第274話:指揮官のテスト勉強と、Sランクたちの異常な家庭教師
週末の日曜日。
東京の閑静な住宅街にある如月家の二階。拓也の自室には、初夏を思わせる爽やかな風が窓から吹き込んでいた。
机の上には、中学校の国語、数学、理科、社会、英語の教科書と、大量のプリントが山積みにされている。
「……よし。市役所の職員になるためには、まずは目の前の期末テストで上位の成績をキープしなきゃな」
如月拓也は、シャープペンシルを握りしめ、静かに闘志を燃やしていた。
特異点でのバエル討伐や、ギルドの適性検査での「魔力ゼロ偽装」など、数々の修羅場を乗り越えてきた彼にとって、普通の中学校のテスト勉強など平和そのものである。
右眼の『深層言語・限定解析』を使えば一瞬ですべてを暗記・理解できるが、それは脳に負担がかかる上に「普通の学生生活」を楽しむという彼のポリシーに反する。
今日は、魔力も異能も使わず、ただの中学生として真面目に机に向かう日だ。
そう決意して、数学の問題集を開いた、その時だった。
「たーくやっ! お友達が遊びに来たよー!」
一階のリビングから、姉の三月の明るい声が響いた。
「お友達? 健太かな」
拓也は不思議に思いながら階段を降り、リビングへと向かった。
しかし、そこに立っていたのは、同級生の健太ではなかった。
はち切れんばかりの筋肉を窮屈なカジュアルシャツに押し込んだ巨漢と、真っ赤な髪を後ろに流した派手な男。
日本のトップランカーにして、日米南米合同遠征軍『極星』の主力である、神宮寺蒼太と九条炎樹の二人組であった。
「……なんで、あんたたちがウチにいるんですか」
拓也の顔から、一瞬にして平和な中学生の表情が消え去り、胃痛を堪えるような指揮官の顔へと戻った。
「おお! 指揮官殿! お邪魔しております!」
神宮寺が、分厚いバインダーを小脇に抱えながら、ビシッと直立不動で敬礼する。
「お前が『公務員になるために勉強する』って聞いてな。俺たち極星の総力を挙げて、若大将のテスト勉強をサポート(家庭教師)しに来てやったんだよ!」
九条が、ドヤ顔で大量の参考書(なぜかすべて大学の専門書レベル)をテーブルにドンッと置いた。
「いや、頼んでませんよ! 中学校のテスト勉強くらい、自分でやりますから帰ってください!」
拓也が全力で拒絶しようとしたが、キッチンからお茶を持ってきた三月がニコニコと笑いながら口を挟んだ。
「いいじゃない拓也。神宮寺さんたち、拓也のためにわざわざ教えてくれるって言うんだから。お姉ちゃん、拓也がいっぱいお勉強して立派な市役所のお兄さんになるの、応援してるよ!」
「…………」
世界最強のブラコン姉にそう言われてしまえば、神宮寺たちを無碍に追い返すわけにもいかない。三月の機嫌を損ねれば、この家が物理的に更地になりかねないからだ。
「……分かりました。でも、本当に中学校の試験範囲だけですからね。変なことは教えないでくださいよ」
拓也は、深い溜め息を吐きながら、リビングのテーブルに教科書を広げた。
「よし! それではまず、俺が『物理・数学』の分野を担当させていただこう!」
神宮寺が、黒縁の伊達メガネをクイッと押し上げながら、ホワイトボード(どこから持ってきたのか)の前に立った。
「問題だ、指揮官殿。体重五十トンのAランク魔獣『突進猪』が、時速二百キロで味方の後衛に向かって突進してきたとする。この時、前衛の盾使い(タンク)である俺が、魔獣の運動エネルギーを完全に殺しつつ、後方への衝撃波をゼロにするためには、地面に対して何度のアングルでシールドを構え、どれだけの魔力反発を発生させればよいか?」
神宮寺が、真剣な顔でホワイトボードに複雑な力学の図式を書き込み始める。
「……神宮寺さん。それは中学校の物理じゃありません。ただのSランクの戦闘シミュレーションです。テストに出るのは『台車を斜面から転がした時の速さ』とかそういうのです」
拓也が、死んだ魚のような目でツッコミを入れる。
「な、なんと!? 台車だと!? そんな軽い物体を転がして何の意味があるというのだ! 日本の教育機関は前線の実態を全く理解していない!!」
神宮寺が、本気で日本の義務教育のレベルに絶望して頭を抱えた。
「はいはい、筋肉バカはすっこんでろ。次は俺が『化学』を教えてやるよ」
九条が、神宮寺を突き飛ばして前に出た。
「いいか若大将。市役所の職員たるもの、いざという時の『強制捜査』や『障害物の排除』の知識は必須だ。今日は特別に、厚さ五十センチの魔法合金の金庫を、音もなく溶かして突破するための『酸性魔薬の調合比率』を教えてやる」
九条が、スーツのポケットから、ドクロのマークが描かれた怪しげな小瓶をいくつか取り出し、テーブルの上で混ぜ合わせようとする。
「九条さん、ストップ!! ウチのテーブルが溶けます!! それに、市役所の職員は金庫破りなんてしません!! 警察かギルドの仕事です!!」
拓也は慌てて九条の手を掴んで制止した。
このままでは、テスト勉強どころか、家がテロリストの爆弾製造所になってしまう。
「……はぁ。やっぱり、あんたたちに一般常識を求めた俺が馬鹿だった」
拓也が胃薬を欲していると、突然、テーブルの上に置かれていた神宮寺のスマートフォンの画面が光り、ビデオ通話の着信音が鳴り響いた。
『Hey!! ヤング・ボス!! 勉強は捗ってるかァイ!?』
画面の向こうから、アメリカ支部を代表するSランク探索者、レオン・カーターの暑苦しい笑顔と、星条旗を背景にした彼の鍛え抜かれた上腕二頭筋が飛び出してきた。
「レオンさん……。あんたまで何なんですか」
拓也がウンザリした顔で画面を覗き込む。
『OH! ボスが公務員になるための試験を受けると聞いて、このレオン様が本場の【実践英語】を教えるために通話を繋いでおいたのサ!』
レオンが、画面越しにサムズアップを決める。
「……ちなみに、どんな英語ですか?」
嫌な予感しかしない拓也が尋ねる。
『市役所の窓口で、モンスタークレーマー(市民)が暴れた時に使う必須フレーズだ! リピート・アフター・ミー!
