第263話:迷宮見学の事後処理と、ひざまずく初心者たち
東京郊外、『第一初心者修練迷宮』の巨大な地下空洞。
数トンの質量を誇るDランク魔獣『ロック・トータス』が、完全に白目を剥いて地面に沈黙している。
その巨大な亀の顎の下には、お弁当の入った手提げ袋を持った絶世の美女――如月三月が、何事もなかったかのようにニコニコと微笑んで立っていた。
「はい、拓也! お弁当忘れてたよ!」
静まり返ったダンジョン内に、彼女の場違いなほど明るい声が響き渡る。
「…………」
如月拓也は、戦術指揮官としての極限の並列思考をフル回転させながらも、あまりの絶望的な状況に頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
「お、おい如月……! 今の、お前の姉ちゃんか!? 指一本で魔獣を倒したぞ!?」
クラスメイトの健太が、目を限界まで見開いて詰め寄ってくる。
「ち、違うんだ健太! これは……そう! あの亀が、たまたま急激な心筋梗塞を起こして倒れたところに、姉さんが指を当ててただけで……!」
拓也は必死に言い訳を捻り出したが、誰もそんな苦しすぎる嘘を信じるわけがない。
目の前には、三月の指先が触れた部分からクモの巣状に粉砕された、分厚い岩石の甲羅という「動かぬ物理的証拠」が残っているのだ。
「す、すげえ……!! あのネエチャン、本物の化け物だ……!!」
ガイド役として同行していたFランク探索者のリョウタたち三人組は、完全に腰を抜かし、三月の姿を神仏でも見るかのように拝み始めていた。
(終わった……。俺の『魔力を持たないただの中学生』という平和な日常が、ここで完全に崩壊する……!!)
拓也が自身の胃壁が溶けるのを感じていた、その時だった。
「――緊急事態発生!! Dランク相当の魔力反応を確認!! ギルド防衛部隊、突入します!!」
ダンジョンの入り口側から、物々しい武装をした探索者協会の警備部隊が、十数名規模でなだれ込んできた。
その先頭を走っていたのは、息を切らした受付嬢の佐藤結衣である。
「皆さま、ご無事ですか!? 魔獣は――」
結衣は、叫びながら大空洞の惨状を見渡した。
崩落した壁。倒れているロック・トータス。
そして、その亀の頭の横で「結衣さーん、お疲れ様ー!」と無邪気に手を振っている、淡いグリーンのワンピース姿の厄災(三月)。
さらにその後方で、血の涙を流しそうな目で自分をジッと見つめている、眼帯の少年(拓也)。
(…………ッ!?!?)
結衣の顔から、一瞬にしてスッと血の気が引いた。
(な、なんで拓也さまと三月さまがここに!? ああっ、そういえば今日は拓也さまの中学校の迷宮見学の日でした! ……ということは、このDランク魔獣を瞬殺したのは間違いなく三月さま……。そして拓也さまのあの『死んだ目』は、『何とかして正体を誤魔化せ』という無言の脅迫ですね!?)
結衣は、優秀なギルド職員として、一瞬にしてすべての状況を(胃痛と共に)完全に理解した。
「あ、あああああっ!! よ、よかった!! 当協会の『最新型・緊急防衛アーティファクト』が、無事に作動したようですね!!」
結衣は、突如として裏返ったような大声を上げ、大仰な身振り手振りで叫び始めた。
「アーティファクト……?」
担任の教師と生徒たちが、ポカンとして結衣を見る。
「そ、そうです!! 実は、あのロック・トータスは、事前にギルドが配置していた『ホログラム映像と連動した訓練用のゴーレム』なのです!! そして、そちらの如月三月さまには、ギルドからテストとして『魔獣の動きを強制停止させる一回使い切りの超高級指輪(数千万円相当)』を身につけていただいておりました!!」
結衣は、もう自分でも何を言っているのか分からないレベルのデタラメを、プロの営業スマイルと圧倒的な勢いでまくし立てた。
「そ、そうなんですか!?」
健太が驚いて尋ねる。
「はい! 指先で魔獣を止めたように見えたのは、その指輪の強力な『運動エネルギー反発魔法』の効果です! もちろん、指輪は一度使えば壊れてしまいますが……生徒の皆さまに怪我がなくて何よりです!!」
(結衣さん……!! アンタ、最高の受付嬢だよ……!!)
