第285話:魂の昇華と、不可視の熱衝撃波(サーマル・ショック)
朝靄が晴れ始めた緑星山のふもとで、二年B組の生徒たちは班ごとのハイキング(沢登り)へと出発していた。
「すっげえ水が綺麗だぜ! 冷たくて気持ちいい!」
膝下まで川の水に浸かりながら、健太がはしゃいだ声を上げる。
「滑りやすいから気をつけてね、健太」
如月拓也は、学校指定のジャージの裾をまくり上げ、慎重に苔むした岩場を歩いていた。鉄山厳のナノマシンパーカーは防水・防汚機能も完璧なのだが、あまりにも水を弾きすぎると不自然になるため、今日はあえて機能をオフにしている。
「拓也様! 私がお手を引きますわ! 万が一にも拓也様のおみ足が滑り、この清流に沈むようなことがあれば、私は己の不甲斐なさを恥じて腹を切らねばなりません!」
拓也の隣では、アメリカから派遣された忠犬であるクロエ・アーヴィングが、軍の特殊部隊顔負けの鋭いステップで岩場を跳び回りながら、恭しく手を差し伸べてきた。
「アーヴィングさん、大げさすぎるよ。ただの沢登りなんだから、普通に歩いて……」
拓也が苦笑いしながら窘める。
昨日、カレーの一件で完全に三月の手のひらの上で転がされ、今や拓也の半径三メートル以内を絶対に死守する狂信的な護衛と化した彼女の存在は、頼もしくもあり、同時に拓也の胃痛の最大の原因でもあった。
そんな彼らの平和なハイキングを、遥か上空――雲の高さに匹敵する断崖絶壁の頂から、優しく見守る一つの影があった。
「ふふふーん♪ 拓也、お水遊び楽しそうだな」
淡いグリーンのワンピースの裾を風に揺らしながら、如月三月は、まるで自宅のベランダから庭を眺めるような穏やかな笑顔で眼下の渓谷を見下ろしていた。
彼女の深緑色の瞳は、数キロ先の拓也のまつ毛の瞬きすら正確に捉えている。
三月は、ふと自身のてのひらを太陽の光に透かして見つめた。
現在の彼女の強さは、かつて人類未踏の『始源の迷宮』第二十八層で、水晶獣の魂を喰らい『精神耐性(中)』を獲得した頃とは、すでに比較にならない次元へと到達している。
あの頃の彼女は、機動性に優れた漆黒のロングコートとインナースーツに身を包み、腰には鉄山厳の最高傑作である双極の魔刃『黒月』を佩いていた。極寒と爆熱を操るその剣は、間違いなく彼女の最凶の相棒だった。
しかし、彼女の運命を大きく変える『進化』は、それからずっと後のことだった。
迷宮のさらに深層。かつてないほど規格外に強大な存在の魂に飲み込まれ……深い暗闇の中で長い時間、完全に意識を失って眠りについていた、あの恐ろしい時期。
皮肉なことに、主の意識が完全に落ちていたその長い眠りの間に、彼女の固有異能『魂喰い(ソウルイーター)』は、それまで喰らってきた無数の能力の『完全な消化と最適化』を成し遂げてしまったのだ。
幻影や強酸といった不要な能力は無意識下で完全に棄却され、すべてのリソースが『魔力許容量の拡張(器の拡大)』と、基礎ステータスの底上げへと注ぎ込まれた。
『怪力』『俊敏』『堅牢』といった身体能力。物理干渉を瞬時にすり抜ける絶対回避『自動透過の理』。相反魔力を独立制御する『精密魔力循環』。それらすべてが、極上の魂を養分にして別次元の力へと進化を遂げ、彼女の肉体と完全に一体化した。
そして極めつけは、数ヶ月前。愛する弟・拓也と『極星』のメンバーたちが、世界の命運を懸けて【特異点】を破壊した時のことだ。
特異点の崩壊と共に、世界を覆っていた『魔力の天井』が吹き飛んだ。
限界を超えて無限に拡張し続けていた三月の『器』は、その時に世界中に降り注いだ莫大な星のエネルギーの余波すらも、無意識に呼吸するように飲み込んでしまったのである。
長い眠りの中での『能力の完全進化』と、特異点崩壊による『世界レベルのエネルギー吸収』。
