第284話:夜のオリエンテーリングと、暗闇の絶対捕食者
緑星山の夜は、都会のそれとは比べ物にならないほどの深い漆黒に包まれていた。
木々のざわめきと、遠くで鳴くフクロウの声だけが響く静寂の森。
その森の奥深く、地上から数十メートルの高さにある巨大な杉の木の枝に、淡いグリーンのワンピースを着た絶世の美女――本作の主人公である如月三月は、ふわりと腰掛けていた。
「ふふふーん♪ 夜の森って、涼しくて気持ちいいなぁ」
三月は、ご機嫌な様子で夜風に髪を揺らしながら、眼下に広がる県立ロッジの敷地を見下ろしていた。
彼女の深緑色の瞳――【絶対知覚】を備えたその眼には、暗闇など何の意味も持たない。数キロ先の落ち葉の裏にいる虫の動きすら、白昼のように鮮明に捉えることができるのだ。
彼女の視線の先には、夕食のカレー作りを終え、ロッジの広場に集まっている中学生たちの姿があった。
これから、林間学校の夜のメインイベントである『夜のオリエンテーリング(肝試し)』が始まろうとしているのである。
「あっ、拓也だ。クロエちゃんに入れてもらったスパイスのおかげで、とっても元気そう! よかったよかった!」
三月が嬉しそうに微笑む視線の先。
彼女の愛する弟である如月拓也は、文字通り『元気そう』であった。
なにせ、昼間のカレーに三月特製の劇薬スパイス(Aランク変異種の魔核粉末)を振りかけられたせいで、拓也の体からは微弱な赤い光(オーバーフローした魔力エネルギー)が、オーラのように立ち上っていたのだから。
「……あ、あつい。体の内側から、マグマみたいな力が湧き上がってくる……」
広場の隅で、拓也は鉄山厳特製の『二千円の無地パーカー(ナノマシン装甲)』の襟元をパタパタと扇ぎながら、滝のような汗を流していた。
「如月、お前めっちゃ汗かいてるぞ!? 大丈夫か? カレー食いすぎたのか?」
同じ班の健太が、懐中電灯を片手に不思議そうに覗き込んでくる。
「う、うん。ちょっとカレーが辛かったみたいで……」
拓也は必死に愛想笑いを浮かべた。
打撃力『2』というひ弱な肉体に、Aランク魔核のエネルギーを直接ぶち込まれたのだ。普通の中学生ならとうに細胞が破裂しているところだが、拓也が特異点で鍛え上げた精神力と、パーカーの自律防衛システムがギリギリのところで均衡を保っていた。
「拓也様……! その溢れんばかりの生命力、まるで夜闇を照らす太陽のようですわ……!」
拓也の隣では、アメリカの天才スパイから完全に『三月の忠犬』へとクラスチェンジを果たしたクロエ・アーヴィングが、うっとりとした表情で両手を組んでいた。
「アーヴィングさん……頼むから、これ以上ねえさんのスパイスを俺の皿に入れないでね。俺、今なら素手で岩を砕けそうな気がするんだけど、それやったら一般人カモフラージュが完全に終わるから……」
拓也は、ズキズキと痛む胃と、無駄に漲る筋肉のエネルギーを持て余しながら、小声でクロエに釘を刺した。
「――よし、各班、懐中電灯の確認はできたな?」
担任の鈴木先生が、拡声器を持って生徒たちに呼びかける。
「これから指定された森のルートを歩き、三つのチェックポイントでスタンプを押して戻ってくること。絶対にルートから外れないように!」
ピーッ! というホイッスルの音と共に、班ごとの夜のオリエンテーリングが開始された。
拓也たち第三班も、懐中電灯の頼りない光を頼りに、漆黒の森の遊歩道へと足を踏み入れていく。
「うわー、夜の森ってマジで暗いな……。なんか出そうぜ」
健太が、少しビビりながら周囲を見回す。
「大丈夫だよ、健太。俺たちがついてるから」
