第264話:無言のスライム討伐と、陰から見守る指揮官の休日
「……右足の踏み込みが甘い。そこで大振りしたら、次の回避にコンマ五秒の遅れが出るぞ」
土曜日の午前。
東京郊外にあるFランク指定迷宮『そよ風の草原』の、小高い丘の上にある大きな木の上。
その鬱蒼と茂る枝葉の陰に身を隠しながら、如月拓也は、眼下に広がる草原をジッと見下ろしていた。
彼の右眼の眼帯は上にずらされており、極限の並列思考を可能にする異能『深層言語・限定解析』が静かに起動している。
その視線の先にいるのは、数日前に拓也が「スライムを無言で狩り続けろ」とアドバイス(という名の課題)を出した、本物の初心者パーティの三人組――大剣使いのリョウタ、弓使いのケン、魔法使いのアオイであった。
「拓也、あの子たち、すっごく真剣だね! ほら、サンドイッチあーんして!」
拓也の隣の太い枝の上では、淡いグリーンのワンピースを着た姉の如月三月が、ピクニック気分でバスケットを広げ、手作りのタマゴサンドを拓也の口元へと運んでいた。
「……うん、美味しいよ、ねえさん。でも、声が大きいとバレちゃうから少し静かにね」
拓也は、サンドイッチを頬張りながら小声で注意した。
ここ数日、拓也の胃を痛めつけ続けてきた初心者パーティの三人。
彼らが本当に自分のアドバイスを守って基礎訓練をやっているのか、あるいは無茶をして死にかけていないか。
かつて日米南米合同遠征軍『極星』で、数多のトップランカーたちを死線から生還させてきた少年指揮官としての良心(あるいは職業病)が、どうしても気になってしまい、こうして休日の「ステルス観察」にやってきたのである。
「でも、拓也のアドバイス通り、本当に一言も喋らずに戦ってるよ。偉いね!」
三月が、双眼鏡の代わりに自身の規格外の視力で彼らを観察しながら感心したように言う。
眼下の草原では、リョウタたちが一匹の青い『ブルースライム』を相手に悪戦苦闘していた。
(……確かに言葉は発していない。だが、連携としては最悪だな)
拓也の戦術眼が、彼らの動きを冷徹に分析する。
スライムが跳ねて攻撃を仕掛けてきた際、リョウタがそれを大剣で防ごうと前に出た。しかし同時に、ケンの放った矢がスライムの横をすり抜け、あわやリョウタの肩に刺さりそうになる。
アオイは『ウォーター・ボール』の詠唱を終えているのに、リョウタとスライムが重なっているせいで魔法を撃ち込むタイミングを逃し、オロオロと杖を彷徨わせている。
「おいっ! ケン、危ねえだろ!」
「ご、ごめんリーダー!」
思わず声を出してしまった二人は、ハッとして口を押さえた。
(ほら、声を出した。……パーティ戦闘において、視界の共有と『次に行う動作の予測』ができていない証拠だ。極星の大人たちなら、呼吸の音一つで味方の魔力残量から次のスキルの起動タイミングまで完全に把握していたが……まあ、比べる相手が悪すぎるか)
十年前のダンジョン発生から現在に至るまで、生き残ってきたベテラン探索者たちは、皆この「阿吽の呼吸」を死線の中で身につけている。
だが、彼らはまだ登録したばかりのひよっこだ。言葉という情報伝達手段を封じられると、途端に烏合の衆になり下がってしまう。
「……よし、もう一回だ! 絶対に喋るなよ!」
リョウタが小声で気合いを入れ直し、再び新たなブルースライムへと向かっていく。
(今度はどう動く……?)
拓也は、木の上から静かに見守り続けた。
リョウタは、大剣を構えたままスライムの正面に立つと、今度はすぐに斬りかからず、ジッと後方の二人を見た。
アオイが杖を構え、目を閉じて魔力の収束を始める。その『杖の先端が微かに光るタイミング』を、リョウタはしっかりと目で確認した。
(……良いぞ。味方の『詠唱完了』のサインを待つようになった)
アオイが目を開き、リョウタに向かって小さく頷く。
その瞬間。リョウタはスライムに向かって踏み込み、大剣の『腹』の部分を使って、斬るのではなく「横に弾き飛ばす」ように打撃を加えた。
ポヨォンッ!
「!?」
弾き飛ばされたスライムが空中に浮き上がる。リョウタの体はすでに射線上から退避している。
そこへ、アオイの放った水球がドンピシャのタイミングで直撃し、スライムのゼリー状の体を大きく抉った。
さらに、空中に浮いて回避行動が取れないスライムの『核』に向かって、ケンが放った矢が吸い込まれるように命中する。
ピキィッ……!
核を砕かれたブルースライムは、一切の反撃を許すことなく、青い魔力溜まりとなって地面に溶けて消えた。
「…………ッ!!」
リョウタ、ケン、アオイの三人は、一言も発することなく、しかし顔を真っ赤にして興奮し、互いに無言のハイタッチを交わした。
言葉を使わずに、完璧な連携で魔獣を討伐した。その「手応え」が、彼らの顔つきを先週までの傲慢な素人から、本物の探索者のそれへと少しだけ変えていた。
「すごいね拓也! 今の、すごく綺麗だった!」
三月が、自分のことのようにパチパチと拍手をする。
「……ああ。自分たちの役割と、味方のテンポを理解し始めた。……これなら、もう俺が裏から小石を蹴って助ける必要はないな」
拓也は、戦術指揮官としての厳しい目を少しだけ和らげ、どこか教師のような安堵の息を吐き出した。
彼らがこの調子で一ヶ月間スライムを狩り続ければ、間違いなく同年代の中でもトップクラスの連携力を誇るパーティに成長するだろう。
(よし、生存確認もできたし、帰ろうか。これ以上長居して見つかったら面倒だ)
拓也が眼帯を元に戻し、木から降りようとした、その時だった。
「――グルルルルルッ……!!」
突如として、草原の奥の茂みが大きく揺れ、低い唸り声が響き渡った。
現れたのは、通常のブルースライムの五倍以上の体積を誇り、全身から緑色の猛毒の酸を滴らせている巨大なスライム。
(Eランク変異種……『ジャイアント・アシッドスライム』!? なんでこんな浅い階層に!)
