第261話:残り二百万の焼肉と、監察局長の胃痛(休日編)
「……よし。それじゃあ、今日はパーッと美味しいお肉を食べに行こうか、ねえさん」
日曜日の昼下がり。
如月拓也は、自室でスマートフォンに表示されたギルド特別口座の残高――『2,000,000円』という数字を見つめ、静かに決意を固めた。
昨日の銀座での買い物で、両親へのプレゼントとして八百万円の魔導ペンダントを購入した。
本来であれば、残りの二百万円は将来のために貯金しておくのが一般的な中学生の金銭感覚だろう。しかし、彼らは特異点でいつ死んでもおかしくない修羅場を潜り抜けてきた身である。
平和な日常を噛み締めるためには、我慢せずに「今」を楽しむことも重要だ。
それに何より、隣で「お肉! お肉!」とウサギのぬいぐるみを振り回してはしゃいでいる姉の笑顔を見れば、貯金という選択肢は自然と消え去った。
「やったぁぁっ! 拓也のおごりだー! どこに行くの? 近所の食べ放題!?」
姉の如月三月が目を輝かせる。
「いや、今日は特別だからね。……昔、神宮寺さんから『日本で一番美味い迷宮肉が食える店』って聞いた場所に行ってみようと思う」
十年前のダンジョン発生以降、魔獣の肉は高級食材として認知されるようになった。
拓也が向かおうとしているのは、その中でも頂点に君臨する、トップランカーや政府高官しか足を踏み入れない超高級レストランであった。
――一時間後。東京・六本木。
高層ビルの最上階に位置する、高級魔獣肉専門店『グランド・バビロン』。
エレベーターの扉が開くと、そこには大理石が敷き詰められた煌びやかなエントランスが広がっていた。
漂ってくる香ばしい肉の匂いだけでも、そこらの中級ポーションよりも高い魔力回復効果がありそうだ。
拓也は無地のパーカーに漆黒のコート、三月は清楚な白いワンピースという、どう見ても「迷い込んだ一般の中学生と若い女性」という出で立ちで受付へと向かった。
「いらっしゃいませ。……お客様、本日はご予約でしょうか?」
燕尾服を着た上品な初老の支配人が、嫌な顔一つせずに丁寧に対応してくれる。
「いえ、予約はしていないんですが、空席はありますか?」
拓也が尋ねると、支配人は申し訳なさそうに深く頭を下げた。
「誠に申し訳ございません。本日はランチタイムからディナーまで、すべての席が数ヶ月前より満席となっておりまして……。またの機会にぜひご予約の上、お越しくださいませ」
「……そうか。やっぱり、急に来ても駄目だよね」
拓也は苦笑し、三月に「ごめん、別のお店にしようか」と声をかけようとした。
その時だった。
「――おや? こんなところで奇遇ですね、防衛大臣。ええ、今日の会食は私が……って、ゴフゥッ!!?」
エントランスの奥から、恰幅の良い政治家らしき人物をエスコートしながら歩いてきた初老の紳士が、拓也と三月の姿を見るなり、盛大にむせて膝から崩れ落ちたのである。
「せ、セバスチャン局長!?」
拓也が目を丸くして声を上げる。
そこにいたのは、探索者協会の重鎮であり、極星の事情や拓也たちの正体をすべて知る数少ない人物――監察局長のセバスチャンであった。
「き、局長!? どうされましたか!」
政治家が慌てて駆け寄るが、セバスチャンは滝のような冷や汗を流しながら、ガクガクと震える指で拓也たちを指差した。
(な、なななな、なぜ……なぜ休日の六本木に、世界を崩壊から救った『少年指揮官殿』と、Bランク魔獣の骨を指先で粉砕する『歩く厄災(三月殿)』がいらっしゃるのですかァァッ!?)
