第265話:両親の記念日デートと、最強の護身用ペンダント
日曜日の朝。
東京の閑静な住宅街にある如月家は、いつも以上に華やいだ空気に包まれていた。
「お父さん、ネクタイ曲がってるわよ。もう、今日くらいはビシッとしてよね」
「ははは、すまんすまん。君が綺麗に着飾っているから、少し緊張してしまってね」
玄関先で、外出着に身を包んだ両親が仲睦まじく笑い合っている。
今日は二人の結婚記念日。拓也と三月が「たまには夫婦水入らずでデートしてきてよ」と背中を押し、横浜のレストランでランチを楽しむ予定になっていた。
「いってらっしゃい、お父さん、お母さん! 楽しんできてね!」
姉の如月三月が、ウサギのぬいぐるみを振りながら満面の笑みで見送る。
「ああ、行ってくるよ。お昼ご飯はテーブルに用意してあるから、二人で仲良く食べるのよ」
母親が優しく微笑みながら、自身の胸元にそっと手を当てた。
そこには、数日前に拓也たちがプレゼントした、翠色に輝く魔導ペンダント――『世界樹の滴』が大切に身につけられていた。父親の胸元にも、お揃いのペンダントが輝いている。
「そのペンダント、すごく似合ってるよ。気をつけてね」
如月拓也が手を振ると、両親は嬉しそうに頷き、連れ立って駅の方へと歩いていった。
二人の背中が見えなくなり、玄関のドアを閉めた直後。
「……よし。ねえさん、俺たちも行くよ。準備して」
拓也は、先ほどまでの「留守番をする中学生」の顔から一転、鋭い戦術指揮官の目を光らせて自身のコートを羽織った。
「えっ? どこに行くの、拓也?」
三月が不思議そうに小首を傾げる。
「決まってるだろ。父さんたちのデートの『ステルス護衛』だ。いくら特異点が消滅したとはいえ、街中に迷宮の残党が絶対に出ないとは限らない。今日は二人の大切な記念日なんだ、万が一にも邪魔が入らないように、俺たちが影から道中の安全を確保するんだよ」
かつて日米南米合同遠征軍『極星』を率いた指揮官たるもの、不確定要素を放置しておくことはできない。
特に相手が大切な家族となれば、彼の過保護(?)な戦術眼はフル稼働せざるを得なかった。
「なるほど! お父さんたちのデートを、陰からこっそり見守るんだね! 面白そう!」
三月はパァッと顔を輝かせ、靴を履き直した。
こうして、書類上は魔力を持たないFランク少年と、世界最強のブラコン姉による、極秘の『両親のデート防衛ミッション』が幕を開けたのである。
――一時間後。神奈川県・横浜市、みなとみらい地区。
海からの心地よい風が吹き抜ける美しいレンガ造りの遊歩道を、如月家の両親が腕を組んで楽しそうに歩いていた。
そして、そこから約五十メートル後方のカフェのテラス席。
拓也は、メニューで顔を隠しながら、右眼の『深層言語・限定解析』を密かに起動し、周囲の魔力反応を絶えずスキャンし続けていた。
「……現在のところ、半径一キロ圏内に脅威となる魔力反応はゼロ。父さんたちのバイタルも安定。完璧な平和だ」
拓也が小声で報告すると、向かいの席に座る三月が、ストローでアイスティーを啜りながらニコニコと頷いた。
「ふふっ、お父さんとお母さん、すごく楽しそうだね。あのクレープ、美味しそう」
「ねえさん、俺たちは遊びに来てるんじゃないんだから。……まあ、何事もないのが一番だけどね」
拓也は、メニューを置いてホッと息を吐いた。
両親が立ち止まって海を眺めたり、ウィンドウショッピングを楽しんだりする姿を見ていると、自分のしていることが少し滑稽に思えてくる。
だが、その平和な時間は、唐突に破られた。
『――空間魔力濃度の局所的な上昇を検知。前方三十メートル、路地裏の暗がりに空間の歪み(マイクロ・クラック)が発生』
拓也の右眼が、警告の赤色と共に異常なデータを弾き出した。
視線の先。両親が通りかかろうとしている狭い路地裏の空間が、陽炎のようにグニャリと歪んだのだ。
(マズい、迷宮の残党だ……! しかも、この魔力波長は……!)
空間の歪みから、音もなく滲み出るように現れたのは、実体を持たない紫色の靄のような魔獣だった。
Cランク相当の幽体魔獣『ヴェノム・シェイド』。
物理攻撃が一切通用せず、周囲に強力な「猛毒の瘴気」を撒き散らす、極めて厄介な暗殺型の魔獣である。
「ねえさん!! 路地裏にCランクの毒魔獣だ!!」
拓也が席を立ち上がり、鋭く叫んだ。
「えっ!?」
三月も即座に状況を察知し、臨戦態勢に入る。
しかし、距離が遠すぎた。
ヴェノム・シェイドは、遊歩道を歩いている両親の背後、わずか数メートルの距離まで音もなく接近し、その紫色の毒霧を勢いよく噴射したのである。
(間に合わない……ッ!!)
拓也が絶望に目を見開いた、その瞬間だった。
――カァァァァァァァァァァァッ!!!!