拓也は咄嗟に身を乗り出した。
迷宮は生き物であり、時としてこのように生息域を無視したイレギュラーが発生することがある。
Eランクとはいえ、強力な酸をまき散らす変異種は、今のリョウタたちには荷が重すぎる。
「あっ! 拓也、あの子たちピンチだよ! 私が上から踏み潰してこよっか?」
三月が、サンドイッチを置いて立ち上がろうとする。
三十五階層を踏破した彼女が踏み潰せば、酸ごと完全に消し飛ぶだろう。
「待って、ねえさん。……彼らの様子を見て」
拓也は、三月の腕を掴んで制止した。
眼下のアシッドスライムは、強烈な酸の弾丸を周囲に撒き散らしながら、リョウタたちへと迫っていた。
「うわあっ!?」
ケンが悲鳴を上げそうになる。
しかし、リョウタは逃げなかった。
彼は振り返り、パニックになりかけているケンとアオイに向かって、無言で『左手』を力強く突き出した。
「止まれ」「落ち着け」という、リーダーとしての強烈なメッセージ。
その顔には、先日のロック・トータス戦で見せたような絶望はない。
彼らは、拓也のアドバイスを通じて「仲間を見て戦うこと」の重要性を、ほんの数十分前に実感したばかりなのだ。
(……逃げないのか。それなら、見せてみろ)
拓也は、絶対防衛のコートを展開する準備だけを整え、息を呑んで見守った。
リョウタは、大剣を構えてアシッドスライムの正面へと躍り出た。
スライムが巨大な触手を振り上げ、酸の塊をリョウタの頭上へと叩きつけようとする。
リョウタは、それを避けない。
彼は、自身の背後――アオイの位置と射線を完璧に把握していた。
(今だ、アオイ!!)
リョウタが、酸の直撃を受けるコンマ一秒前。
背後から飛来したアオイの『ウォーター・ボール』が、リョウタの真横をすり抜け、アシッドスライムの触手の下部(関節にあたる部分)に激突した。
バシャァッ!!
水球の物理的な衝撃で、スライムの巨大な触手が大きくバランスを崩し、リョウタを狙っていた酸の軌道がズレて地面を溶かす。
「いっけえええええッ!!」
リョウタは、沈黙の誓いを破り、ついに魂からの雄叫びを上げた。
がら空きになったアシッドスライムの中心。ゼリー状の奥深くに浮かぶ『大核』に向けて、渾身の力で大剣を突き刺す。
ズブッ!! と大剣がスライムの体内に深く入り込んだ。
しかし、変異種の核は硬く、一撃では砕け散らない。逆に、スライムの体液(酸)がリョウタの大剣を急速に溶かし始めた。
「くそっ、硬え……!!」
リョウタが歯を食いしばる。
そこに。
「リーダー、離れろォォォッ!!」
横手から回り込んでいたケンが、弓を限界まで引き絞り、叫んだ。
リョウタは即座に大剣から手を離し、後方へと全力で跳び退く。
ケンの放った一本の矢。
それは、リョウタが大剣を突き刺して作った『傷口(道)』を寸分違わず通り抜け、すでにヒビが入っていたスライムの大核へと突き刺さった。
パキィィィィンッ!!!!
心地よい破砕音と共に、巨大なアシッドスライムの核が完全に粉砕された。
巨体がドロドロと緑色の液体へと変わり、最後にポツンと、Eランク変異種の魔石だけが草原に残された。
「ゼェ……ゼェ……ッ」
「や、やった……!」
リョウタたちは、三人がかりで変異種を打ち倒した事実に震えながら、その場にへたり込んだ。
今回は、天井からの落下物(三月)も、飛んでくるリュック(拓也)も一切ない。
正真正銘、彼ら自身の連携と実力で掴み取った勝利であった。
「……お見事」
木の上からその一部始終を見届けていた拓也は、誰にも聞こえない声で、そっと称賛の言葉を口にした。
極星のSランクたちが見せるような派手な魔法も、世界を割るような超絶技巧もない。泥臭くて、危なっかしい戦闘。
それでも、彼らは確実に「探索者」としての一歩を踏み出していた。
「あの子たち、勝ったね! 拓也の教え方が上手だったからだよ!」
三月が、自分のことのように嬉しそうに笑う。
「俺はただ、生き残るための基礎を教えただけだよ。それをどう使うかは、彼ら次第だからね」
拓也は、右眼の眼帯を整え、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、帰ろうか、ねえさん。これ以上見てたら、本当に過保護な親みたいになっちゃう」
「うんっ! じゃあ、残りのサンドイッチは歩きながら食べよっか!」
少年指揮官と最強の姉は、成長した初心者たちに気づかれることなく、風のように静かに木の上から姿を消した。
(……まあ、しばらくポーターのアルバイトはごめんだけどね)
魔力を持たない十四歳の休日は、こうして心地よい疲労感と共に、密やかな満足感に包まれて終わっていくのであった。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




