第238話:轟音の洞窟と変異種、Fランク姉弟の最短救出ルート
東京郊外の山中に位置するCランク指定迷宮、『轟音の洞窟』。
本来であれば、ゴブリンやジャイアントバットといった低位から中位の魔獣が生息する、中堅探索者たちの稼ぎ場である。
しかし現在、その洞窟の奥深く――第4セクターと呼ばれる中層エリアは、濃密で禍々しい血の匂いと、圧倒的な暴力の気配に支配されていた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
岩壁を背にして荒い息を吐いているのは、まだ十代半ばの新人探索者、大樹だった。
彼の身に着けていた革鎧は無惨に引き裂かれ、右手に握っていたはずの鉄の剣は、根元からポッキリと折れてしまっている。
大樹の視線の先には、このCランク迷宮に存在してはならない『絶対的な絶望』が立ち塞がっていた。
体長八メートルを超える、赤銅色の岩のような皮膚を持った巨体。
丸太のような四本の腕には、それぞれが数トンはあろうかという巨大な石棍棒が握られている。
特異点崩壊の余波による異常な魔力溜まりが生み出した、Aランク相当のイレギュラー魔獣――『暴虐のトロール(変異種)』である。
「グルルルルォォォォッ!!」
四本腕のトロールが、大樹を嘲笑うかのように咆哮を上げた。
その尋常ではない再生能力により、先ほどまで大樹の先輩たちが決死の覚悟で与えた魔法の傷も、すでに完全に塞がってしまっている。
(……先輩たちは、無事に逃げられただろうか)
大樹は、折れた剣の柄を握りしめながら、静かに目を閉じた。
自分が囮になって迷宮の奥へと走った判断は間違っていなかった。これで、家族のいる先輩たちは助かるはずだ。
「……来いよ、化け物。俺の命一つで満足してくれるなら、安いもんだ……ッ!」
大樹が覚悟を決め、迫り来るトロールの巨大な棍棒を見上げた、その瞬間だった。
ズドドドドドドドドドッ!!!!
突如として、洞窟全体を激しい地震のような揺れが襲った。
「な、なんだ……!?」
大樹が目を開けると。
トロールの背後にある、数十メートルの厚みを持つはずの強固な岩壁が、内側から『物理的に』吹き飛んだのである。
ドガァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
すり鉢状の洞窟内に、爆薬を数百トン敷き詰めて点火したかのような凄まじい轟音が響き渡り、粉砕された岩石が散弾となって降り注ぐ。
Aランクの変異種であるトロールすらも、背後からの突然の爆発的衝撃に態勢を崩し、巨体を揺らしてよろめいた。
濛々と立ち込める土煙。
その中から、二つの人影がゆっくりと姿を現した。
「……もう、ねえさん。いくら一刻を争うからって、迷宮の壁を力任せにぶち抜いて『直進』してくるのはやりすぎだよ。落盤したらどうするの」
「えー? だって、入り口から迷路を歩いてたら時間がもったいないじゃない! 拓也がスマホのGPSで要救助者の座標を教えてくれたんだから、地上から一直線にトンネルを掘るのが一番早いし安全でしょ?」
呆れたような少年の声と、それに答える明るい女性の声。
土煙が晴れた先には、無地のパーカーの上に『漆黒のコート』を羽織った眼帯の少年と、淡いグリーンのワンピースを着た美しい女性が立っていた。
彼らの胸元には、探索者の中で最も階級の低い『Fランク』のバッジが光っている。
「エ、エフランク……? なんで、こんな奥深くに……!?」
大樹が呆然と呟く。
「グルルルォォォッ!!」
未知の侵入者に対し、トロールが標的を変更して怒りの咆哮を上げた。
四本の腕を振り上げ、大樹ごと二人を粉砕しようと突進してくる。
「……ねえさん。相手はAランクの変異種だ。細胞の再生速度が異常に早い。完全に仕留めるには、首の付け根と心臓、二つのコアを同時に――」
少年――如月拓也は、右眼の眼帯の下で『深層言語・限定解析』をコンマ数秒だけ起動させ、魔獣の構造を瞬時に視抜いて指示を出そうとした。
しかし。
「二つのコアを同時に壊すんだね! 分かった、要するに『細胞ごと全部まとめて消し飛ばせばいい』ってことでしょ!」
姉の如月三月は、拓也の戦術的な指示を、最も単純かつ野蛮なパワープレイへと脳内変換してしまっていた。
「あっ、ねえさん、そうじゃなくて――」
拓也が止める間もなく、三月はトロールの真正面へと飛び出した。
トロールの振り下ろした数トンもの石棍棒が、彼女の細い身体を叩き潰そうと迫る。
だが、三月はその棍棒を躱すことすらしない。
彼女は、かつて世界に一つしかなかった『始源の迷宮』の三十五階層という前人未到の深淵にまで至り、自らの固有能力である『魂喰い(ソウル・イーター)』を限界まで酷使し続けた、生ける厄災である。
「手加減なしって、言ったよね!」
三月が、右腕を軽く引く。
その瞬間、彼女の深淵のような魔力が右拳に極限まで圧縮され、空間そのものが『ミシッ』と悲鳴を上げた。
ドッゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
三月の放った右ストレート。
それは、トロールの石棍棒を触れる前に風圧だけで粉砕し、そのまま八メートルを超える巨体の胴体へと直撃した。
「ガ、ギベェェェッ!?」
直撃した瞬間、トロールの強靭な岩の皮膚も、異常な再生能力を持つ細胞も、すべてが意味を為さなかった。
純粋な物理的衝撃と、背後に立ち昇る『魂すらも喰らい尽くす』深淵の魔力の余波によって、Aランクの変異種は文字通り『跡形もなく蒸発』したのである。
さらに、三月の拳から放たれた衝撃波は、トロールを消滅させた後も止まることなく洞窟の奥へと突き進み、Cランク迷宮の最深部までを完全に一直線の『更地』へと変えてしまった。
ゴォォォォォォォッ!!
