第208話:凱旋と束の間の休息、そして極寒の死地への導き
第五魔卿アスタロトが討伐され、中枢神経が完全に破壊されたことによって、南米大陸を覆い尽くしていた『暴食の樹海』は完全にその機能を停止した。
無限に増殖していた赤紫の植物群はすべて灰色の脆い枯れ木へと変貌し、大地から吸い上げられていた魔力脈も、ゆっくりと本来の正常な流れを取り戻し始めていた。
それから数時間後。
大地の魔力干渉が消え去ったことで、機能停止に陥っていた南米の『国際転移ポータル』が再び青白い光を放ち、稼働を再開した。
ブラジル・マナウス郊外の防衛線基地から、日本探索者協会の本部へと繋がる空間のゲート。
そこを潜り抜け、無事に東京の帰還フロアへと足を踏み入れた日米南米の合同遠征軍を待っていたのは、割れんばかりの拍手と、耳を劈くような歓喜の勝鬨であった。
「オオオオオオオオオッ!! 英雄たちの帰還だァァァッ!!」
「よく生きて戻ってきてくれた! 南米大陸を救ってくれて、本当にありがとう!!」
「若大将! 特務遊撃パーティ万歳ッ!!」
フロアを埋め尽くすほどの協会職員や、待機していた日本の探索者たちが、涙を流しながら彼らを迎え入れる。
エジプト、ヴェネツィア、そしてアマゾン。
次々と世界を救い続ける彼らの功績は、すでに一国の英雄という枠を超え、全人類の希望の象徴となっていた。
「……ハッハッハ! どこの国に行っても、俺たちアタッカーは熱烈な歓迎を受けるってわけだ!」
アメリカ最強のSランク、レオン・カーターが巨大な魔剣を肩に担ぎながら、集まった人々へ向けてニカッと豪快に笑い、大きく手を振る。
「フン……騒々しい連中だ。俺はさっさとシャワーを浴びて、極上のベッドで眠りたいんだがな」
日本のトップ魔術師・九条炎樹は、相変わらず素直ではない悪態をつきながらも、その顔には確かな達成感が滲んでいた。
「九条さん、照れないで手を振ってあげてくださいよ! ほら、八咫烏の皆さんも!」
瀬戸玲奈が、満面の笑みで大きく手を振り返す。不知火凛率いる暗殺部隊の面々も、静かに一礼をして周囲の歓声に応えていた。
「おい、カルロスのオッサン。アンタ、自分の国(南米)が救われたってのに、なんで一緒に日本のゲートを潜ってきてんだ?」
風間蓮が、隣を歩く褐色の巨漢――南米総司令のカルロス・リベラを見上げて呆れたように尋ねた。
「カッカッカ! 野暮なこと聞くなよ、氷使いの兄ちゃん! 七つの特異点のうち、五つをぶっ壊したんだ。残る悪魔はあと二匹……ここまで来たら、俺も最後までテメェらと一緒に特等席で暴れ回るに決まってんだろ!」
カルロスが、背中の巨大な戦斧をガチャンと鳴らして豪快に笑い飛ばす。
「カルロス司令が合流してくれるなら、これほど心強いことはない。……我々だけではない。レオンも、九条も、不知火殿も。もはや国境など関係ない、世界最高の『最終決戦部隊』だな」
神宮寺蒼太が、頼もしい仲間たちを見渡し、深く、誇り高く頷いた。
陣形の中央を歩く如月拓也は、右眼を覆う眼帯の位置をそっと直しなら、仲間たちの頼もしいやり取りを静かに見守っていた。
彼一人では、最初の特異点すら突破できなかっただろう。
圧倒的な力を持つ極星の大人たちが、魔力を持たない自分の眼と指揮をコンマ一秒の狂いもなく信じ抜いてくれたからこそ、ここまで辿り着けたのだ。
(……ありがとうございます。皆さん)
拓也は、心の中で深く感謝の念を捧げながら、喧騒に包まれる帰還フロアを後にした。
合同遠征軍がそれぞれ休息に入ったその日の夜。
拓也は一人、探索者協会を抜け出し、厳重な監視を潜り抜けて『黒鉄堂・別館医療室』の地下へと足を運んでいた。
「……ふん。今回も五体満足で戻ってきやがったか、悪運の強いガキだ」
地下室の入り口で腕を組んで待っていたのは、日本一の鍛冶師にして、この病院の主である鉄山厳だった。
彼の隻眼が、拓也の全身を値踏みするように鋭く見つめる。
「鉄山さん。今回も、あなたが打ってくれた『海神の衣』や魔力ブースターのおかげで、全員無事に帰還できました。本当にありがとうございました」
拓也は、深く頭を下げた。
「礼を言われる筋合いはねえ。俺の打った武具が、テメェらの生存率を少しでも上げたってんなら、鍛冶師冥利に尽きるってだけの話だ。……それより、さっさと入ってやれ。待ってるぜ」
鉄山が顎で奥の扉をしゃくる。
「はい」
分厚い防魔合金の扉を開けると、そこには静かな駆動音を立てる生命維持ポッドがあった。
青白い培養液の中で、穏やかな表情で眠っているのは、最愛の姉・如月三月。
エジプトでの死闘の後、精神世界で魂の共鳴を果たし、拓也の右眼を完全に治癒してくれた最強の姉。
「……姉さん。ただいま」
拓也は、ポッドのガラスにそっと右手を触れ、目を閉じた。
今回は、魂の共鳴は起きない。ただ、ガラス越しに伝わってくる微かな魔力の温もりが、拓也の張り詰めていた神経を優しく解きほぐしていくのを感じた。
