第204話:第三キャンプの夜、過去の傷跡と深まる極星の絆
幻覚胞子を撒き散らす巨大毒キノコを粉砕し、紫色の濃霧を突破した合同遠征軍は、その日の夕刻、無事に七キロ地点へと到達した。
カルロス・リベラ率いる設営部隊の手際は日を追うごとに洗練されており、わずか四十分足らずで、強固な防壁と結界発生装置を備えた『第三キャンプ』が完成した。
「……ハァッ。さすがに今日は、精神的にどっと疲れたぜ」
防壁の上の見張りを他の探索者に任せ、広場に張られた大型テントの前に座り込んだ風間蓮が、深く息を吐き出した。
「まったくだ。筋肉痛よりも、心の古傷を抉られる方が何倍も堪える……。最悪なもんを見せやがって」
レオン・カーターもまた、巨大な大剣を傍らに置き、泥に汚れた顔を乱暴に拭った。
物理的な攻撃は一切受けなかった。しかし、彼ら世界最高峰のSランク探索者たちの顔には、これまでの激戦の中でも見たことがないほどの、深い疲労の色が滲んでいた。
「拓也くん、右眼の具合はどうですか? 痛むようなら、もう一度深く治癒を掛けますけど……」
テントの奥から、瀬戸玲奈が心配そうな顔で歩み寄ってくる。
「大丈夫ですよ、瀬戸さん。少し熱を持っただけですから。それに、姉さんの治癒の残滓が守ってくれているので、後遺症はありません」
如月拓也は、新しい眼帯で覆われた右眼をそっと撫で、柔らかく微笑んだ。
幻覚の元凶を暴くため、自ら結界を薄くして毒霧の精神干渉を直接『解析』した拓也。
一歩間違えれば脳が焼き切れて廃人になっていたかもしれない無茶な行動に、大人たちは肝を冷やしたのだ。
「……だが、お前が自ら毒を被ってくれなきゃ、俺たちはあの霧の中で永遠に過去の悪夢に囚われて、自滅していただろう」
南米の総司令カルロスが、両手で顔を覆うようにして呟いた。
「南米のド根性だのなんだの偉そうに言っておいて、昔死なせちまった兄弟分たちの幻影を見ただけで、足がすくみやがった。……情けねえ話だ」
「俺も同じさ。……かつて俺の指揮ミスで死なせてしまった、パーティの若い連中。……アイツらの声を聞いた瞬間、大剣を振るう腕の力が完全に抜けちまった」
レオンが、自嘲気味に笑う。
「誰だって同じだ。俺だって、駆け出しの頃に氷の魔力制御をミスって、仲間を凍傷で引退させちまった過去がある。……あんなもん、心の奥底に鍵をかけて沈めておくしかなかったんだからな」
風間も、夜空を見上げながらぽつりとこぼした。
彼らは、世界最高峰の極星たち。
しかし、最初から最強だったわけではない。数え切れないほどの死線と、取り返しのつかない失敗、そして仲間の死を乗り越えて、その頂点に登り詰めたのだ。
だからこそ、彼らの心には、常人よりも遥かに深く、重い「トラウマ」が刻み込まれていた。
「……それに比べて、君の精神力はどうなっているんだ、拓也くん」
神宮寺蒼太が、静かに拓也の顔を見つめた。
「あんな高濃度の精神毒を直接脳に受けて、過去の幻覚を見せられながら……なぜ、君の心は一切揺らがなかった? 君だって、エジプトの死闘で仲間を失いかけたり、理氏尽な死を間近で見てきたはずだ」
神宮寺の問いに、レオンや風間、カルロスたちも、真剣な眼差しで少年指揮官へと視線を向ける。
魔力を持たない、純粋な『凡人』である十四歳の少年。
彼がどうして、歴戦の強者たちでさえ心が折れかけた悪夢の中で、ただ一人、前を見据え続けることができたのか。
拓也は、焚き火の炎を見つめながら、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……俺は、心が強いわけじゃありません。ただの、非力な凡人ですから」
拓也は、そっと自身の胸に手を当てた。
「でも、俺の心の中には……『絶対に救い出す』と誓った、世界で一番大切で、強くて、大好きな人の存在が、一番大きな場所を占めているんです」
ポッドの中で眠る、最愛の姉・如月三月。