セバスチャンの胃壁が、ストレスで悲鳴を上げる。
彼にとって、如月姉弟は「絶対に機嫌を損ねてはならない世界のVIP(裏)」である。もし彼らがこの店で入店を断られて不機嫌になり、三月が軽く床を小突いてビルごと『更地』にしてしまったら……そんな最悪の想像が、彼の脳裏を駆け巡った。
「し、支配人!!」
セバスチャンは、這うようにして支配人の足元にすがりついた。
「き、局長様? いかがなさいましたか?」
「わ、私の予約しているVIPルーム……! あの部屋を、今すぐこのお二人に譲りなさい!! 私たちはその辺のファミリーレストランで会食を済ませますから!!」
「ええっ!? し、しかし、局長様は何ヶ月も前から本日のコースを……それに、こちらの大臣との重要なご会食では……」
「いいから!! 早くご案内するんだ!! 命が惜しくないのか!!」
セバスチャンのただならぬ剣幕(と恐怖に引き攣った顔)に、支配人と政治家は完全に圧倒されてしまった。
「あ、あの、局長。そこまで気を使ってもらわなくても……」
拓也が申し訳なさそうに口を挟む。
「い、いいえ!! どうか!! どうかお受け取りください指揮官殿!! これが私の、日本の平穏を守るための最後の仕事です!!」
セバスチャンは、まるで爆弾処理を終えたような顔で深々と頭を下げ、そのまま政治家の背中を押して風のようにエレベーターへと消えていった。
「……行っちゃったね。セバスチャンさん、お腹痛かったのかな?」
三月が不思議そうに小首を傾げる。
「……そうだね。間違いなく、胃が痛かったんだと思うよ」
拓也は、大人の苦労(と自分の存在が与えるプレッシャー)に深く同情しながら、ありがたくVIPルームを使わせてもらうことにした。
通されたのは、六本木の景色を一望できる最上階の個室だった。
中央には、魔力を帯びた特殊な鉄板が設置されている。
「お待たせいたしました。本日はセバスチャン様からの特別な計らいということで……当店が誇る最高級の逸品をご用意いたしました」
うやうやしく部屋に入ってきたのは、コック帽を被った筋骨隆々の料理長だった。
彼がワゴンに乗せて運んできたのは、赤々と燃えるような美しいサシが入った、巨大なブロック肉である。
「Aランク魔獣『豪炎竜』のシャトーブリアンでございます。お値段は、このブロック一つで百五十万円となります」
料理長が誇らしげに告げる。
「ひゃ、ひゃくごじゅうまん……!?」
拓也は思わず声裏返らせた。残金の二百万が、一瞬にして消し飛ぶ金額だ。
「わぁぁっ!! 美味しそう!! おじさん、早く焼いて!」
三月は値段など一切気にせず、ナイフとフォークを握りしめて目をキラキラさせている。
「承知いたしました。……この豪炎竜の肉は、自らが炎を纏う性質があるため、並の火力では中まで火が通りません。元Aランクの炎熱魔術師である私自身が、最高の魔法で焼き上げさせていただきます!」
料理長が、両手に莫大な炎の魔力を集束させ、鉄板の上のワイバーン肉へと放った。
ゴォォォォォォッ!!