【Stand down immediately, or you will be neutralized!】(直ちに武器を捨てて降伏しろ、さもなくば無力化する!)』
「市役所の窓口は戦場じゃないんですよ!! なんで初手で射殺許可が出てるんですか!!」
拓也のツッコミがリビングに虚しく響き渡る。
『NO、ボス! さらに敵が多数の場合はこうだ!
【Target acquired! Requesting danger close artillery strike!】(目標捕捉! 至近距離への砲撃支援を要請する!)』
「だから市役所から空爆要請しないでください!!」
極星のトップランカーたちにとっての「日常会話」は、すべてが致死性の戦闘用語で構成されている。彼らの常識は、血で血を洗う最前線でしか通用しないのだ。
「はい、みんな! お勉強頑張ってるから、おやつを持ってきたよー!」
混沌とするリビングに、三月がお盆を持って現れた。
お盆の上には、可愛らしいウサギの形にカットされた「赤いリンゴ」のような果物が並べられている。
「おお! 三月殿のお手製おやつ! ありがたくいただきます!」
神宮寺が、真っ先にそのウサギ型の果物を手に取り、ガリッと音を立ててかじった。
「……あれ? 三月殿、このリンゴ……異常に硬いうえに、微かな魔力を帯びているような……」
神宮寺が、自身の強靭な顎の力で咀嚼しながら不思議そうに呟く。
「あ、それね、昨日迷宮で採ってきた『アイアン・アップル(Bランク魔獣の主食)』だよ! 鉄みたいに硬いから、普通の包丁じゃ切れないんだけど、お姉ちゃんがちょっと本気で『音速の皮むき』をしたら、綺麗にウサギさんになったの!」
三月が、ニコニコと笑いながら自慢の果物を勧める。
「……ッ!? い、いや、いくら俺たちでも、Bランクの鉱物植物を生で食ったら胃腸が……ゴフゥッ!?」
九条が、一口かじった瞬間に歯茎から血を流し、悶絶してテーブルに突っ伏した。
画面越しのレオンは「OH……ジャパニーズ・ニンジャ・アップル……」と呟いて青ざめている。
「……ねえさん。普通のお菓子でよかったのに」
拓也は、悲惨な光景を前に、完全に勉強へのモチベーションを失っていた。
(駄目だ。このままじゃ、テスト勉強どころか俺の精神が持たない。……少しだけ、チートを使わせてもらおう)
拓也は、右眼を覆う眼帯にそっと手をかけ、それを上にずらした。
瞳の奥に、青い演算陣が浮かび上がる。
『深層言語・限定解析』――起動。
拓也は、テーブルの上に広げられた五教科の教科書を、パラパラと一瞬でめくっていった。
一冊につき、わずか数秒。
彼の脳は、ページのすべての文字、図式、数式を完全に画像として読み込み、完璧な記憶として定着させていく。
バエル戦のような極限の戦術演算ではないため、脳への負荷は軽い頭痛程度で済む。
「……ふぅ。よし、終わった」
拓也は、わずか一分足らずで全教科の試験範囲を脳内にダウンロードし終え、眼帯を元に戻した。
「えっ? 指揮官殿、終わったとは……?」
歯を押さえて蹲っていた九条が、不思議そうに顔を上げる。
「全部暗記しました。今回の期末テストは、全教科満点を取れます。だから、もう家庭教師は必要ありません。お疲れ様でした。帰ってください」
拓也が、教科書を綺麗に重ねながら、有無を言わさぬ冷徹な指揮官のプレッシャーを放つ。
「な、なんと!? わずか一分で、分厚い教本をすべて暗記したと!? さすがは若大将だ!! 俺たちの教えを瞬時に昇華させたというわけだな!!」
神宮寺が、全く教えていないにも関わらず、都合よく解釈して感動の涙を流し始めた。
『YES!! ボスの頭脳はスーパー・コンピューターだ!! これでシティー・ホールのデスクワークも完璧だな!!』
レオンも画面の向こうで拍手喝采を送っている。
「……はいはい。そうですね。お陰様で完璧です」
拓也は、ズキズキと痛む頭と胃を押さえながら、彼らを玄関へと追い立てた。
「じゃあねー! また遊びに来てねー!」
三月が、アイアン・アップルをかじりながら無邪気に手を振って見送る。
嵐のようなSランクの家庭教師たちが去り、ようやく静けさを取り戻した如月家。
魔力を持たない十四歳の休日は、チート能力(限定解析)を日常のテスト勉強に無駄遣いするという、ささやかな敗北感と共に幕を閉じたのであった。
「……市役所に入っても、窓口に神宮寺さんたちが来たらどうしよう……」
少年指揮官の平穏な未来は、まだまだ遠そうである。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




