道歩いたのに、足の疲れが全然ない! むしろお肌の調子がめちゃくちゃいいんだけど!?」
「俺も俺も! なんか視力まで良くなった気がする!」
ロッジの食堂に集まった二年B組の生徒たちは、誰一人として筋肉痛や寝不足を訴えることなく、全員がピカピカに輝くような笑顔で朝食を平らげていた。
無理もない。彼らは昨晩、三月が持ってきた『エンシェント・トレント(世界樹の幼生)』の心材によるキャンプファイヤーを囲み、最高純度のヒーリング・オーラを全身に浴びたのだ。
その超常的な治癒効果により、生徒たちの肉体疲労は完全にリセットされ、基礎免疫力すらも跳ね上がってしまっている。
「……信じられん。毎年の林間学校では必ず数人は発熱したり、腹痛を訴えたりする生徒が出るというのに。今年のB組は、誰一人として保健室の世話になっていないだと……?」
担任の鈴木先生が、信じられないものを見るような目で生徒たちを見渡し、手元の体温チェック表を震える手で見つめている。
そんな生命力に満ち溢れた空間の中で、ただ一人。
如月拓也だけが、目の前の鮭の塩焼きを突っつきながら、死んだ魚のような目で深い溜め息を吐いていた。
(……みんな元気そうで何よりだよ。俺はもう、胃痛と精神的疲労でボロボロだけどね)
拓也の肉体疲労自体は、世界樹の炎のおかげで完全に回復している。しかし、彼の右眼『深層言語・限定解析』が捉え続けてしまった規格外の現象(数千トンの土石流を素手で虹に変える姉、世界樹の丸太をテコの原理で運ぶ狂信者)の数々は、彼の中学生としての精神を大きく削り取っていた。
「拓也様! 本日の鮭も、私が骨を全てピンセットで抜き取っておきましたわ! さあ、どうぞ安心してお召し上がりください!」
拓也の隣では、アメリカの特務エージェントから完全に『三月教の熱狂的信者』へと堕ちたクロエ・アーヴィングが、完璧な給仕の姿勢で控えている。
「アーヴィングさん、ありがとう。でも、俺は普通に自分で骨くらい取れるから。あと、そのピンセット、どこから出したの……? 絶対に暗殺用の道具だよね、それ」
「滅相もございません! 拓也様の平穏な朝食をお守りするための、ただの『神器』にございます!」
「言葉の定義がもうめちゃくちゃだよ……」
拓也は、忠犬すぎるクラスメイトの過剰な奉仕に胃を押さえながら、早く家に帰って自分のベッドで眠りたいと切に願うのであった。
午前十時。
閉校式を終えた生徒たちを乗せた大型バスは、緑星山を下り、帰路の途中に位置する大きな道の駅(お土産物屋)へと立ち寄った。
「よーし、ここで一時間の休憩兼お土産タイムだ! 決められたお小遣いの範囲内で、家族にしっかりお土産を買って帰るように!」
鈴木先生の指示に、生徒たちが歓声を上げて店内へと散らばっていく。
「如月! 俺、親父にお酒のおつまみ買うわ! お前はどうする?」
「俺も、ねえさん……家族に何か買っていくよ」
拓也は、健太と別れて店内を歩き始めた。
林間学校の間、ずっと遠くから(物理法則を無視したレベルで)過保護に見守ってくれていた姉である。いくら胃を痛めさせられたとはいえ、彼女の不器用で強大すぎる愛情には感謝している。なにより、土産の一つも買って帰らなければ、姉が悲しむのは目に見えていた。
「拓也様。お土産選びでしたら、このクロエにお任せを」
いつの間にか背後に控えていたクロエが、真剣なエージェントの顔つきで囁いてきた。
「あの偉大なる神……いえ、三月お姉様への供物ですね? でしたら、あの陳列棚にある『熊の木彫り』を私がSランク級の魔力で圧縮・加工し、超高密度の魔像へと昇華させましょうか? それとも、裏山に潜むAランクのワイバーンを狩り、その心臓を特製の木箱に詰めて……」
「ストップ。お願いだから普通の中学生の買い物をさせて」
拓也は、物騒すぎる提案を即座に却下した。
「俺のお小遣いは、学校の規定通り三千円なんだよ。ワイバーンの心臓なんて持って帰ったら、ねえさんが『拓也が危ないことしてる!』って勘違いして、また日本の生態系が更地にされかねないからね」
拓也はそう言って、キーホルダーのコーナーへと向かった。
彼が手に取ったのは、緑星山のローカルキャラクターである『星もぐら』の、少し間の抜けた顔をした五百円の安いキーホルダーだった。
「……これにしよう。ねえさん、こういう変な顔のキャラクター好きだし」
「なっ……!? そ、そのような、何の魔力も宿っていない、ただのプラスチックの塊を……お姉様へ捧げるというのですか!?」
クロエが、信じられないものを見るように目を見開く。
「うん。俺は『打撃力2』のひ弱な中学生だからね。これくらいが一番自然で、安全なんだよ」
拓也は、全く気負うことなくレジへと向かい、五百円玉を出して星もぐらのキーホルダーを購入した。
クロエは、その五百円のキーホルダーを見つめながら、ハッと息を呑んだ。
(……そうか。拓也様は、あえて『俗世の安価な品』を選ぶことで、三月お姉様への『私は普通の中学生として、無事に帰還しました』というメッセージを込められたのですね……! なんという深謀遠慮! 物質の価値など、あの姉弟の間では何の意味も持たないという証明……ッ!)
