第236話:Fランク姉弟の初任務、絶対防衛のコートとスライム討伐の悲劇
日曜日の朝。
如月家のリビングには、全身鏡の前で少し気恥ずかしそうにしている少年――如月拓也の姿があった。
彼が羽織っているのは、昨日銀座のダンジョンショップで手に入れたばかりの特注品。
かつて世界にただ一つしか存在しなかった『始源の迷宮』の深層素材であり、姉の三月の規格外の魔力によって完全にチューニングされた、虚無蜘蛛の防魔コートである。
漆黒の生地は、光の加減によって滑らかな銀色の輝きを放ち、羽のように軽い。
しかしその実態は、Bランクはおろか特異点の魔獣の爪牙すら弾き返すであろう『絶対防衛』の鎧だ。
「わぁぁっ……! やっぱり拓也、すっごく似合ってる! うん、世界一かっこいい!」
淡いグリーンのワンピース姿の如月三月が、スマホを両手に構え、様々な角度からシャッターを切りまくっていた。
「ねえさん、写真撮りすぎだよ……。いくらなんでも、ただのスライム討伐に行くのに、こんな仰々しいコートを着ていくのは変じゃないかな」
拓也は、鏡に映る自分の姿を見ながら苦笑した。
昨日、あれほどの大騒ぎをして手に入れた最高級のコート。
しかし、今日二人が向かうのは、東京郊外に新しく発生したばかりの、ごく小規模な『Fランク残滓迷宮』であった。
海外のSランク探索者たちも自国へ帰り、日本のトップランカーたちもそれぞれの任務へと戻っていった。
ようやく訪れた、誰にも邪魔されない姉弟水入らずの休日。
ここでまたセバスチャン局長にAランク迷宮を押し付けられる前に、拓也は「絶対に安全で、普通の中学生でもできるFランクの依頼」をこなして、探索者としての『平穏な実績』を作りたかったのである。
「変じゃないよ! 迷宮にはどんな危険が潜んでるか分からないんだから! スライムが突然変異して、バエルみたいな魔王クラスに進化する確率だって、ゼロじゃないでしょ?」
「ゼロだよ。スライムはどれだけ頑張ってもスライムだよ……」
過保護すぎる姉の極論にため息をつきながらも、拓也はコートの軽さと温かさに、確かな安心感を覚えていた。
魔力を持たないただのFランクである彼にとって、このコートはまさに命綱だ。
「よし、行こうか、ねえさん。今日はあくまで『Fランクパーティの地道な素材集め』だからね。絶対に派手な魔法とか、迷宮を更地にするような物理パンチは禁止だよ」
「はーい! お姉ちゃん、今日は手加減バッチリでいくから任せて!」
満面の笑みで頷く三月と共に、拓也は自宅を後にした。
――一時間後。東京郊外、通称『若葉の迷宮』。
特異点崩壊の余波で生まれた数多くの残滓迷宮の中でも、最も危険度が低いとされるFランク指定のダンジョンである。
内部は薄暗い洞窟ではなく、木漏れ日が差し込む美しい森のような空間が広がっていた。
「空気が美味しいね、拓也! なんだかピクニックに来たみたい!」
三月が、ワンピースの裾を揺らしながら楽しそうに前を歩く。
「うん。……なんだか、本当に平和だね」
拓也は、周囲を警戒しながらも、ホッと息を吐いた。
バエルの支配する天空の冥城のような、一歩踏み出せば消滅の罠が待ち受けている極限の死地とは全く違う。
ここには、強烈な魔力のプレッシャーも、空間のバグも存在しない。
(右眼の『深層言語・限定解析』を使う必要なんて、全くないな。……これが、本来の探索者の日常なんだ)
魔力を持たない十四歳の彼が、本来歩むべきだった等身大の冒険。
拓也がそんな感慨に浸っていると、前方の茂みがガサリと揺れた。
ピチャッ……、ピチャッ……。
現れたのは、半透明の青いゼリー状の魔獣。
探索者の登竜門であり、最も弱いとされる魔獣『ブルースライム』であった。
「あっ、拓也! スライムが出たよ!」
三月が指差す。
「よし。俺たちの初陣のターゲットだね。依頼内容は、スライムの体内にある『青の魔核』を十個集めることだ」
拓也は、自然と指揮官の顔つきになり、魔力を持たない両眼で敵を観察した。
限定解析の力に頼らずとも、彼の頭脳には、これまでの死闘で培われた膨大な戦術データが刻み込まれている。
「ねえさん。スライムは物理攻撃への耐性が高いけど、中心から少し左下にある核を正確に突けば、一撃で倒せる。……打撃じゃなくて、鋭い突きでコアだけを狙って」
拓也の的確な指示が飛ぶ。
「コアだけを鋭く突くんだね! 分かった!」
三月は、足元に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げた。
武器すら使わない。ただの木の枝だ。
「えーいっ!」
三月は、その木の枝を、スライムの核へ向けて『軽く』突き出した。
彼女にとっては、本当に、指先でつつく程度の『手加減』だったのだ。
しかし。
かつて世界に一つしかなかった始源の迷宮で、前人未到の三十五階層まで単独で到達し、自らの能力『魂喰い』を酷使して世界最強へと至った彼女の「手加減」は、一般の物理法則を大きく逸脱していた。
ドッゴォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
「えっ」
拓也の目の前で。
三月が突き出した木の枝の先端から、極限まで圧縮された純粋な物理的衝撃波が、大気を引き裂きながら放たれた。
ブルースライムは、核を突かれるどころか、音速を超える衝撃波の余波だけで一瞬にして蒸発。
さらにその衝撃波は止まることを知らず、迷宮の森の木々を数百メートルにわたってなぎ倒し、後方の岩壁を円形に綺麗に抉り取って、大地に巨大なクレーターを穿った。
バラバラバラッ……!