両親の背後に迫っていた紫色の猛毒の霧が、突如として発生した「翠色の眩い光の壁」に衝突し、ジュワァァァッ! と音を立てて蒸発したのである。
「……え?」
拓也は、自身の右眼の解析結果を見て、完全に動きを止めた。
両親の胸元。
拓也たちがプレゼントしたペンダント『世界樹の滴』が、太陽のように強く、そして清らかな翠色の光を放っていた。
『――自動防衛機構作動。対象への全状態異常(毒・麻痺・呪い等)を完全無効化。
――副次効果。純度100%の浄化魔力が、対象の半径三メートル以内の悪性魔力を強制浄化中』
「な、なんだこれ……!?」
銀座の店主エレナは「病魔や毒を退ける護身用」と言っていたが、その出力は護身用などというチャチなレベルではなかった。
ペンダントから溢れ出した浄化の光は、毒霧を蒸発させただけでなく、そのままレーザーのような光の束となって、ヴェノム・シェイドの本体へと襲いかかったのだ。
「ギシャァァァァァァッ!?」
浄化の光を浴びたヴェノム・シェイドは、まるで聖水を浴びた吸血鬼のように全身から煙を吹き出し、苦悶の悲鳴を上げてその場に縫い止められた。
Cランクの魔獣が、ただのアクセサリーの自動反撃だけで瀕死(スタン状態)に陥ったのである。
(……そうだ。このペンダントのロックを解除する時、ねえさんが『ほんの少し』魔力を押し込んだんだった……!!)
拓也は、すべての原因を悟って頭を抱えた。
世界最強である三月の魔力(物理)によって回路を強制突破された『世界樹の滴』は、安全装置が完全に外れ、保有する浄化魔力を常時最大出力で垂れ流す「歩く対魔獣要塞」と化していたのだ。
「あら? なんか今、涼しい風が吹かなかった?」
母親が、全く状況に気づかないまま、不思議そうに振り返る。
「うん? ああ、海風だろう。それにしても、このペンダント……さっきからほんのり温かくて、気持ちがいいね。さすがは拓也たちが見立ててくれただけのことはある」
父親も、目の前で毒魔獣が煙を上げている路地裏の惨状に全く気づかず、呑気に微笑んでいる。
浄化の光は、魔力を持たない彼らには「ちょっと綺麗な反射光」程度にしか見えておらず、戦闘の音も街の喧騒にかき消されていたのだ。
「……ねえさん。あの煙が出てる魔獣、両親が振り向く前に処理して」
拓也は、限界を迎えた胃を押さえながら、静かに指示を出した。
「はーい! 拓也のお手柄だね!」
三月は、一切の魔力を使うことなく、風のように音もなく路地裏へと滑り込んだ。
そして、ペンダントの光によって完全に無力化されているヴェノム・シェイドの背後に立ち、そっと左手をかざす。
「いただきます。――『魂喰い(ソウル・イーター)』」
シュガァァァァァッ……!
一切の物理的な破壊音を立てることなく、漆黒の波動が魔獣の魂を吸い尽くした。
ヴェノム・シェイドは、両親が二度目に振り返るよりも早く、跡形もなく消滅したのである。
「ふふ、気のせいだったみたいね。さあ、レストランの予約の時間に遅れちゃうわ」
「ああ、行こうか」
両親は、自分たちがCランク魔獣に暗殺されかけ、それをペンダントの圧倒的な力と最強の娘の暗殺術によってゼロ秒で解決されたことなど夢にも思わず、再び腕を組んで幸せそうに歩き出した。
「……お疲れ様、ねえさん。見事な手際だった」
カフェのテラス席に戻ってきた三月に、拓也が深々と息を吐いて労いの言葉をかけた。
「えへへー。お父さんたち、全然気づいてなかったね! 大成功!」
三月が、ウサギのぬいぐるみをポンポンと叩いて笑う。
「大成功って言うか……あのペンダント、やっぱり性能がおかしいよ。Cランクの幽体魔獣を、防御結界の反射ダメージだけで瀕死にするなんて……。あれじゃ、並の探索者よりも父さんたちの方がよっぽど生存能力が高いじゃないか」
拓也は、一千万円の予算で手に入れた「最強の防具」のデタラメさに、苦笑するしかなかった。
極星のSランクたちでさえ、不意打ちの毒ガスを完全に無効化し、かつ自動反撃まで行う結界を常時展開することは難しい。
図らずも、両親はこの日本で最も安全な一般人になってしまったのだ。
「でも、よかったじゃない! これで、お父さんたちはお家でも外でも、絶対に安全ってことだもんね!」
「……まあ、そうだね。俺も、これで心置きなく学校生活に集中できるよ」
拓也は、少しだけ胃痛が和らいだのを感じながら、遠ざかっていく両親の背中を優しく見守った。
特異点の死闘を乗り越え、得た大金で手に入れたのは、何よりも大切な「家族の絶対的な安全」だった。
その後。
横浜の高級レストランで美味しいランチを堪能し、夜景を楽しんで帰宅した両親から「今日は本当に素晴らしい記念日になったわ。このペンダントのおかげね」と満面の笑顔で感謝された拓也たちは、心から「プレゼントしてよかった」と頷き合った。
世界を救った少年指揮官と最強の姉。
彼らの紡ぐ平穏で、規格外で、少しだけ胃が痛い日常は、家族の温かい絆と共に、これからも途切れることなく続いていくのであった。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