クロエの中で、また一つ勝手な解釈による信仰心が深まっていた。
買い物を終え、バスへと戻ろうとしたその時。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!!!
突然、空の彼方から、落雷のような凄まじい轟音が響き渡った。
「うわっ!? なんだ今の音!?」
「雷!? でもめっちゃ晴れてるぞ!」
駐車場にいた生徒たちが、驚いて空を見上げる。
拓也とクロエだけは、その『轟音の正体』を正確に理解していた。
「……拓也様。今の音、上空一万メートル付近で発生した、局地的な『ソニックブーム(衝撃波)』ですわね」
「うん……。たぶん、ねえさんが『拓也がもうすぐ帰ってくるから、急いで夕ご飯の支度しなきゃ!』って言って、音速を超えて東京に走って帰った音だね……」
拓也は、遥か彼方の空に真っ直ぐに引かれた、飛行機雲のような一本の白い筋(三月の移動の余波)を見上げて、深い溜め息を吐いた。
(……林間学校の最後の最後まで、規格外すぎる。でもまあ、これで本当に、俺たちの『普通(?)の林間学校』は終わりだ)
拓也は、ポケットの中の五百円のキーホルダーをギュッと握りしめ、帰りのバスのステップに足を掛けた。
数時間後。東京、如月家。
「たーくやっ! おかえりなさーい!!」
玄関のドアを開けた瞬間、エプロン姿の三月が弾かれたように飛びついてきた。
「うわっ! た、ただいま、ねえさん。二泊三日、お疲れ様……じゃなくて、行ってきました」
拓也は、背骨が砕けそうになるのをパーカーの防御力でギリギリ耐えながら、姉のハグを受け止めた。
「お姉様ァッ! 拓也様を、傷一つなく無事に送り届けましたッ!!」
クロエも、玄関の三和土でビシッと軍人の敬礼を決めている。
「ふふっ、二人とも無事でよかったぁ! 林間学校、楽しかった? カレー美味しくできた? キャンプファイヤーは暖かかった?」
三月は、自分が全てを裏で操っていた(そして物理的に解決していた)ことなど微塵も感じさせない、純度百パーセントの『弟の帰りを待っていた優しい姉』の笑顔を浮かべていた。
「うん、すごく楽しかったよ。……あ、これ。ねえさんにお土産」
拓也は、ポケットから小さな包みを取り出し、三月に手渡した。
中に入っているのは、道の駅で買った五百円の『星もぐら』のキーホルダーである。
「えっ……? お姉ちゃんに、お土産……?」
三月は、その小さなプラスチックのキーホルダーを受け取ると、ピタリと動きを止めた。
深緑色の瞳が、驚きに見開かれる。
「……拓也。これ、お小遣いの中から、お姉ちゃんのために選んで買ってくれたの……?」
「うん。大したものじゃないし、安いキーホルダーだけど……」
「…………ッ!!」
その瞬間、三月の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「う、うわあああんっ!! 拓也が、拓也が初めてのお泊り行事で、お姉ちゃんのこと思い出して、お土産買ってきてくれたぁぁぁっ!!」
三月は、星もぐらのキーホルダーを両手で包み込むように胸に抱きしめ、子供のように号泣し始めた。
「ちょっ、ねえさん!? 大げさだって! ただの五百円のキーホルダーだよ!?」
拓也が慌てて宥めようとするが、三月の感動はすでに振り切れていた。
「大したものだよ!! これはもう、ただのプラスチックじゃないの! 拓也の愛がいっぱい詰まった、世界で一番尊い宝物なんだから!! 家宝にする! ギルドの金庫に入れて、絶対零度の結界で永久保存する!!」
「お願いだからやめて!! ギルドの人が五百円の星もぐらを厳重保管させられる身にもなって! 普通にカバンとかにつけてよ!!」
その微笑ましい(?)姉弟のやり取りを、背後で見ていたクロエは、静かに涙を拭っていた。
(……ああ。お姉様のお言葉の通りですわ……。真の価値とは、魔力量や素材の希少さではない。捧げる者の『心』……。拓也様とお姉様の絆の前に、世界樹すらも霞んで見えます……ッ!!)
完全に宗教の領域に達したスパイ少女の祈りが、玄関に静かに響き渡る。
「よしっ! 拓也がいっぱい元気にお勉強できるように、今日はいーっぱい美味しいもの(※Aランク魔獣のフルコース)を作ってあげるからね!」
「ねえさん、お願いだから今日は普通のハンバーグとかにして……胃が……」
魔力を偽装する少年指揮官の、長くて胃の痛い林間学校は、こうして無事に幕を閉じた。
彼が『普通の中学生』として定時退社の市役所職員になれる日は、まだまだ遥か遠くのようである。
林間学校を乗り越え、さらに絆(とクロエちゃんの信仰心)が深まった如月姉弟の日常は、まだまだ続きます!
もし「林間学校編お疲れ様!」「五百円で号泣するお姉ちゃん可愛い(笑)!」「クロエちゃんの解釈一致!」と思っていただけましたら、
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