「五つ目の特異点、壊してきましたよ。アマゾンのジャングルは、本当に厄介でした。魔法を吸収したり、幻覚を見せたり……でも、神宮寺さんや風間さんたちが、俺の眼を信じて全部物理で叩き潰してくれました」
拓也は、ポッドの中で眠る姉に向かって、まるで今日の出来事を報告する子供のように、ぽつりぽつりと語りかけた。
「姉さんが言っていた通りです。俺は、もう一人じゃありません。強い大人たちが、一緒に背中を預けて戦ってくれています。……だから、絶対に大丈夫です」
ポッドの中の三月は、何も答えない。
しかし、その穏やかな寝顔は、弟の成長を心から喜んでいるように見えた。
「あと二つ。……残りの悪魔を全部ぶっ飛ばして、絶対に姉さんを迎えに来ます。待っていてください」
拓也は深く一礼し、踵を返して病室を後にした。
彼の心には、どんな絶望にも屈しない、分厚く強固な決意が炎のように燃え続けていた。
翌朝。
日本探索者協会の地下深くに設けられた、極秘の最高戦略会議室。
そこには、拓也たち『特務遊撃パーティ』の四人に加え、レオン、カルロス、九条、不知火といった日米南米のトップランカーたち、そして迷宮学者の東雲慧と協会のセバスチャンが集結していた。
室内の空気は、昨日の歓喜と熱狂から一転し、極度に張り詰めた重苦しいものへと変わっていた。
「……皆、十分な休息は取れたかい? 心苦しいが、事態は我々が祝杯を上げている間にも、最悪の方向へと進行している」
東雲慧が、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、中央のホログラムモニターを起動した。
「エジプト、ヴェネツィア、そしてアマゾン。……五つの特異点が破壊されたことで、地球に撃ち込まれていた冥淵の魔力は、行き場を失い、残る『二つ』の特異点へと完全に集中した。……その結果、敵の防衛システムは、これまでの環境デバフなどという生易しいレベルを凌駕する次元へと進化してしまった」
東雲がモニターを切り替えると、そこに映し出されたのは、真っ白な氷に覆われた大陸――『南極』の衛星写真だった。
「第六の特異点、南極大陸。……ここを支配しているのは、第六魔卿にして絶対零度の悪魔『氷魔卿グラキエス』だ」
セバスチャンが、手元の資料をテーブルに展開しながら説明を引き継ぐ。
「グラキエスは、南極の広大な氷原を、一切の熱を許さない『絶対零度の水晶迷宮』へと造り変えました。現在、南極大陸の気温はマイナス150度を下回り、あらゆる生命活動を物理的に停止させる死の氷世界となっています。……のみならず、その冷気は現在進行形で海を凍らせ、南半球全体へと恐るべき速度で拡大を続けています」
「マイナス150度だと……? 冗談じゃねえ、そんな環境じゃ防寒具を着込んだところで、一呼吸した瞬間に肺が凍りついて砕け散っちまうぞ!」
カルロスが、目を見開いて声を荒らげる。
「しかも、氷魔卿グラキエスが操る氷は、単なる物理的な冷気ではありません。触れた者の『魔力回路』そのものを凍結させ、魔術の行使を不可能にする『絶魔の氷』です」
セバスチャンの重苦しい言葉に、会議室が静まり返る。
「……なるほどな。水圧、幻覚、超適応の次は、絶対零度と魔力凍結か。相変わらず、理不尽のオンパレードを用意してくれやがる」
レオンが、腕を組んで忌々しげに舌打ちをした。
だが。
その絶望的な報告を聞きながらも、決して顔を伏せることなく、むしろ静かな闘志の炎を燃やしている二人の男がいた。
「……指揮官殿。相手は氷の親玉ってことらしいが」
風間蓮が、手元にあったグラスの水を、自身の魔力で一瞬にして美しい氷の彫刻へと変えてみせながら、ニヤリと笑った。
「氷の扱いなら、俺と神宮寺のオッサンの十八番だぜ。……テメェの魔力と俺たちの魔力、どっちが格上か、本家本元に教えてやる絶好の機会じゃねえか」
神宮寺蒼太もまた、大盾を置いた腕を力強く組み、深く頷いた。
「その通りだ。絶対零度であろうと、我らが『絶氷』の盾と槍の前には、ただの脆いガラスに過ぎん。……拓也くん、我々が君の道を切り拓こう」
極寒の死地を前にしても、極星の大人たちに一切の怯えはない。
彼らの瞳には、少年指揮官に対する絶対の信頼と、自らの力への揺るぎない誇りが宿っていた。
「……はい。頼りにしています、風間さん、神宮寺さん」
拓也は、青く透き通るような右眼で、ホログラムに映し出された南極の水晶迷宮を静かに視据えた。
残る特異点は、あと二つ。
次なる舞台は、生命を拒絶する極寒の氷の大陸。
人類の希望を背負った最高峰の連合軍は、氷魔卿の待つ絶対零度の死地へ向けて、再び力強く立ち上がるのだった。
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