第240話:特売卵の攻防戦と、絶対に割ってはいけない迷宮残党
「――よし、ねえさん。目標の時刻まであと三分だ。準備はいい?」
東京郊外の大型スーパーマーケット『ライフマート』の食品売り場。
夕方五時を目前に控えた特売コーナーの最前列で、如月拓也は、カートを両手でしっかりと握りしめながら、隣に立つ姉に小声で確認を取った。
「ばっちりだよ、拓也! お姉ちゃん、絶対に一番いいパックをゲットしてみせるからね!」
淡いグリーンのワンピース姿の如月三月が、やる気に満ちた表情でコクリと頷く。
現在、彼らの目の前には『お一人様二パックまで! 赤玉たまご特売・百円』と書かれたワゴンが鎮座している。
そして周囲には、今か今かとタイムセールの開始を待ち構える、歴戦の主婦たちが殺気立ってひしめき合っていた。
魔力を持たない十四歳のFランク少年と、かつて『始源の迷宮』の三十五階層という前人未到の深淵に至った世界最強の探索者。
特異点を破壊し、つい数時間前には東京湾の幽霊船を小石一つで消滅させてきた彼らだが、そんな世界を救った姉弟であっても、スーパーの特売という「日常の戦場」からは逃れられないのである。
「……五時だ。タイムセール、スタート!!」
店員がメガホンで叫んだ瞬間。
「うおおおおおっ!!」
「どきなさいよ! うちの育ち盛りの息子のお弁当にいるのよ!」
「昨日も卵だったでしょ! 今日は私がもらうわよ!」
主婦たちの群れが、怒号と共にワゴンへと殺到した。
その凄まじい熱気とプレッシャーは、下手なCランク迷宮のスタンピードよりも恐ろしい。
「うわっ、すごい圧……っ!」
拓也がカートごと押し流されそうになった、その時。
「拓也は下がってて! 私が行く!」
三月が、人混みの隙間を縫うように、ふわりと身を翻した。
彼女の動きは、一切の魔力を使っていないにもかかわらず、まるで重力が存在しないかのように軽やかで美しい。
かつて無数の強力な魔獣を屠ってきたSランクをも凌駕する超絶的な敏捷性(AGI)が、ただ「特売の卵を誰よりも早く、かつ安全に取るためだけ」に惜しみなく発揮されている。
シュタタタッ!
三月は、誰ともぶつかることなく、まるで水流のように主婦たちの間をすり抜け、ワゴンの中心から最もヒビ割れのない、完璧な赤玉卵のパックを二つ、両手に確保した。
そして次の瞬間には、拓也の隣へと無傷で帰還していた。
「はい、拓也! 無事にゲットだよ!」
三月が、満面の笑みで卵のパックをカートに入れる。
「……ありがとう、ねえさん。まさか世界最強の身体能力を、スーパーのタイムセールで見ることになるとは思わなかったよ」
拓也は、安堵の溜め息を吐きながら、誇らしげな姉の頭をそっと撫でた。
どれだけ規格外の力を持っていても、こうして姉と一緒に夕飯の買い物をして、他愛のない会話ができる。
それこそが、拓也が過酷な特異点の戦いで、右眼の痛みに耐えながらも何よりも守りたかった「平和な日常」だった。
「今日のオムライス、楽しみだね! お姉ちゃん、ケチャップで拓也の顔描いちゃおうかな!」
買い物を終え、夕暮れの帰り道を歩きながら、三月がスーパーの袋を揺らして嬉しそうに笑う。
「俺の顔はいいよ。……でも、本当に平和になってよかった。もう、極星のみんなに無茶な指示を出す必要もないし、姉さんがポッドの中で眠ることもないんだから」
拓也は、自身が羽織っている『虚無蜘蛛』のコートのポケットに手を突っ込み、穏やかな夜風を感じていた。
しかし。
彼らのそのささやかな日常は、突如として空間に走った『黒い亀裂』によって遮られた。
バチバチバチッ……!!
