第250話:平和な中学校生活と、特別講師(Cランク)の胃痛
十年前。この世界に突如として迷宮が出現して以来、人類の社会システムは劇的な変化を遂げた。
未知の資源と魔獣という脅威が日常に隣り合わせとなった結果、それは当然ながら「義務教育のカリキュラム」にも大きな影響を与えている。
月曜日の午前。
東京の閑静な住宅街にある中学校の、体育館にて。
「――というわけで、今日は特別授業だ。探索者協会から、現役のプロ探索者の方々を講師としてお招きしている。お前ら、失礼のないようにしっかり学ぶように!」
体育教師の号令と共に、二年B組の生徒たちが「おおーっ!」と歓声を上げた。
迷宮発生から十年が経過した現在、中学生の体育の授業には、基礎的な体力作りに加えて「非常時の魔獣回避行動」や「簡単な護身術」が組み込まれるようになっている。
特異点の消滅によって大規模な魔獣災害の危険は去ったとはいえ、いつどこでFランクの残滓迷宮が発生するか分からない現代において、現役探索者の生の声を聞くことは非常に有意義な授業であった。
(へえ……現役の探索者が来るのか。どんな人が来るんだろう)
如月拓也は、指定の体操着姿で列の最後尾に並びながら、少しだけ興味を惹かれていた。
彼自身は、日米南米合同遠征軍『極星』を率いて第一魔卿バエルを討伐した「少年指揮官」であるが、それはあくまで一部のトップランカーしか知らない極秘事項である。
書類上は魔力を持たないただのFランク探索者であり、学校でも「ちょっと眼帯をしているだけの大人しい中学生」として通っていた。
だからこそ、他の生徒たちと同じように、プロの探索者に対する純粋な尊敬の眼差しを向けて待っていたのだ。
「おう、紹介にあずかった探索者パーティ『鋼の斧』のリーダー、大吾だ。ランクはCだ。今日はよろしく頼むぜ!」
体育館の入り口から、豪快な笑い声と共に三人の男女が入ってきた。
分厚い鋼鉄の鎧を着込んだ大柄な重戦士の大吾。
身軽な革鎧を着た斥候のリク。
長い杖を持った魔術師の女性、ミキ。
「…………ッ!!?」
その三人の顔を見た瞬間、拓也は心臓が止まるかと思った。
つい数日前、Dランク迷宮『木霊の廃坑』のポーター業務で同行し、Bランク変異種の軍隊から助け出したあの三人組だったからだ。
「おい如月、すげえな! Cランクだってよ! 本物のプロだぜ!」
隣に並んでいたクラスメイトの健太が、興奮気味に拓也の肩を揺する。
「あ、あはは……。そうだね、すごい偶然……いや、すごいプロだね……」
拓也は、顔を引き攣らせながら、必死に自分の存在を隠そうと列の背後に身を縮めた。
しかし、無情にも。
生徒たちの顔を見渡していた大吾の視線が、列の最後尾にいる「眼帯をした少年」でピタリと止まった。
(……ん? あの眼帯……それにあの顔つき……。まさか……ッ!?)
大吾の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが、遠目からでもはっきりと分かった。
後ろに控えていたリクとミキも、大吾の視線の先にいる拓也の存在に気づき、ハッと息を呑んで硬直している。
大吾たちにとって、如月拓也という少年は、単なる中学生ではない。
絶対防衛のコートを羽織り、完璧な戦術眼で絶体絶命の窮地から部隊を救い出した「軍神」であり、そして何より、あのBランク魔獣の骨を『指二本』で粉砕した絶世の美女を姉に持つ、怒らせてはならない裏社会(?)の最重要人物なのだ。
大吾が、滝のような冷や汗を流しながら、拓也に向かってペコッと小さくお辞儀(最敬礼)をしようとした。
(駄目だ大吾さん!! ここでは俺はただの一般の中学生なんだ!! 頼むから話を合わせろ!!)
