第267話:合格祝いのクレープと、受付嬢の束の間の休息
東京・霞が関の探索者協会本部。
その重厚なエントランスを抜け、秋の心地よい風が吹き抜ける大通りへと出た瞬間、クラスメイトの健太は、太陽の光に反射してキラキラと輝く『Fランク・ライセンスカード』を天高く掲げた。
「やった……! やったぞ如月、ネエチャン! 俺、今日からついにプロの探索者だ!!」
健太の声には、夢への第一歩を踏み出した純粋な喜びと興奮が満ち溢れていた。
「おめでとう、健太。あの『ホーン・ラビット』の突進を避けた見切り、すごくカッコよかったよ」
如月拓也が、無地のパーカーのポケットに手を突っ込みながら、心からの笑みで親友の門出を祝う。
「うんっ! 健太くん、すっごく輝いてたよ! さあ、約束通りクレープ食べに行こっか!」
淡いグリーンのワンピースを着た姉の三月も、ウサギのぬいぐるみを振りながら無邪気に笑った。
「おう! もちろんだ! 今日は俺が奢ってやるから、好きなの頼んでいいぞ!」
「やったぁ! じゃあお姉ちゃん、イチゴバナナチョコ生クリーム特盛がいい!」
「いやネエチャン、それもうクレープの生地で巻けないだろ!」
三人で他愛のない冗談を言い合いながら、ギルド本部から少し離れた大通り沿いにある、若者に人気のクレープスタンドへと歩を進める。
(……こうして友達と笑い合いながら放課後や休日を過ごす。これこそが、俺がずっと求めていた『普通の中学生』としての日常なんだ)
拓也は、バエルとの死闘や、Sランクの大人たちからの過剰な接待を思い出しながら、今ここにある平穏な時間に深く感謝した。
しかし。
彼らがクレープスタンドの列に並ぼうとした、その時だった。
「……あ、あははは。もう嫌……。始末書の束が、また私のデスクに……」
スタンドの隣に設置されたベンチに、まるで魂が抜け出たかのように力なくうなだれている、一人の女性がいた。
淡いベージュのカーディガンに身を包んだ、清楚な私服姿。しかし、その顔色には深い疲労の色が濃く滲んでおり、目の下にはうっすらと隈ができている。
「……あれ? 結衣さん?」
拓也が驚いて声をかけた。
そこにいたのは、ギルドの受付窓口で常に完璧な営業スマイルを絶やさない、佐藤結衣であった。
「……ひぃっ!?」
拓也と三月の顔を見た瞬間、結衣はまるで幽霊にでも遭遇したかのようにビクゥッと肩を跳ね上がらせ、ベンチから転げ落ちそうになった。
「た、拓也さま!? 三月さま!? な、なぜここに!? まさか、またどこかでCランク変異種を更地にしてきたんですか!? いや、それともギルドの訓練場を吹き飛ばしましたか!?」
結衣が、滝のような冷や汗を流しながらパニック状態で早口にまくし立てる。
ここ数週間、彼女の胃痛の大半は、間違いなく目の前にいる最強姉弟(無自覚な厄災)が原因であった。
「ち、違いますよ結衣さん! 落ち着いてください。今日は友達のライセンス試験の応援に来ただけで、迷宮には入ってませんから!」
拓也が慌てて両手を振って否定する。
「……ほ、本当ですか? 本当に、今日は誰もワンパンで粉砕していませんか?」
結衣が、疑り深い目で三月をジッと見つめる。
「うんっ! 今日はおとなしくクレープ食べに来ただけだよ!」
三月が満面の笑みで答えると、結衣は「はぁぁぁぁっ……」と、心底安堵したような深いため息を吐き、再びベンチにへたり込んだ。
「よ、よかったぁ……。私、今日はせっかくの非番だったのに、急に呼び出されて『大吾さんが何故か試験中に泣きながら叫んで気絶した』っていう報告書の処理をさせられて……。もう胃に穴が空きそうだったんです……」
(……ごめんなさい。大吾さんが気絶したのは、間違いなく俺たちが見学席に座ってたプレッシャーのせいです……)
拓也は、すべての元凶が自分たちであることを悟り、心の中で深々と土下座をした。
「ね、如月。このお姉さん、ギルドの受付の人だろ? 知り合いなのか?」
健太が不思議そうに尋ねる。
「ああ、うん。ポーターのバイトしてた時にお世話になったんだ。……結衣さん、もしよかったら、クレープ一緒に食べませんか? 健太のお祝いなんですけど、甘いものを食べたら少しは疲れも取れると思いますよ」
拓也が提案すると、三月も「食べよ食べよ! 結衣さんもイチゴバナナチョコ生クリーム特盛にしよ!」と腕を引っ張った。
結衣は少し戸惑っていたが、三月の底抜けに明るい笑顔と、拓也の申し訳なさそうな「胃痛同盟」の視線に絆され、小さく頷いた。
数分後。
ベンチに並んで座った四人は、それぞれのクレープ(三月と結衣は本当に特盛サイズ)を頬張っていた。
「……美味しい。甘いものが、胃の粘膜に優しく染み渡ります……」
結衣が、クレープを一口食べて、少しだけ生気を取り戻したように目を細める。
「よかった。少しはお詫び……いや、気分転換になったみたいで」
拓也が安堵の息を吐く。
「あのさ、受付のお姉さん!」
健太が、キラキラとした目で結衣に身を乗り出した。