凄まじい業火が肉を包み込む。
しかし。
十分ほど焼き続けても、肉の表面がわずかに変色するだけで、全く火が通る気配がない。
「な、なんだと……!? 私の第八階梯の魔法炎が、弾かれているだと……!?」
料理長が、驚愕に目を見開いて汗を拭った。
「料理長さん、どうしたの?」
拓也が尋ねると、料理長は悔しそうに歯を食いしばった。
「申し訳ございません……。この個体、どうやら通常よりも遥かに強大な魔力を肉の繊維に溜め込んだ『特異個体』だったようです。肉自体が炎を拒絶しており、これ以上火力を上げれば、表面だけが炭になってしまいます……!」
Aランク魔獣の素材は、死してなお強大なエネルギーを宿していることがある。
このままでは、百五十万の肉が食べられないだの鉄の塊になってしまう。
(……仕方ない。せっかくの最高級のお肉を無駄にはできない)
拓也は、そっと右眼の眼帯を上にずらした。
『深層言語・限定解析』が起動し、鉄板の上のワイバーン肉の内部構造、魔力の流れ、そして「熱を遮断している原因」が瞬時に視覚化される。
「……料理長さん。肉の繊維の間に、赤黒い魔力の膜が三層構造で張られていますね。それが熱を遮断している原因です」
「なっ!? 坊ちゃん、なぜそれが分かるんだ!?」
料理長が驚く中、拓也は隣の三月に視線を向けた。
「ねえさん。あのお肉の真ん中あたりに、魔力が一番濃く固まってる部分があるだろ? そこを、お箸で『トントン』って、優しく叩いてみて」
「うんっ! 任せて!」
三月は、テーブルに置かれていた黒檀の高級箸を手に取った。
そして、拓也の戦術眼が導き出した『魔力バリアの結節点』に対して、三十五階層を踏破した彼女の絶超的な物理的ベクトルを込めて、箸の先で「トントンッ」と肉の表面を叩いた。
パキィィィィンッ!!
それは、ガラスが砕け散るような、澄んだ音だった。
「……え?」
料理長が呆然とする中。
三月の振るった、魔力を一切伴わない「純粋な物理的衝撃」が、ワイバーンの肉の繊維の隙間に浸透し、熱を遮断していた魔力バリアだけをピンポイントで粉砕したのである。
細胞一つ傷つけず、ただ『邪魔な魔力』だけを物理的に叩き割る。
それは、バエル戦でも見せた、彼女の規格外すぎる「力の制御」の賜物であった。
「よし。料理長さん、今なら火が通るはずです。一気に焼き上げてください!」
拓也の指揮官としての声が飛ぶ。
「お、おおおおッ!!」
我に返った料理長が、再び炎の魔力を放つ。
今度は魔力の抵抗を一切受けず、ワイバーンの肉は瞬く間に美しい黄金色へと焼き上がり、部屋中に極上の香ばしい匂いが弾けた。
「……完成だ。私が今まで焼いてきた中で、間違いなく最高の仕上がりだ……!」
料理長は、震える手で切り分けた肉を二人の皿へと盛り付けた。
「いただきます!!」
拓也と三月は、同時に肉を口へと運んだ。
「……ッ!!」
噛む必要すらなかった。
口に入れた瞬間、ワイバーンの濃厚な旨味と、魔力を含んだ上質な脂が、爆発的な勢いで溶け出していく。
それは、先日食べたCランクのアーマー・タウロスを遥かに凌駕する、まさに「王者の味」であった。
「美味しいっ!! ほっぺたが落ちちゃうよ拓也!!」
三月が、幸せそうに両頬を押さえて身悶えしている。
「……ああ。本当に、これは二百万払う価値があるよ」
拓也も、あまりの美味しさに日頃の胃痛を完全に忘れ、無心で肉を頬張った。
彼らが美味しそうに肉を平らげていく姿を見て、料理長も「料理人冥利に尽きる」と嬉しそうに目を細めていた。
お会計の際。
拓也は、ギルドの特別口座のブラックカードを提示し、百五十万円の支払いを涼しい顔で済ませた。
(……これで、レオンさんからの臨時収入はほぼ使い切ったな。でも、後悔はない)
店を出て、夕暮れの六本木を歩く姉弟。
「拓也、今日は本当に美味しかったね! お父さんたちへのプレゼントも買えたし、最高のお休みだった!」
三月が、拓也の腕に抱きつきながら満面の笑みを向ける。
「うん。……また明日から、普通の中学校生活だけどね」
「お姉ちゃん、明日も美味しい唐揚げお弁当作ってあげるからね!」
特異点の死闘を乗り越え、得られた大金を「家族の笑顔」のために使い切った少年指揮官。
魔力を持たない彼の休日は、セバスチャンの胃痛という小さな犠牲(?)を払いながらも、最高に美味しく、そして平和に幕を閉じるのであった。
如月姉弟のドタバタな日常は、これからも賑やかに続いていく。
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