この二つの事象を経て、現在の彼女は、もはやかつての愛剣『黒月』すら扱えなくなってしまった。専用鞘に施された強大な封印術式ですら、今の三月の常軌を逸した魔力密度に耐えきれず、彼女が柄に触れるだけで悲鳴を上げてひび割れてしまうのだ。
武器すらも己の器についてこれなくなった現在。
彼女の存在そのものが、もはや世界の理を置き去りにする次元へと到達していた。
「あ」
三月の【絶対知覚】が、上流の山肌の奥深くで起きた『異変』を捉えた。
昨晩、三月が放ったデコピン(超音速の小石)の余波によって地下水脈の地盤が僅かにズレていたこと、そして、そこに眠っていたBランクの泥魔獣の群れが刺激されたことが重なり、渓谷の上流で大規模な『鉄砲水(土石流)』が発生したのだ。
数千トンもの泥水と岩石が、木々をなぎ倒しながら、拓也たちのいる沢に向かって猛スピードで濁流となって押し寄せてくる。
「……マズいッ!!」
沢を歩いていた拓也の右眼『深層言語・限定解析』が、数秒後に迫る死の濁流を正確に弾き出した。
逃げ場はない。両サイドは切り立った崖であり、ハイキング中の中学生の足で登り切れる角度ではない。
「拓也様ッ!! 私の後ろへ!!」
クロエが、一瞬にしてエージェントの顔となり、拓也を庇うように前に出た。彼女の全身から、Sランク級に引き上げられた強大な魔力がオーラとなって噴き出そうとする。
(駄目だ! ここでアーヴィングさんが本気を出せば、俺たちの一般人偽装が健太たちに完全にバレる……!!)
拓也が絶望に歯噛みした、まさにその瞬間だった。
ドドドドォォォォォッ!!!!
鼓膜を破るような轟音と共に、視界を埋め尽くすほどの巨大な土石流が、拓也たちに牙を剥いた。
健太が悲鳴を上げ、クロエが魔力を解放しようとした――しかし。
彼らを飲み込むはずだった数千トンの泥水は、拓也たちの頭上わずか数メートルの空中で、まるで『見えない巨大なガラスの壁』にぶつかったかのように、ピタリと静止したのである。
「え……?」
健太が、空中に浮かび上がったまま静止している泥の滝を見上げて、間抜けな声を漏らす。
拓也とクロエだけは、その現象の正体を完全に理解し、戦慄と共に息を呑んだ。
彼らの頭上の空中に、いつの間にか、淡いグリーンのワンピースを着た三月が立っていたのだ。
濁流の直撃地点。しかし、三月の体には泥水の一滴、土砂の一粒すら触れていない。
『自動透過の理』――物理干渉を完全にすり抜ける進化した絶対回避の理が、数千トンの質量を彼女の体からすり抜けさせ、無効化している。
(……ねえさん……ッ!)
三月は、眼下の中学生たちに気づかれないよう、完璧な『魔力隠蔽』を施したまま、空中で優雅に両手を広げた。
進化した『精密魔力循環』と『多重並列処理』による、相反魔力の独立制御。
彼女は右手で『重力』を反転させて土石流の落下を空中で押し留め、左手で『流体』を操作して泥水のベクトルを上空へと固定していた。
かつては『微〜小』程度だったその操作系スキルは、特異点崩壊のエネルギーを吸収して進化した今、山一つ分の質量すら指先一つで手玉に取る神の御業へと昇華されている。
(拓也のお洋服が泥だらけになっちゃったら、お洗濯が大変だもんね)
三月は、宙に浮かせた巨大な土石流の塊に向かって、クスリと微笑んだ。
そして、剣を持たない素手のまま、空中でパチン、と指を鳴らす。
発動するのは、かつて愛剣『黒月』を用いて放っていた必殺技。
属性魔法の『氷結(真)』と『爆熱(微)』を同時付与し、相反する属性の衝突によって対象の分子構造を極限から極限へと叩き落とす絶死の術式。
――『熱衝撃波』。
現在、武器を必要としなくなった三月は、それを『素手の指鳴らし一つ』で、しかも不可視の広域魔法として発動させた。
ピキィィィィィンッ!!!!