「俺、今日からFランクの探索者になったんです! 将来はSランクみたいに、魔獣をバッサバッサと倒して世界を救うような、最強の探索者になりたいんですけど……やっぱり、上のランクの人たちってカッコいいですよね!」
健太の純粋無垢な、夢と希望に満ちた言葉。
それを受け、拓也と結衣の間に、一瞬の静寂が流れた。
拓也の脳裏には、迷彩服を着て草むしりをする神宮寺や、魔法をキャンセルして血を吐く九条、そしてアメリカから物騒な兵器を送りつけてくる筋肉だるま(レオン)の姿が浮かんでいた。
結衣の脳裏には、目の前でニコニコとクレープを食べている世界最強の姉が、指一本でDランク魔獣を粉砕した数日前の惨状がフラッシュバックしていた。
「…………健太くん」
結衣は、ゆっくりとクレープを下ろし、どこか遠い目をして健太の肩に手を置いた。
「探索者の世界はね、上にいけばいくほど……『常識』という言葉が通用しなくなるの。物理法則は無視されるし、常人の胃薬の消費量は跳ね上がるし、報告書の言い訳を考えるだけで残業が確定するわ。……だから、健太くんは、自分の身の丈に合った安全な冒険を、一歩ずつ楽しんでね。それが一番幸せなことだから」
結衣の言葉には、ベテラン受付嬢としての、血の滲むような実感が込められていた。
「は、はい……! なんか、受付のお姉さんって、すごく大人ですね! 俺、頑張ります!」
健太は、結衣の言葉の真意を「過酷なプロの世界の厳しさ」として好意的に解釈し、ますますやる気に火を点けていた。
(……結衣さん、本当に苦労をかけてすみません)
拓也は、結衣の横顔を見つめながら、改めてこれからは絶対に彼女の仕事(始末書)を増やさないようにしようと固く誓った。
その時だった。
「どけェェッ!! 邪魔だァァァッ!!」
大通りを、キャップを深く被った男が、女性物のブランドバッグをひったくって全速力で走ってきたのだ。
「キャアアッ! 泥棒!! 誰か捕まえて!!」
後方から女性の悲鳴が上がる。
「なっ、ひったくりか!?」
健太が立ち上がる。しかし、相手はナイフらしきものを振り回しており、Fランクになったばかりの彼が飛び込むには危険すぎる状況だった。
男は、クレープスタンドの前にいる拓也たちを突き飛ばして逃げようと、真っ直ぐに向かってくる。
「ねえさん」
拓也は、クレープを持ったまま、ごく小さな声で隣の姉を呼んだ。
「うん、分かってる」
三月は、イチゴバナナチョコ生クリーム特盛のクレープを左手で崩さないように持ったまま、右手の『指二本』だけをスッと前に突き出した。
そして、走ってきたひったくり犯の『服の襟元』を、ミリ単位の精密さで摘まみ上げたのだ。
「おおおッ!?」
凄まじい勢いで走っていたひったくり犯の体は、三月の指に襟元を掴まれた瞬間、まるで分厚いコンクリートの壁に激突したかのように『完全に運動エネルギーを殺され』、空中でピタリと停止した。
三月の足は、地面を一ミリも滑っていない。物理法則を完全に無視した、圧倒的な力の制御。
「い、息が……ッ!」
犯人は、急停止の衝撃と、三月の指先から放たれる微かな「絶対的な死のプレッシャー」に当てられ、白目を剥いてそのままその場に気絶してしまった。
ドサッ。
三月は、犯人が落としたブランドバッグを、地面に落ちる前に足の甲でフワリと受け止め、一切汚すことなく拾い上げた。
「はい、おしまい!」
三月は、何事もなかったかのようにクレープを再び頬張った。
「…………え?」
健太が、目の前で起きた一瞬の出来事にポカンと口を開けている。
「すごいね健太。犯人、勝手につまずいて気絶しちゃったよ」
拓也が、すかさず完璧なポーカーフェイスでごまかしのセリフを放つ。
「い、いや如月、今絶対お前の姉ちゃんが……!」
「気のせいだよ。さあ、バッグを女の人に返してあげよう」
拓也は強引に話を打ち切り、バッグを落とし主の女性へと渡しに行った。
ベンチに残された結衣は、一連の流れるような三月の『物理法則無視の捕縛術』を間近で見て、顔を両手で覆っていた。
(……ああ。また、報告書に書けない事象が発生したわ……。でも、魔獣じゃないし、ただの警察案件だから……私が始末書を書く必要はない……!)
結衣は、その事実に気づいた瞬間、パァッと顔を輝かせた。
「ふふっ、あはははは! すごい、私、今日は残業しなくていいんですね!! 三月さま、ナイステイクダウンです!!」
結衣は、日頃のストレスから完全に解放されたような、心からの笑顔を浮かべて拍手喝采を送った。
その姿を見て、戻ってきた拓也もホッと安堵の笑みをこぼす。
「どういたしまして! 結衣さん、クレープ美味しいね!」
三月が無邪気に笑う。
平和な休日の午後。
ひったくり犯は無事に警察に引き渡され、魔力を持たない少年指揮官の胃痛も、今日ばかりは甘いクレープと共に少しだけ溶けていくのであった。
彼らのドタバタな日常は、こうして賑やかな笑い声に包まれながら、明日へと続いていく。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