拓也は、周囲の生徒に気づかれないように胸元で小さく手を振り、右眼の眼帯越しに『絶対に気づかないふりをしろ』という強烈なアイコンタクト(殺気)を送った。
「ヒッ……!!」
大吾は、かつて迷宮の奥底で感じた「軍神のプレッシャー」を思い出し、ビクッと肩を震わせて直立不動になった。
「あ、あのー……大吾さん? どうかされましたか?」
体育教師が、突然フリーズしたCランク探索者を不思議そうに覗き込む。
「い、いや! 何でもねえ! 今、少し迷宮の古傷が痛んだだけだ! ハハハ……ッ!」
大吾は無理やり豪快な笑い声を上げ、リクとミキも愛想笑いを浮かべて誤魔化した。
「――それじゃあ、今日は『突進してくる魔獣の回避行動』の実技をやろう。俺がこのクッション付きの槍を持って突進するから、ギリギリまで引きつけて避ける練習だ」
授業が始まり、大吾が実技のデモンストレーションを行うことになった。
迷宮内で最も死傷率が高いのは、低ランク魔獣による不意の突進攻撃である。それをいかに冷静に見極め、最小限の動きで躱すかが生存率に直結する。
「誰か、お手本として挑戦してみたい奴はいるか?」
大吾が問いかけると、「はいっ!」と健太が勢いよく手を挙げた。
「おう、元気のいいボウズだな! 来てみろ!」
健太は体育館の中央に立ち、大吾と向き合った。
「よーし、行くぞ!」
大吾が、手加減しつつも素早い踏み込みで、クッション槍を突き出す。
「うわあっ!?」
健太は、槍の切っ先が迫ってくる恐怖に耐えきれず、完全に目をつぶって大きく横に飛び退いてしまった。結果、足をもつれさせて床に派手に転がってしまう。
「惜しいな! だが、実戦で目をつぶって体勢を崩すのは致命傷になる。……魔力を持たない一般人が魔獣の突進を避けるには、恐怖を殺して、相手の重心移動から軌道を予測する必要があるんだ」
大吾の的確なアドバイスに、生徒たちが感嘆の声を漏らす。
「他にはどうだ? 次はもう少し、冷静に対処できそうな……」
大吾が再び生徒たちを見渡した、その時。
(……マズい。大吾さんと目が合った)
拓也は、嫌な予感を感じてサッと視線を逸らそうとした。
しかし、大吾の頭の中では、「命の恩人である軍神の機嫌を損ねてはならない。ここは彼に見せ場を作って、恩返し(接待)をするべきだ!」という、壮絶な勘違いの思考回路がフル回転していたのである。
「そこの、眼帯のボウズ! 君、筋が良さそうだな! 前に出てきてみろ!」
大吾が、満面の笑みで拓也を指名した。
「ええっ!?」
拓也は、完全に想定外の指名に目を丸くした。
(恩返し(接待)のつもりか……!? ありがた迷惑すぎる!!)
拓也が渋々体育館の中央へと歩み出ると、大吾はコソッと拓也に耳打ちをしてきた。
「如月の兄ちゃん。ここは俺が上手いことゆっくり突くから、かっこよく避けてクラスのヒーローになっちまいな! 俺なりの恩返しだ!」
「……大吾さん。俺は目立ちたくないから、適当に転んで失敗しますね」
「えっ」
拓也は、深いため息を吐きながら大吾と向き合った。
魔力を持たないただの中学生を演じるため、健太と同じように怯えたふりをして尻餅をつく。それが完璧な偽装工作だ。
「よし、行くぞ、如月!」
大吾が、先ほどよりもさらにスピードを落とし、分かりやすい軌道で槍を突き出してくる。
拓也は「わあっ!」と声を上げ、わざと右足をつまずかせて転ぼうとした。
しかし。
彼自身の肉体に染み付いた「戦術指揮官としての防衛本能」と、右眼の『限定解析』による自動演算が、無意識のうちに作動してしまったのである。
(――右足の踏み込みが浅い。大吾さんの肩の筋肉の収縮から、槍の軌道は左脇腹。着地点にホコリが浮いているから、ここで転べば後頭部を強打するリスクが2%……)
コンマ一秒の世界で、拓也の脳細胞が最適解を弾き出す。
意図的に転ぶことすら、彼の身体に刻まれた極星の経験が「非効率」として拒絶したのだ。
スッ……。
拓也は、転ぶのをやめ、上半身の軸をミリ単位でズラした。
大吾の放った槍の切っ先が、拓也の体操着の表面をスレスレで通り過ぎていく。
風圧すら感じない、完璧な「見切り」。
最小限の動き(ノーモーション)による完全回避であった。
「……ッ!?」
大吾は、自分の放った槍が、まるで空間ごとすり抜けられたかのような錯覚に陥り、思わず目を見開いた。
「わあ……っ、ととっ!」
拓也は、回避した直後に「偶然避けちゃいました」という演技のために、わざとらしくバタバタと腕を振ってよろけてみせた。
「お、おい如月! お前、今のすげえギリギリだったぞ! 危ねえ!」
「偶然だよ、健太。足が滑っちゃってさ」
生徒たちは、拓也が運良く偶然避けたのだと勘違いして笑い合っている。
しかし。
間近でその身のこなしを見ていた大吾、そしてリクとミキの三人だけは、背筋に冷たい汗を伝わせていた。
(ぐ、偶然じゃねえ……っ。あいつ、俺の槍の軌道を完全に読み切った上で、たった数ミリの動きだけで避けやがった……! 何百回と死線を潜り抜けた、本物のSランク探索者と同じ動きだ……!)
