第二十七話:黒鉄の重圧と、揺らぐ境界
第四層の湿った空気が、三月の髪を濡らす。
先ほどの戦闘の余韻か、あるいは捕食を最小限に留めたことによる反動か、全身に鉛を詰め込まれたような重い倦怠感が彼女を襲った。
(……まだ、耐えられる)
三月は誰にも気づかれぬよう、深く呼吸を繰り返す。
獣の衝動は、依然として彼女の心の奥底で、牙を剥いて暴れ回っている。「全部喰らえば楽になれる」「もっと強くなれば、誰も彼もが跪く」。そんな甘い囁きが、耳元で鳴り止まない。
「如月さん……いや、三月さん。君の剣技、今の見たか?」
背後から声をかけてきたのは、痩身の男、ガランだ。その声には、先ほどまでの「調査対象を見る目」とは違う、微かな戸惑いと、隠しきれない畏怖が混ざっている。
その横では、大柄なヴォルグが腕を組み、三月を値踏みするように見下ろしていた。
三月は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「……何が言いたいの」
「いや。Fランクでこれだけの魔獣を、しかも単独で……。我々調査員が、過去に見てきたどの新人とも違う。ガランが言うように、君、一体どうやってこんな力を?」
ヴォルグが野卑な笑みを浮かべて詰め寄る。
彼らにとって、三月は未だに「アーティファクトの所有者」という仮説の域を出ていない。
三月は、その男たちの顔を冷ややかな目で見つめ返した。ここで適当な嘘をつくか、それとも盤上の駒として彼らを利用するか。
(……協会に、もっと食い込む必要がある。彼らの名前を覚えたわ。ガランとヴォルグ。……この二人を完全に掌握できれば)
「別に、秘密なんてないわよ」
三月はわざと、気だるげに肩をすくめた。
その仕草ひとつに、あえて「未熟な少女が背伸びしている」という虚勢を混ぜる。
「ただの偶然よ。迷宮で拾った古い魔導具が、たまたま私の適性と噛み合っただけ。あんたたちが調べているような、複雑な裏なんてないわ。ただ、死ぬ気でやってるだけ」
ガランは釈然としない顔で、ヴォルグと互いの顔を見合わせた。
彼らが欲しいのは「理論的な根拠」だ。だが、三月が突きつけるのは「剥き出しの生存本能」という、数値化できない事実である。これ以上突っ込んでも、彼らの調査書には「特異点、詳細不明」という無難な結論しか書き込めないはずだ。
「……そうか。それならいい。我々の目的は君を陥れることじゃない。君の才能を、協会という組織でどう活用できるかを見極めることだ」
ガランが手帳をしまい、冷徹な目を向ける。
「次の層へ進もう。第五層には、ボスの『ガーディアン・アーマー』がいる。そこでも君の実力が本物だと示せれば、我々は君に『特別枠』を用意する」
特別枠。それは、協会からの直接の支援と、表向きの護衛、そして家族を守るための法的な庇護を意味する。
三月は小さく頷いた。
「いいわ。第五層ね。……案内してあげる」
彼女は再び歩き出した。だが、その足取りは、先ほどよりも少しだけ重い。
捕食をセーブしている代償か、あるいは内なる獣の飢餓感か。視界の端が時折、赤く明滅する。
(お父さん、薬は……。お母さんのハンバーグ、食べたいな)
家族の記憶を頭の中で必死に反芻する。それは、彼女という人間が、怪物へと堕ちないための唯一の防波堤だ。
迷宮の闇が、彼女の理性を食い荒らそうと虎視眈々と狙っている。
第五層の扉が見えてきた。
そこには、重厚な鎧を纏った巨大な魔獣が、静かに鎮座しているはずだ。
ガランとヴォルグは、彼女がそこでどのような戦いを見せるのかを、カメラのように冷徹な目で見つめている。
三月は自身の剣を握りしめた。
この戦いを乗り越えれば、彼女は協会を利用する足場を完全に確保できる。
だが同時に、この戦いは彼女の理性を限界まで試すことになるだろう。
「……行くわよ。邪魔をしないで」
三月は扉に手をかけた。
彼女の背中を、協会調査員たちが見守っている。
その背中は、Fランクの少女のものとしては、あまりに大きく、そしてあまりに危うい。
迷宮の第五層。
そこは、彼女が「探索者」として、あるいは「怪物」として、真の覚醒を果たす場所となる――。
第二十七話をお読みいただき、ありがとうございました!
調査員ガランとヴォルグが本格的に登場し、三月との緊張感あるやり取りが始まりました。
彼らの監視の下で、三月はどこまで理性を保ち、そして「怪物」としての能力を使いこなせるのか。ついに第五層のボス戦へと突入します。
この話が面白い、続きが読みたいと感じていただけましたら、ぜひブックマークや**評価(↓の☆☆☆☆☆)**で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
それでは、第二十八話でお会いしましょう!