凄まじい爆風と土煙が巻き起こり、無数の岩の破片が拓也に向かって降り注ぐ。
「うわぁっ!?」
拓也が咄嗟に腕で顔を覆った、その瞬間。
彼が着ていた漆黒のコートが、自動的に三月の魔力に反応し、白銀の光を放った。
キンッ! カンッ!
降り注ぐ岩の破片も、暴風も、拓也の身体には一切触れることなく、コートの表面で見えない防壁に弾かれていく。
虚無蜘蛛の糸で編まれた絶対防衛のコートは、その性能を遺憾なく発揮し、拓也を完全な無傷で守り抜いたのだった。
「ご、ごめん拓也! 大丈夫!?」
三月が慌てて駆け寄ってくる。
「……う、うん。コートのおかげで、全然痛くないや」
拓也は、周囲の惨状――数百メートルにわたって完全に『更地』と化したFランク迷宮の一部を見渡し、引き攣った笑いを浮かべた。
「でも、ねえさん……。スライム、魔核ごと跡形もなく消し飛んじゃったよ……」
「ああっ! ほんとだ! ごめんね、ちょっと力を入れすぎちゃったみたい……」
三月が、折れてしまった木の枝を見つめながらシュンと肩を落とす。
「……ねえさん。今度スライムが出たら、指で『デコピン』するくらいの力でお願い。本当に、絶対に、それ以上力を入れないで」
「分かった! 次は絶対に、優し〜くデコピンするから!」
数分後。
更地になった森を抜け、生き残っていた別のブルースライムを発見した二人。
「よし、今度こそ……。ねえさん、優しくね」
「うんっ! デコピンだね!」
三月は、スライムの前にしゃがみ込み、右手の親指と中指で輪を作った。
そして、極限まで力を抜き、スライムの青いボディに向かって、そっと指を弾く。
パァァァァァァンッ!!!!
「ブギィィィッ!?」
(※スライムが発してはいけない断末魔)
三月のデコピンが直撃したスライムは、まるでダイナマイトを仕掛けられた風船のように、凄まじい破裂音と共に空中で四散した。
またしても、青いゼリー状の体液と魔核が、衝撃で粉々のチリとなって消滅してしまう。
「ああっ!? また消えちゃった! 嘘ぉ、今の本当に一ミリくらいしか力入れてないのに!」
三月が、自分の指を見つめて信じられないという顔をする。
「……ねえさん」
拓也は、額に手を当て、深く、深い溜め息を吐いた。
「姉さんの『一ミリの力』は、一般の探索者の全力のフルスイングより重いんだよ。……これじゃあ、魔核の回収なんて一生終わらないよ」
かつて三十五階層という深淵で、壊れかけた魂のまま強大すぎる魂を喰らい、魂が崩壊するまで戦い抜いた生ける厄災。
彼女の身体能力は、もはや「Fランクのスライムの素材を無傷で残す」という繊細な作業が不可能な領域にまで到達してしまっていたのだ。
「ううっ……ごめんなさい、拓也。お姉ちゃん、役立たずだぁ……」
三月が、涙目でしゃがみ込む。
「そんなことないよ。ただ……適材適所ってやつだね」
拓也は、コートのポケットから、予備として持ち歩いていた安物のコンバットナイフを取り出した。
「これからは、探索と指示は俺がやる。強い魔獣が出たら、姉さんが全部ぶっ飛ばしていい。……でも、こういう弱い魔獣の『素材回収』だけは、俺がやるよ」
「拓也……。でも、危なくない?」
「大丈夫。このコートのおかげで、スライムの体当たりくらいじゃビクともしないからさ」
拓也がナイフを構え、三匹目のスライムへと近づく。
彼の右眼の眼帯の下には、かつて世界を救った戦術家の冷静な光が宿っていた。
魔力を持たないFランク少年が、世界最強のコートを羽織り、コンバットナイフ一本でスライムと対峙する。
そしてその後ろでは、特異点を一人で更地にする世界最強のブラコン姉が、「拓也がんばれー!」とチアガールのように声援を送っている。
(……俺たちの『日常』って、絶対に普通じゃないな)
拓也は、スライムの核へ向けてナイフを振り下ろしながら、心の中でそう悟るのだった。
かくして、如月デュオの初めてのFランク依頼は、迷宮の一部を更地に変えながらも、なんとか無事に(?)達成されたのである。
彼らの騒がしくも温かい日常は、これからも平穏と無双を交えながら続いていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
極星の大人たちが去り、ついに二人きりの「日常クエスト」に出発した如月姉弟。
しかし、三十五階層の深淵に到達した三月姉さんの「手加減」は、Fランク迷宮の生態系(と地形)を容赦なく破壊してしまいました。
スライムの魔核すら残せない最強の不器用さと、絶対防衛のコートに守られながら自分でナイフを振るうことになった拓也の姿を描きました。
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