第270話:砕け散った水晶の弁償と、受付嬢の新たな胃痛(国宝級)
「……はぁぁぁぁぁぁ……」
月曜日の放課後。
東京の閑静な住宅街にある如月家のリビングで、如月拓也は、ソファーに深く沈み込みながら、今日何度目か分からない特大の溜め息を吐き出していた。
「ごめんね、拓也。お姉ちゃん、ちょっと触っただけなんだけど、あのガラス玉、すごく脆かったみたいで……」
姉の如月三月が、ウサギのぬいぐるみの耳を弄りながら、珍しくしゅんとした顔で謝っている。
「ねえさんのせいじゃないよ。……いや、物理的には完全にねえさんのせいなんだけど。悪気はなかったんだから仕方ないさ」
拓也は、ズキズキと痛む胃を押さえながら、力なく笑った。
学校での適性検査は、その後どうにか「機材の老朽化による自壊」という(紫堂は完全に腰を抜かして震えていたため反論できなかった)強引な理由で処理され、拓也たちは逃げるように帰宅した。
しかし、問題はその後だ。
ギルドが持ち込んだ最新鋭の魔力測定用水晶玉は、ウン千万円は下らない超高級精密機器である。
それを「自壊しました」で済ませられるほど、ギルドの経理部門も甘くはないだろう。
(……間違いなく、現場の責任者だった大吾さんか、あるいはいつも俺たちの事後処理を押し付けられている結衣さんのところに、莫大な損害賠償の始末書が回っているはずだ)
特異点で世界を救ったとはいえ、拓也の根っこは義理堅い小市民である。
自分たち(姉)が壊してしまったものの責任を、日頃から胃を痛めながらも味方をしてくれている大人たちに押し付けることなど、彼の指揮官としてのプライドが許さなかった。
「……ねえさん。やっぱり、あの水晶玉の弁償をしよう」
拓也が顔を上げ、真剣な眼差しで三月を見た。
「弁償? でも、ウン千万円もするんでしょ? この間、お父さんたちにペンダント買っちゃったし、レオンさんからの臨時収入はもう使い切っちゃったよ?」
「お金で払うわけじゃない。ギルドが一番欲しがるのは、純度の高い『魔獣の魔石』だ。……今日の夕方から、ちょっとだけ迷宮に潜って、あの水晶玉と同等……いや、それ以上の価値がある魔石を採ってきて、ギルドに匿名で送りつけよう」
「わぁ! 久しぶりの迷宮デートだね! お姉ちゃん、頑張る!」
三月が、パァッと顔を輝かせて立ち上がった。
かくして。
魔力を持たない少年指揮官と、世界最強の姉による「数千万円の借金返済(物理)ミッション」が幕を開けたのである。
――その日の夕暮れ。東京郊外、Bランク指定迷宮『瑠璃の結晶洞窟』。
ここは、内部のすべてが美しい青色の水晶で構成されている、非常に魔力濃度の高いダンジョンである。
出現する魔獣も厄介なものが多く、通常はベテランのパーティが念入りな準備をして挑む場所だ。
しかし、そこに現れたのは、見た目は二千円の黒いパーカー(中身は戦車砲を弾くナノマシン装甲)を着た眼帯の少年と、私服の白いワンピースを着た絶世の美女の二人組であった。
「……よし。このパーカーのステルス機能、迷宮内でも完璧に動作してるな」
拓也は、周囲の魔獣が自分たちに全く気づかず素通りしていくのを見て、鉄山厳の狂気的な技術力に改めて感心した。
魔力を一切外に漏らさないため、視覚以外の探知能力に頼る魔獣にとっては、拓也たちは「背景の石ころ」と同義なのだ。
「拓也、あっちにすっごく大きくてキラキラしたのがいるよ!」
三月が、洞窟の奥を指差して無邪気に笑う。
拓也が右眼の眼帯をスッと上にずらす。
『深層言語・限定解析』が起動し、青い光に包まれた巨大な魔獣のステータスを読み取った。
(……Bランク変異種『クリスタル・ゴーレム・エンペラー』。全身が高純度の魔力水晶で構成された希少種だ。……あいつの胸の奥にある『大魔核』なら、ギルドの測定器の十倍以上の価値がある)
「ねえさん、目標はあいつだ。ただ、普通に殴って粉砕しちゃうと魔核まで砕けちゃうから、胸の中心だけを綺麗に抜き取ってほしい」
拓也が、いつものように冷静な指揮官の声で指示を出す。
「はーい! 綺麗にスポンッて抜けばいいんだね!」
三月は、一切の魔力を使うことなく、風のように音もなくクリスタル・ゴーレム・エンペラーの懐へと滑り込んだ。
ゴーレムが侵入者に気づき、巨大な水晶の腕を振り上げようとした、その時。
三月の右手が、ゴーレムの分厚い水晶の胸部装甲に、まるで水面に手を入れるかのようにスゥッと沈み込んだ。
「いただきます。――『魂喰い(ソウル・イーター)』」