「……っ! ねえさん、空間の歪みだ!」
拓也が、瞬時に指揮官の顔つきになり、三月を背中にかばう。
アスファルトの道路の真ん中に開いた次元の裂け目から、ドス黒い魔力と共に、一匹の異形の魔獣が這い出してきた。
体長三メートルほどの、全身が鋼鉄のように硬い針で覆われた巨大な猪。
Cランクの迷宮残党、『鋼針のボア』だった。
「ブルルルォォォォッ!!」
ボアが、侵入者である拓也たちを見つけ、赤い目を血走らせて咆哮を上げる。
「もうっ! せっかくの平和なお買い物帰りなのに、お邪魔虫だね!」
三月が、不機嫌そうに眉をひそめ、右手にスーパーの袋を持ったまま、左手で拳を握りしめた。
「拓也、ちょっと待ってて。五秒でこの辺り一帯ごと『更地』にしてあげるから」
三月の左拳に、空間を歪ませるほどの規格外の魔力が圧縮され始める。
「あっ、待ってねえさん! ストップ、ストップ!!」
拓也が慌てて叫んだ。
「え? どうして? いつもみたいにワンパンで消し飛ばせば……」
「駄目だよ! 姉さんがいつものパンチを撃ったら、その衝撃波と爆風で、袋の中の『特売の卵』が全部割れちゃうじゃないか!」
「…………あっ」
三月は、右手に持ったスーパーの袋を見て、完全に固まった。
これまでの彼女の戦闘スタイルは、常に『圧倒的な物理的暴力による地形ごと粉砕』であった。
スライム相手のデコピンですらクレーターを作ってしまう彼女が、この至近距離で本気のパンチを放てば、卵の殻など一瞬で粉微塵になるのは明白だ。
「ど、どうしよう拓也! 卵が割れたらオムライスが作れないよぉっ! 雑炊になっちゃう!」
三月が、魔獣を前にして半泣きでパニックに陥る。
「落ち着いて。……俺が前衛に出るから、姉さんは俺の指示通りに動いて」
拓也は、前に進み出た。
魔力を持たないただのFランク中学生が、三メートルを超える鋼鉄の猪の正面に立つ。
「ブルルルルッ!!」
ボアは、眼前のひ弱な獲物を粉砕しようと、猛スピードで突進してきた。
鋭い鋼鉄の角と、数トンの体重を乗せた、Cランクの重戦士ですら即死しかねない必殺のチャージ。
しかし、拓也は一歩も引かず、ただ静かにその場に立ち尽くした。
ドッゴォォォォォォォォォォンッ!!!!
ボアの巨体が、拓也に激突する。
だが、次の瞬間。吹き飛んだのは拓也ではなく、突進してきたボアの方だった。
「ギャンッ!?」
拓也の羽織る『虚無蜘蛛のコート』が、ボアの突進の運動エネルギーを完璧に吸収し、白銀の魔力障壁となって物理ダメージを完全にシャットアウトしたのである。
ボアは、自らの突進の勢いをそのまま跳ね返され、硬いアスファルトの上をボールのように転がっていった。
「す、すごい……! 本当に無傷だ……!」
拓也自身も、このコートの『絶対防衛』の性能に改めて驚愕していた。
「拓也、怪我はない!? 今のうちに、私が優し〜く首をへし折るね!」
三月が、卵の袋を大事に抱えながらボアの背後へと回り込もうとする。
「待って、ねえさん。首を折る時に地面が揺れたら、卵が割れるリスクがある」
拓也は、右眼の眼帯の下で、極限の並列思考をほんのわずかに起動させた。
(ボアを倒すには、衝撃波を出さない方法が必要だ。……ねえさんの固有能力『魂喰い』を使えば、物理的な破壊なしで処理できるはず)
「ねえさん。姉さんの固有能力の『魂喰い』で、あいつの魂と魔力だけをピンポイントで吸い出せない?」
拓也の提案に、三月は首を横に振った。
「うーん……『魂喰い』はね、相手が弱ってないと発動できないの。あんな風にピンピンしてて魔力が充実してる状態だと、魂の抵抗に遭って弾かれちゃうんだよね」