拓也は、体内で暴れ回るAランクのエネルギーを消費するために、あえて班の先頭に立ち、ズンズンと力強い足取りで歩き始めた。
しかし、その拓也の『溢れ出る魔力オーラ(赤い発光)』は、漆黒の森において、あまりにも強烈な誘蛾灯となっていた。
「……あら?」
上空の木の枝で監視を続けていた三月は、小首を傾げた。
拓也の放つ美味しそうな魔力の匂いに惹きつけられ、緑星山の奥深くにあるCランク迷宮から、夜行性の魔獣たちが次々と這い出し、遊歩道に向かって猛スピードで接近してきていたのだ。
巨大な毒グモの群れである『ポイズン・タランチュラ(Dランク)』。
鋭い爪を持つオオカミ型の魔獣『シャドウ・ウルフ(Cランク)』。
それらが、木々の間を縫うようにして、拓也たち中学生の班へと殺到していく。
「もう。夜の森には、悪い虫さんがいっぱいいるんだから」
三月は、困ったような、しかしどこまでも穏やかな笑顔のまま、ふわりと木の枝から飛び降りた。
一切の魔力を使わない、純粋な身体能力のみによる跳躍。彼女の体は重力すら無視しているかのように、音もなく夜の森を滑空していく。
(拓也は今、平和な学校行事を楽しんでるの。脅かしたり、怪我をさせたりする悪い子たちは……お姉ちゃんが、ぜーんぶお掃除してあげる)
シュンッ!!
三月の姿が、月明かりの下で完全にブレて消失した。
音速を遥かに超える神速の移動。彼女は、遊歩道に近づこうとしていた数十匹の『ポイズン・タランチュラ』の群れの中心に、文字通り『瞬間移動』のような速度で降り立った。
「ギシィッ!?」
タランチュラたちが、突如現れた獲物(三月)に向かって毒液を吐き出そうとした、その瞬間。
三月は、淡いグリーンのワンピースの裾を翻し、まるでダンスを踊るような優雅な動きで、その場をクルリと一回転した。
スパンッ!!
彼女が回転の勢いに乗せて放った『ただの手刀(物理)』が、周囲の空気を圧縮し、目に見えない真空の刃となって全方位に放たれた。
数十匹の巨大な毒グモたちは、悲鳴を上げる間もなく、一瞬にして細胞レベルで両断され、森の腐葉土の上に音もなく崩れ落ちた。
「はい、一丁上がり!」
三月は、返り血を一滴も浴びることなく、そのまま次の標的へと向かって木々を蹴った。
シャドウ・ウルフの群れが、拓也の班の数十メートル先まで迫っていた。
しかし、彼らが茂みから飛び出そうとした瞬間、その首根っこを、白く滑らかな『手』が優しく、しかし絶対的な力で掴み上げた。
「キャウンッ!?」
「しーっ。拓也たちがびっくりしちゃうから、静かにね」
三月は、人差し指を唇に当てて微笑むと、手首のスナップだけでCランク魔獣の首の骨を『ポキッ』と外し、即死させた。
そのまま数頭のウルフたちを超高速の連続手刀で気絶(物理的な永遠の眠り)させ、遊歩道の外へとポイポイと放り投げていく。
彼女の動きには、一切の魔力も、殺気すらも伴わない。
ただ純粋な『圧倒的強者による日常的な害虫駆除』であるため、森の生態系はパニックを起こすことすら許されず、ただ静かに削り取られていくのみだった。
一方、その頃。
遊歩道を歩く拓也は、背筋に強烈な悪寒を感じて足を止めた。
「如月? どうした、なんかいたか!?」
健太がビクッとして懐中電灯を向ける。
「いや……なんでもない。ただ、森の中が『静かすぎる』気がして」
拓也は、右眼の眼帯越しに周囲の森をスキャンした。
数分前まで、確かに遠くの茂みに何らかの野生動物(あるいは魔獣)の気配があったはずなのに、それが今、拓也たちの半径百メートル圏内から『完全に消滅』しているのだ。
(……間違いない。ねえさんが、俺たちの周りの森を『無菌室』みたいに掃除して回ってる……ッ!!)