大吾は、ガクガクと震える膝を必死に堪えながら、引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
「――あーっ! 拓也、見ーっけ!!」
その時。
体育館の二階にある、ギャラリーの窓(高さ約五メートル)の外から、突然明るい女性の声が響き渡った。
「え?」
生徒たちと大吾が、一斉に声のした方を見上げる。
なんと、体育館の二階の窓枠に、淡いグリーンのワンピースを着た絶世の美女――如月三月が、重力を無視したような軽やかさでヒョイッと飛び乗っていたのである。
「ねえさん!? なんで学校に!?」
拓也が顔面を蒼白にして叫ぶ。
「だって拓也、今日はお弁当持っていくの忘れてたでしょ! お姉ちゃん、急いでお弁当箱届けてあげようと思って、壁を登ってきたの!」
三月は、手作りのウサギのアップリケがついたお弁当箱を片手に、二階の窓からヒラリと飛び降りた。
五メートルの高さからの落下。普通の人間なら骨折は免れない。
しかし彼女は、一切の魔力を使うことなく、猫のように音もなく体育館の床に着地してみせたのだ。
「ええっ!? あのお姉さん、二階から飛び降りたぞ!?」
「すっげえ美人……! しかも如月の姉ちゃん!?」
体育館中が騒然となる中。
大吾たち『鋼の斧』の三人は、三月の姿を見た瞬間、完全に魂が抜けた顔になってその場にヘナヘナと座り込んでしまった。
(あ、あの女……ッ! Bランク魔獣の腕を指二本でへし折った、笑顔の悪魔……ッ!! なんでこんな平和な中学校に……ッ!!)
大吾は、恐怖のあまりガタガタと歯を鳴らし、クッション槍を放り出してお祈りのポーズを取り始めていた。
「はい、拓也! 大好きな唐揚げ、いっぱい入れといたからね!」
三月が、周囲の視線など全く気にせず、満面の笑みでお弁当箱を拓也に手渡す。
「……ありがとう、ねえさん。でも、ここは学校だから。それに、壁を登って二階から入ってくるのは、一般の人はやらないから」
拓也は、胃のあたりをギュッと押さえながら、大混乱に陥っている体育館の惨状を見渡した。
「えっ? そうなの? 正門から入ろうとしたら、警備員のおじさんに止められちゃったから、塀を跳び越えたんだけど……」
「それがもう駄目なんだよ……」
世界を救った少年指揮官の平和な中学校生活は、かくして、大恩ある(?)Cランク探索者への極度のプレッシャーと、世界最強の姉の規格外な弁当配達によって、盛大に崩壊していくのであった。
魔力を持たない拓也の胃痛が休まる日は、まだまだ遠そうである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
記念すべき第250話は、平和な中学校生活に潜む罠(特別授業)のお話でした。
まさかの講師としてやってきた大吾さんたちの胃痛と、拓也の「無意識のSランク回避行動」。そしてトドメとばかりに二階の窓から現れる三月姉さん(笑)。
大吾さんたちは、この姉弟に関わると寿命が縮むことしかありませんね。
もし「面白かった!」「大吾さん逃げてー!」と思っていただけましたら、
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