拓也は、結衣の放った強引すぎる言い訳に、心の中で涙を流しながら拍手喝采を送った。
「そ、そうなんだよ健太! ねえさんは、ギルドから頼まれてテストをしてたんだ! だから天井に張り付いてたのも、実験の一環だったんだよ!」
拓也がすかさず結衣の嘘に乗り、話を合わせる。
「なーんだ、そうだったのか。びっくりしたぜ。如月の姉ちゃんが本物のSランク探索者とかそういう裏設定があるのかと思っちゃったよ」
健太が、緊張の糸が切れたように笑い出した。他の生徒たちも、「ギルドの機械なら仕方ないか」と、一般人特有の『魔法やアーティファクトに対する大雑把な理解』によって、奇跡的に納得してくれたのである。
「えっ? 指輪? 私、そんなのつけてない……もごごっ!?」
真実を口にしようとした三月の口を、拓也が背後から全力で塞いだ。
「あはははは! 姉さんはドジだから、指輪が壊れたことにも気づいてないみたいです! さあ、魔獣も倒れたことですし、見学は終わりですよね先生!!」
拓也は、強引に話を打ち切り、生徒たちをバスの方へと誘導し始めた。
結衣は、警備部隊に「この亀の回収を急いで!」と指示を出しながら、拓也に向かって『後で胃薬を奢ってくださいね』という恨めしい視線を送っていた。
――一時間後。
見学を終えた生徒たちがバスに乗り込む中、拓也は「姉と少し話があるので」と教師に告げ、ダンジョンの外れにある木陰で大きく息を吐いていた。
「はぁぁぁぁ……。寿命が、三年は縮んだ……」
「ごめんね拓也。お弁当、早く渡してあげたくて」
三月が、申し訳なさそうにウサギのぬいぐるみを抱え直す。
「いいよ、ねえさん。ねえさんが助けてくれなかったら、クラスの誰かが怪我してたかもしれないし。……ただ、これからは学校の行事には乱入しないでね」
拓也は、苦笑しながら手渡されたお弁当箱(ウサギのアップリケ付き)を受け取った。
その時だった。
「――如月。いや、如月さん」
背後から、低く真剣な声が聞こえた。
振り返ると、そこにはガイド役を務めていたFランクパーティの三人――大剣使いのリョウタ、弓使いのケン、魔法使いのアオイが立っていた。
彼らの顔には、先ほどまでの「期待の新人」としての傲慢さは微塵もなく、ただ純粋な畏怖と、ある種の覚悟が宿っていた。
「……リョウタさん。どうしたんですか?」
拓也が、いつものように愛想笑いを浮かべようとした瞬間。
バサッ。
リョウタたち三人は、拓也と三月の目の前で、地面に膝をついて深々と頭を下げたのだ。
「えっ……!?」
「誤魔化さなくていい。俺たち探索者は、あのギルドの受付嬢が言ったような『訓練用ゴーレム』なんて嘘、信じねえよ」
リョウタが、地面を見つめたまま言葉を絞り出す。
「俺は、あいつの甲羅に全力で剣を叩き込んで、絶望的な硬さと『本物の魔獣の殺気』を肌で感じたんだ。……それを、あんたのお姉さんは、アーティファクトの光も何もなく、ただの『純粋な力』だけで叩き潰した。俺たちには分かる。あんたたちは、ギルドが隠している本物のバケモノ(高ランク)だ」
(……マズい。やっぱり、実戦を経験している探索者の目は誤魔化せなかったか)
拓也は、右眼の眼帯にそっと触れ、冷たい汗を流した。
「……先週の『ゴブリンの洞窟』の時もそうだ。俺たちが中ボスを倒せたのは、あんたが『わざと』水筒を落として罠から救ってくれたり、足を滑らせるように誘導して魔法を避けさせてくれたからだろ。……そして最後は、お姉さんが石を投げてくれた」