空中に静止していた数千トンの土石流が、絶対零度の『氷結(真)』によって一瞬にして巨大な氷の塊へと変わる。
直後。
ボワァァァァァァァンッ!!!!
内側に仕込まれた『爆熱』が解放され、急激な温度変化(熱膨張)に耐えきれなくなった巨大な氷の塊は、内側から完全に粉砕・気化された。
泥も、岩も、巻き込まれていた魔獣たちも、すべてが細胞・分子レベルで分解され、空中でサラサラとした無害な『水蒸気』と『光の粒子』へと変換されていく。
「…………っ!!??」
沢に立っていた拓也は、その常軌を逸した光景を前に、呼吸をするのも忘れて全身から脂汗を噴き出していた。
(あり得ない……! いくらなんでもデタラメすぎる!!)
拓也の右眼が、空中で起きた事象を解析しようとして、限界を超えた熱を持ち始める。
(ねえさん、今、素手で指を鳴らしただけだぞ!? 詠唱も、魔法陣の展開も、触媒となる魔鋼剣も無しで……数千トンの質量に対して『熱衝撃波』を広域発動させたのか!?)
すでに、日本の神宮寺や九条、アメリカのレオンといった『極星』のトップランカーたちや、ギルドの上層部の一部は、姉である三月のことを『絶対に関わってはいけない歩く厄災』として認識している。それは拓也も十分に理解していた。
だからこそ、今更ただの一般人や下っ端の探索者が姉の力に気づいて警戒しようがしまいが、どうでもいいレベルの話ではあるのだ。
だが。
(……トップランカーの連中が知っている『最強』すらも、今のねえさんは完全に置き去りにしている! 物理法則を素手で書き換えるようなこんな神の御業を見られたら、連中はねえさんを『厄災』どころか『本物の神』として崇め奉りかねない!!)
拓也の胃が、ギリリと音を立てて激しい痛みを主張し始めた。
(そして、その『生ける神』の唯一の手綱を握っているのは俺だ。……もしギルド本部にねえさんの現在のデタラメなステータスがバレたら、俺は『市役所の一般職員』どころか、『神の代弁者(教皇)』みたいな意味不明な役職に祭り上げられるぞ!!)
拓也の視線の先では、クロエが岩の上に膝をつき、空に向かって涙を流しながら熱烈な祈りを捧げ始めていた。
「ああっ……! またしても三月お姉様の神域の御業が……! 音も光もなく、天災すらも一瞬にして美しい虹へと変えてしまわれるとは……! 愛剣すら不要とするあの究極の力……お姉様こそ、この地球の創造主……ッ!!」
(ほら見ろ!! もうすでに、一人完全に宗教の信者みたいになってる奴がいる!! 神宮寺さんやレオンさんたちがこれを見たら、絶対に『極星』全体がねえさんを崇めるカルト教団みたいになる!!)
拓也は、自分の夢である『定時で帰ってコタツでみかんを食べる平穏な生活』が、姉の神格化によって音を立てて崩れ去っていく幻覚を見て、顔面を蒼白にさせた。
「な、なんだこれ……?」
隣で健太が、空からキラキラと降り注いできた光の粒子(ただの水蒸気)を見上げて、呆然と呟いた。
進化した熱衝撃波によって発生した水蒸気は、夏の太陽の光を反射し、渓谷の空に信じられないほど美しく、巨大な『虹』を描き出していたのだ。
「すっげえ……! 山の天気って不思議だな! 急に霧が出たと思ったら、こんなでっかい虹が出るなんて!」
健太は、数秒前まで自分が土石流に飲み込まれかけていたことなど微塵も気づかず、純粋な中学生としての感動に目を輝かせている。
「あ、ああ……。そうだね。本当に、不思議な自然現象だ……」
拓也は、胃痛に顔を歪めながら、空に架かった虹の奥で小さく手を振って神速で飛び去っていく姉の姿を見つめ、必死に『ただの中学生』の笑顔を顔面に貼り付けた。
長い眠りと特異点の崩壊を経て、あらゆる能力を極限まで進化させ、もはや神の領域に足を踏み入れた最強の姉。
彼女の異常すぎる進化を隠し通さなければ、自分の一般人としての未来はない。
魔力を持たない少年指揮官の林間学校は、美しい虹と、限界を超えた激しい胃痛と共に、二日目の午後へと続いていくのであった。
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