拓也は、森の奥で繰り広げられているであろう、姉の理不尽すぎる単独無双を想像し、胃液が逆流しそうになった。
さらに、隣を歩くクロエが、森の暗闇に向かって恍惚とした表情で祈りを捧げ始めていた。
「ああっ……! 素晴らしい……! 葉擦れの音一つ立てず、魔力の痕跡すら残さずに、数十体の魔獣を瞬殺していくあの神域の暴力……! 三月お姉様……! あなた様こそ、真の絶対捕食者ですわッ!!」
クロエのSランク級に跳ね上がった探知能力だけが、三月のデタラメな暗殺劇を正確に読み取り、完全に信仰の対象として崇め奉っていた。
「アーヴィングさん、怖いから空に向かって祈らないで……。健太が怯えてるから」
拓也が小声でツッコミを入れる。
(それにしても、俺の体内で暴れ回ってるこの魔力……どうにかして消費しないと、本当に夜も眠れないぞ)
拓也は、Aランク魔核のエネルギーを安全に捨てる方法を必死に考えた。
物理的な運動で消費すれば、木を素手でへし折ってしまう。
ならば、脳(魔法演算)で消費するしかない。
(……仕方ない。チート能力の無駄遣いだが、やるしかない!)
拓也は、右眼を覆う眼帯にそっと手をかけ、それを上に数ミリだけずらした。
瞳の奥に、青い演算陣が浮かび上がる。
『深層言語・限定解析』――強制フルバースト起動。
対象:【この森に生えているすべての木の葉の枚数のカウント】および【風の軌道計算による明日の天気予報の完全シミュレート】。
戦場において、数万の軍勢の動きを完全に支配するための神の演算能力。
それを、拓也は『ただの葉っぱの枚数を数える』という全く無意味なタスクに全力を注ぎ込み、脳内の魔力回路を強制的にフル回転させたのだ。
「ぐぅぅぅッ……!!」
拓也の脳に、凄まじい情報処理の負荷がかかり、体内で暴走していたAランク魔核のエネルギーが、急速に計算リソースとして消費されていく。
「お、おい如月!? 急に頭抱えてどうした!? 腹痛いのか!?」
健太が慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫……。ちょっと、明日の天気を予想してただけだから……。ハァ、ハァ……」
数分後。
完全に魔力を使い果たし、ほどよい疲労感(賢者タイム)に包まれた拓也は、ようやく赤い発光を止め、いつもの『ひ弱な中学生』のステータスへと戻ることに成功した。
「ふぅ……。これでようやく、普通に眠れそうだよ」
拓也は、安堵の息を吐きながら、チェックポイントのスタンプを押した。
「ふふっ、拓也たち、無事にスタンプ押せたみたいだね!」
すべての魔獣を完全に排除し終えた三月は、ロッジの屋根の上にふわりと舞い降り、楽しげに笑いながら弟たちの班が帰ってくるのを見守っていた。
彼女の周囲には、一切の危険が排除された、完璧に安全で平和な林間学校の夜が広がっている。
「拓也が楽しく学校行事を過ごせるように、お姉ちゃん、明日もいっぱい見守っててあげるからね!」
魔力を持たない少年指揮官の平和な林間学校は、過保護な最強の主人公(姉)による完璧なステルス護衛と、無駄遣いされたチート能力によって、初日の夜を無事に(?)乗り越えたのであった。
林間学校の夜、拓也の放つカレーパワー(Aランク魔核のオーラ)に引き寄せられた魔獣たちを、三月お姉ちゃんが暗闇の中で完全無音のお掃除をして回るお話でした。
神業の暗殺術で森を無菌室に変えてしまう最強の姉と、それを感知してさらに信仰心を深めるクロエちゃん。そして、あり余る魔力を安全に消費するためにチート能力で「葉っぱの枚数を数える」という究極の無駄遣いをした拓也。無事に初日の夜を乗り越えられて一安心ですね。
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次回、林間学校二日目も如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