(そうか、忘れていた。あの能力は相手の魂を喰らう絶大な力だが、対象が弱体化していなければならない制約があるんだった……)
「なるほど。なら、衝撃波や地響きを一切出さずに、あのボアをギリギリまで弱らせる必要があるな」
拓也は、再び右眼の『深層言語・限定解析』を走らせ、ボアの体構造を透視するように見極めた。
「ねえさん。ボアの首の後ろ、鋼鉄の針が少しだけ薄くなっている『第三頸椎』の隙間がある。そこが魔力神経の重要な結節点だ」
拓也の指差す先を、三月の深緑の瞳が正確に捉える。
「あの隙間を、指先だけでピンポイントに圧迫して。絶対に打撃じゃなくて、『押し込む』ように。そうすれば、神経がショートして衝撃を出さずに全身を麻痺させられるはずだ」
「わかった! 優しーくツボを押してあげるね!」
ダメージから立ち上がろうとしていたボアの背後に、三月が音もなく回り込む。
彼女は右手にスーパーの袋を持ったまま、左手の人差し指と中指を揃え、拓也が指示した第三頸椎のわずかな隙間へと滑り込ませた。
スッ……。
「えいっ」
ギリッ、と。
三月の指が、鋼鉄の皮膚を容易く貫通し、内部の神経結節点を的確に圧迫した。
「――っ!?」
ボアは、悲鳴を上げることもできず、目を見開いて硬直した。
一切の衝撃波も爆風も起きない。ただ、巨大な魔獣の神経回路だけが完全に焼き切れ、その巨体が力なくアスファルトの上に崩れ落ちる。
「今だ、ねえさん!」
「うんっ! いただきます!!」
完全に麻痺し、抵抗する力を失って弱り果てたボアに向かって、三月は左手をかざした。
「――『魂喰い(ソウル・イーター)』」
シュガァァァァァァァァァッ……!!
三月の手のひらから、目に見えない漆黒の波動が放たれた。
今度は抵抗されることもなく、その波動はボアの肉体を透過し、体内の魔核に宿る魂とエネルギーだけを、ストローで吸い上げるように一瞬にして奪い取った。
ボアの巨体は、外傷一つ負うことなく完全に動力を失い、静寂の中でその命を散らしたのである。
「ふぅ……。おいしい魔力だったよ! どう拓也? これなら卵、割れてないよね!」
三月が、パァッと明るい笑顔に戻り、スーパーの袋を掲げてみせる。
「……完璧だ。ありがとう、ねえさん。まさか、迷宮の深淵で恐れられた『魂喰い』の能力を、スーパーの特売卵を守るための暗殺術に使う日が来るとは思わなかったけどね」
拓也は、ペラペラのコートの裾を整えながら、完全に事切れたボアを見下ろして、深く、深い安堵の溜め息を吐いた。
世界最高峰の絶対防衛コートを「盾」にして、急所へのピンポイント圧迫で弱らせた後、魂を喰らう最強の能力で「静かに」仕留める。
戦術の目的は、人類の救済ではなく、夕飯のオムライスの死守。
「よーし! それじゃあ、急いで帰ってオムライス作ろっか! ケチャップで、拓也の顔と私の顔を並べてハートマーク描くんだから!」
「……うん。楽しみにしてるよ」
夕闇が迫る住宅街。
書類上はFランクの少年と、Fランクの絶世の美女は、無傷の卵を大切に抱えながら、足早に家路を急ぐ。
彼らの紡ぐ「日常」は、どこまでも規格外で、少し胃が痛くて、けれど何よりも温かい。
如月デュオの平穏な生活は、これからも賑やかに続いていくのであった。
お読みいただきありがとうございます!
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次回も引き続き、如月姉弟のドタバタな日常をお楽しみに!