ケンが、唇を噛み締めながら続く。
「私たち……自分たちの実力だって勘違いして、ギルドで調子に乗ってました。本当に、恥ずかしいです……」
アオイも、顔を真っ赤にして俯いている。
彼らは、死の恐怖に直面したことで、これまでの自分たちの傲慢さと、如月姉弟の実力を正確に理解してしまったのだ。
「……それで? ギルドに俺たちの正体を言いふらすつもりですか?」
拓也の声音から、中学生としての無邪気さが消え、かつて極星を率いた『指揮官』としての静かな冷徹さが滲み出た。
そのプレッシャーに、リョウタたちはビクッと肩を震わせた。
「ち、違う!! 言いふらしたりしねえ!! 俺たちはただ……!」
リョウタは、勢いよく顔を上げ、拓也を真っ直ぐに見つめた。
「頼む!! 俺たちを、あんたたちの『弟子』にしてくれ!! 俺たちも、もっと強くなって、あんな魔獣にも立ち向かえるようになりたいんだ!!」
「弟子……?」
拓也は、完全に予想外の言葉に目を丸くした。
「俺たち、このままじゃいつか絶対に死ぬって分かったんだ。だから、ほんの少しでいい、あんたのその冷静な判断力や、探索者としての『本物の戦い方』を教えてほしい!!」
リョウタたちが、額を地面に擦りつける勢いで懇願する。
拓也は、深い溜め息を吐いた。
彼らを突き放すのは簡単だ。しかし、この真っ直ぐな瞳を持つ若者たちを無知なまま迷宮に放り出せば、彼らは近いうちに命を落とすだろう。
それは、彼らを一度は裏から生還させた「指揮官」としての拓也の良心が咎めた。
「……弟子は取りません。俺はただの中学生で、姉はただのブラコンですから」
拓也の言葉に、リョウタたちが絶望の表情を浮かべる。
しかし、拓也は静かに言葉を続けた。
「でも、一つだけアドバイスをします。……まずは、Fランクの迷宮で『スライム』だけを相手に、一ヶ月間戦い続けてください」
「え……? スライム?」
「はい。ただ倒すだけじゃ駄目です。お互いに『一切の声(指示)を出さずに』、誰がどう動くかを完全に把握して、無傷でスライムを倒せるようになるまで連携を磨いてください。……それができるようになったら、また荷物持ち(ポーター)として雇ってあげてもいいですよ」
それは、拓也が戦場で学んだ「パーティの生存率を劇的に上げるための基礎中の基礎(阿吽の呼吸)」であった。
リョウタたちは、一瞬呆気にとられた後、そのアドバイスの真意を理解し、パァッと顔を輝かせた。
「は、はいッ!! ありがとうございます!! 絶対に、一ヶ月で完璧な連携を身につけてみせます!!」
三人は、再び深々と頭を下げると、憑き物が落ちたような清々しい顔でギルドの方向へと走り去っていった。
「ふふっ。拓也、なんだか学校の先生みたいだったね」
三月が、嬉しそうに拓也の腕に抱きつく。
「……先生なんて柄じゃないよ。ただ、彼らには死んでほしくないだけさ。……さあ、俺たちもバスに戻ろう。お弁当、バスの中で食べるよ」
魔力を持たない少年指揮官は、新たな「面倒な後輩たち」を抱え込んでしまったことに小さく息を吐きながらも、どこか晴れやかな顔で、日常へと帰っていくのであった。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