物理的な破壊ではなく、魔獣の魂と結合している魔力の結節点だけを、漆黒の波動でピンポイントに切断する神業。
三月が右手を引き抜くと、そこにはソフトボールほどの大きさの、眩いばかりの青い光を放つ『エンペラー・コア』が握られていた。
「ギ、ゴォォォ……ッ」
魔力供給を絶たれたクリスタル・ゴーレム・エンペラーは、一切の抵抗もできぬまま、ただの美しいクリスタルの石像となってその場に沈黙した。
「ほら拓也! 傷一つつけずに採れたよ!」
三月が、キラキラと輝く魔核を誇らしげに掲げる。
「ありがとう、ねえさん。完璧な仕事だ。……よし、これで結衣さんたちの胃痛も治まるはずだ。急いで宅配便でギルドに送ろう」
拓也は、安堵の息を吐きながら、数億円の価値がある国宝級の魔石を、持参した適当な布袋に無造作に放り込んだ。
翌日の午前。東京・霞が関の探索者協会本部。
受付カウンターの奥にある事務室では、佐藤結衣が、デスクに山積みになった書類を前に、死んだ魚のような目でボールペンを握りしめていた。
「……なんで……なんで数千万円の最新鋭測定器が、中学校の体育館で粉々に砕け散るんですか……。大吾さんは『神の怒りに触れた』とか言って気絶したまま休職しちゃうし、紫堂さんは『あの女は物理法則を超越している』ってブツブツ言いながら引きこもっちゃうし……」
結衣のデスクにあるのは、ギルドの上層部に提出するための『機材損壊の始末書』と『損害賠償の稟議書』である。
彼女は、あの「魔力値ゼロ」の眼帯の少年と、「触れただけで水晶を粉砕した」白いワンピースの美女の仕業であると確信していた。しかし、それをそのまま報告書に書けば、今度は「受付嬢の精神異常」を疑われてしまう。
「はぁ……もう、胃に穴が空きそうです……」
結衣が、引き出しから胃薬を取り出そうとした、その時だった。
「佐藤さーん! 受付宛に、匿名で荷物が届いてますよー!」
同僚の職員が、小さな段ボール箱を持って事務室に入ってきた。
「匿名で? 私宛にですか?」
結衣は不思議に思いながら、その軽い段ボール箱を受け取り、カッターでテープを切った。
中には、緩衝材のプチプチに包まれたソフトボール大の丸い石と、一枚の便箋が入っていた。
『結衣さんへ。
昨日はうちの姉がギルドの機材を壊してしまい、本当に申し訳ありませんでした。
大吾さんにも迷惑をかけてしまったと思うので、お詫びとしてこの魔石を送ります。
適当に売却して、機材の弁償代に充ててください。
差出人:とあるFランクのポーターより』
「……拓也さま……!!」
結衣は、手紙の差出人を見て、思わずホロリと涙をこぼした。
あの規格外の姉弟は、ちゃんと自分たちに迷惑がかかっていることを理解し、こうして弁償の品を送ってきてくれたのだ。
「なんてお優しい……。さすがは世界を救った少年指揮官です。……でも、適当な魔石って言っても、数千万円の機材の弁償にはちょっと……」
結衣は、手紙を置き、プチプチの緩衝材を開いた。
フワァァァァァァァァァッ……!!!!
その瞬間。
事務室の中に、目を開けていられないほどの強烈で、かつ極めて純度の高い青色の魔力光が弾けた。
部屋中の観葉植物が一気に成長し、蛍光灯が魔力干渉でバチバチと明滅を始める。
「なっ……!? な、なななな、なんですかこの凄まじい魔力は!!」
同僚の職員が悲鳴を上げて腰を抜かす。
結衣は、箱の中にあるその「石」を見て、完全に思考が停止した。
ギルドの受付嬢として、数多のレア素材を見てきた彼女の眼には、それが何であるか一瞬で理解できた。
(……Bランク変異種、クリスタル・ゴーレム・エンペラーの『完全無傷の特大魔核』……!? ど、どうしてこんな国宝級の、オークションに掛ければ数億円は下らない伝説の素材が、ただの段ボール箱に入って送られてくるんですかァァァァッ!?!?)
「そ、そそそ、総本部長を呼んでくださぁぁぁいッ!! 超弩級の緊急事態です!!」
結衣の悲鳴が、ギルド本部に木霊した。
数千万円の借金を返すために、数億円の国宝を適当に送りつける。
少年指揮官の不器用な誠意と、最強の姉の規格外な戦闘力が生み出したその「お詫びの品」は、結衣の胃痛を治めるどころか、ギルド全体を巻き込む『新たなストレス(超重要アイテムの保管責任)』へと姿を変えたのであった。
魔力を持たない少年指揮官の平穏な日常は、遠く離れたギルドの事務室に絶叫を響かせながら、今日も騒がしく過ぎていく。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