凄まじい爆風が洞窟内に吹き荒れる。
大樹は咄嗟に目を閉じたが、その暴風は彼を優しく避けるように通り過ぎていった。
「うわぁっ! ちょっ、ねえさん! だからやりすぎだって!」
暴風の直撃を受けたのは、三月のすぐ後ろに立っていた拓也だった。
しかし、彼が羽織っていた『虚無蜘蛛』の極薄糸で編まれた絶対防衛のコートが、瞬時に白銀の光を放って魔力障壁を展開。
拓也の身体には、砂埃一つ、そよ風一つ当たることはなく、完全に無傷で守り抜かれていた。
「あれっ? おかしいな、これでも一割くらいしか力入れてないのに」
三月が、自分の拳を見つめながら不思議そうに首を傾げている。
「……一割で迷宮の奥が吹き飛ぶなら、それはもう災害なんだよ。コートがなかったら俺まで吹き飛んでたよ……」
拓也が、深い深い溜め息を吐きながら、ペラペラのコートの裾を払う。
「あ、あ、あああ……」
大樹は、目の前で起きた光景を理解できず、へたり込んだまま声にならない声を漏らしていた。
数十人がかりのAランクパーティでも苦戦するであろう変異種のトロールが、Fランクのワンピース姿の女性の『ただのパンチ一発』で、洞窟ごと消滅してしまったのだ。
「怪我はないですか? ……遅くなってすみません」
そんな大樹の前に、漆黒のコートを着た少年が、静かに手を差し伸べてきた。
「え、あ……っ」
大樹が恐る恐るその手を取ると、拓也は少しだけ苦笑いを浮かべた。
「立てますか? 先輩たちが、外で心配して待ってますよ」
「あ……あんたたち、一体何者なんだ……? 本当に、Fランクなのか……?」
大樹の震える問いに、拓也は少しだけ困ったように頬を掻き、そして三月の方を振り返った。
「俺は、ただのFランクで、ただの指揮官です。魔力もありませんし」
「えっ?」
「でも、俺の姉さんは――書類上はFランクだけど、間違いなく『世界最強』の探索者ですよ」
三月が、拓也の言葉を聞いてパァッと花が咲いたような極上の笑顔を浮かべ、ブイッとピースサインを作った。
「えへへ! 拓也に世界最強って言われちゃった! そうだよ君、私の可愛い拓也の手を煩わせたんだから、あとでジュース一本おごりね!」
大樹は、あまりにも規格外で、あまりにもマイペースすぎるこの『Fランク姉弟』の姿を見て、ついに極度の緊張の糸が切れ、その場で白目を剥いて気絶してしまった。
「あっ、倒れちゃった。拓也、どうする?」
「気絶してるだけだよ。……仕方ない、俺が背負っていくから、姉さんは帰りの道を確保して」
「任せて! 落盤してるところは全部パンチで更地にしておくね!」
「だからそれ以上ダンジョンを破壊しないでってば!」
数十分後。
『轟音の洞窟』の入り口付近には、大樹の帰還を絶望的な思いで待ち続けるCランクの先輩探索者たちと、駆けつけたセバスチャン局長率いる協会の救護班の姿があった。
「大樹……っ、すまねえ、俺たちが不甲斐ないばかりに……っ」
先輩の一人が地面を殴りつけて涙を流していた、その時。
洞窟の入り口から、漆黒のコートを着た少年が、気絶した大樹を背負ってゆっくりと歩いてきた。その後ろには、鼻歌交じりの美しい女性が続いている。
「た、大樹ッ!!」
先輩たちが弾かれたように駆け寄る。
「安心してください。怪我はしてますが、命に別状はありません。ただの気絶です」
拓也が大樹をそっと地面に下ろすと、先輩たちは号泣しながらその後輩を抱きしめた。
「あんたたち……いや、お二人は、本当にあのトロールを……?」
信じられないという目で拓也たちを見る探索者たちに代わり、セバスチャンが深々と頭を下げた。
「さすがは如月デュオのお二人。特異点を打ち破ったその力、未だ健在というわけですね。……迷宮内の変異種の魔力反応が、完全に『消滅』したのを確認いたしました」
「ええ、まあ……。姉さんがちょっと張り切りすぎちゃって」
拓也が苦笑する。
「あはは! 久しぶりに手加減なしでいいって言われたから、スッキリしたよ!」
三月が両手を伸ばして背伸びをする。
大樹を救出され、涙ながらに感謝を述べるCランクの探索者たちを見つめながら、拓也は改めて自分の隣に立つ姉の存在の大きさを感じていた。
かつて、特異点という絶望の淵で、右眼の痛みと引き換えに世界を救った数ヶ月間。
それに比べれば、こうして身近な誰かを助け、感謝され、そして隣には何よりも頼もしい『世界最強』の姉が笑っているこの日々は、どれほど尊いものだろうか。
「帰ろうか、ねえさん。今夜はすき焼きの約束だったよね」
「うんっ! 最高級のお肉、奮発しちゃうからね!」
夕日に照らされる帰り道。
『轟音の洞窟』を文字通り更地に変えた最強にして最底辺のFランク姉弟は、楽しげに今日の夕飯の相談をしながら、その騒がしくも温かい日常へと帰っていくのであった。
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次回も引き続き、如月姉弟の活躍と日常をお楽しみに!