彼女の魂を救い出し、もう一度家族で食卓を囲む。その狂信的なまでの愛情と決意が、拓也の心を分厚い装甲のように覆い尽くしている。
「過去のトラウマも、後悔も、俺の中にないわけじゃありません。でも、姉さんを救うという『未来への執念』が強すぎて……他の悪夢が入り込む隙間なんて、これっぽっちも残っていないんですよ」
拓也の真っ直ぐで、少しだけ狂気すら孕んだ純粋な瞳。
それを見た大人たちは、一瞬呆けたように沈黙し……やがて、誰からともなく、小さく吹き出した。
「フッ……ハッハッハッハ! なんだそりゃ! 要するに、究極のブラコン……いや、シスコンってやつか!」
レオンが、腹を抱えて豪快に笑い出す。
「カッカッカ! 違いねえ! 世界最強のバケモノ姉貴への愛が重すぎて、悪魔の幻覚毒すら弾き返しやがったってか!」
カルロスも、涙を浮かべて笑い転げた。
「まったく……ウチの若大将には敵わねえや。俺たちの過去の感傷なんて、君の『今』への執念の前じゃ、ただの安いメロドラマだったな」
風間が、嬉しそうに拓也の頭をガシガシと撫で回す。
「……本当に、君の家族への想いは、どんな魔術よりも強固な盾だ。我々も、過去に囚われている場合ではないな」
神宮寺もまた、憑き物が落ちたような清々しい笑みを浮かべて頷いた。
テントの周囲が、いつもの温かく、頼もしい笑い声で満たされる。
幻覚胞子によって抉られた過去の傷跡は、拓也の純粋な「執念」に触れたことで、彼らの心を縛る鎖から、未来へ進むための糧へと昇華されたのだ。
「……おい、おしゃべりを楽しんでいるところ悪いが、東雲のダンナから緊急の通信が入ってるぜ」
そこへ、別のテントから顔を出した九条炎樹が、手元の端末を振りながら声をかけてきた。
拓也たちが即座に表情を引き締め、通信モニターを起動すると、そこには険しい顔をした東雲慧とセバスチャンの姿が映し出された。
『……夜分にすまない。だが、君たちが七キロ地点の幻覚帯を突破したことで、我々の観測機器が、樹海のさらに奥深くの魔力流動を捉えることができた』
東雲が、モニターに新たなレーダー画像を展開する。
『第三キャンプからさらに三キロ先。ジャングルの中心部となる十キロ地点に……これまでとは比較にならない、超高密度の魔力反応がある。間違いなく、第五魔卿アスタロトの本体、あるいはその「心臓部」だ』
「十キロ地点……! 明日、そこまで辿り着けば……!」
瀬戸が、ギュッと両手を握りしめる。
『ええ。ですが、アスタロトもすでに君たちを最大の脅威と認識し、すべての魔力をその中枢防衛に回し始めています。……明日は、これまでの比ではない、苛烈な総力戦になるでしょう』
セバスチャンが、重々しく警告する。
「上等だ。どんなバケモノが待ち構えていようが、俺たち全員で道を作って、若大将に心臓を抉らせてやるさ」
レオンが大剣を引き寄せ、獰猛な笑みを浮かべた。
「ああ。過去を乗り越えた俺たちに、もはや死角はねえ」
風間も槍を構え、闘志の炎を燃やす。
「……了解しました、東雲さん、セバスチャン。明日の朝一で、十キロ地点への最終進軍を開始します」
拓也はモニターに向かって力強く頷き、通信を切った。
アマゾンの死地へと足を踏み入れてから、三日目の夜。
過去の傷を仲間と共に乗り越え、日米南米の極星たちの絆は、これ以上ないほど強固に結びついていた。
世界を喰らい尽くす『暴食の樹海』の最深部へ。
少年指揮官と最強の大人たちの、決戦の朝が静かに近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
幻覚を乗り越え、少しだけ弱さを見せた大人たち。そして、三月への重すぎる愛(執念)で精神攻撃を無効化していた拓也の真実!
絆を深めた合同遠征軍は、いよいよ明日、アスタロトの本体が待つ10キロ地点への最終進軍を開始します。
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