第203話:第三日目の死地、立ち込める幻覚の霧と不可視の毒
五キロ地点での激戦を終え、カルロス・リベラ率いる南米の設営部隊が迅速に組み上げた『第二キャンプ』。
第一キャンプと同様の強固な防壁と、瀬戸玲奈の『白銀の浄化陣』を増幅したドーム状の結界に守られたその空間は、過酷なアマゾン深部における唯一の安全地帯となっていた。
しかし、夜が明けて遠征第三日目の朝を迎えても、前衛たちの顔には深い疲労と緊張の色が濃く残っていた。
「……こいつは、嫌な空気だぜ」
防壁の上に立ち、外の様子を警戒していた風間蓮が、忌々しげに舌打ちをした。
彼の視線の先、第二キャンプを取り囲む赤紫の樹海は、昨日までの「蠢くような動的な狂暴さ」を潜め、不気味なほどに静まり返っていた。
だが、問題はその『色』だった。
樹海全体から、ドス黒い紫色の「濃霧」がとめどなく噴き出し、視界を数メートル先すら見通せないほどに覆い尽くしていたのだ。
「風間さんの言う通りですね。……気味が悪いほど静かだ」
神宮寺蒼太もまた、防壁の縁に手をかけながら、その濃霧を重々しい目つきで睨みつけた。
「静かなのは当然です。……あの霧の正体は、高濃度の『幻覚胞子』ですから」
背後から歩み寄ってきた如月拓也が、携帯端末のモニターを操作しながら静かに告げた。
彼の右眼の『深層言語・限定解析』は、濃霧の中に潜む微細な魔力流動を完璧に読み取っていた。
「昨日の進軍で、アスタロトの樹海は俺たちの『物理的な圧倒的破壊力』を学習しました。魔法を無効化し、装甲を硬くしても、レオンさんやカルロス司令たちの物理攻撃の前では無意味だと悟ったんです。……だから今度は、物理的な接触を避け、呼吸や皮膚呼吸を通じて精神を直接破壊する『毒』に戦術を切り替えてきた」
「なるほどな。力押しが通用しねえなら、精神をへし折りにきたってわけか。タチの悪い陰湿なバケモノだぜ」
風間が槍を肩に担ぎ直し、ふっと息を吐き出す。
「ですが、あの霧の中に踏み込まなければ、アスタロトの玉座へは辿り着けません」
拓也の言葉に、神宮寺が静かに頷いた。
「ああ。進む以外の選択肢はない。……だが、幻覚胞子となると、瀬戸の結界頼みになるな」
「はい。任せてください」
防壁の下から、瀬戸玲奈が力強い声で応えた。
彼女はすでに白銀の杖を構え、いつでも最大出力の浄化結界を展開できるよう、魔力を全身に循環させている。
「これより先、第七キロ地点の『第三キャンプ』予定地まで、この幻覚の霧が続きます。……瀬戸さん、皆をすっぽりと覆う球状の『移動結界』の維持をお願いできますか?」
拓也が尋ねると、瀬戸は迷いなく頷いた。
「鉄山さんの魔力ブースターを使えば、半日は持ちます。……絶対に、皆さんを幻覚になんて落とさせませんから!」
「頼もしい限りだ。さあ、行くぞ野郎ども! どんな霧が立ち込めようが、俺たちの歩みは止められねえ!」
レオン・カーターが大剣を天に掲げ、豪快な号令をかける。
防壁のゲートがゆっくりと開き、日米南米のトップランカーたちが、紫色の濃霧が立ち込める樹海の奥深くへと足を踏み入れた。
シュゥゥゥゥゥッ……。
一歩外へ出た瞬間、瀬戸の展開する球状の『白銀の浄化陣』の表面で、バチバチと音を立てて濃霧が浄化されていく。
結界の外側は、まるで毒の海に潜っているかのように、ドス黒い紫色の胞子がべっとりと張り付いては消えていくのを繰り返していた。
「……すげえ濃度の胞子だ。結界がなけりゃ、一呼吸で脳髄まで溶かされて廃人コースだな」
風間が、結界のすぐ外を漂う毒霧を見ながら顔をしかめる。
「視界も最悪だ。数メートル先すら見えねえ。……八咫烏、周囲の索敵はできているか?」
不知火凛が、自身の率いる暗殺部隊に声をかける。
「駄目です、不知火様。……霧そのものが強烈な魔力を帯びているため、通常の魔力探知も、熱源探知も完全に狂わされています」
部下の一人が、悔しそうに報告した。
「つまり、俺たちは完全な目隠し状態で、毒の沼を歩いているようなものってことか」
カルロスが戦斧を構えたまま、周囲の静寂に目を光らせる。
「……大丈夫です。俺の眼には、ちゃんと『道』が見えています」
陣形の中央。
拓也の右眼だけが、この絶対的な暗闇と毒霧の中にあっても、一切の迷いなく青い光を放っていた。
「この幻覚胞子の霧には、必ず『発生源』となる巨大な毒キノコのような群生地があります。……俺の眼は、その群生地を避けるための最短かつ最も安全なルートをすでに割り出しています」
拓也は、青いワイヤーフレームで構築された視界を頼りに、一歩、また一歩と確実に前へ進んでいく。
彼の指示に従い、大人たちも武器を構えながら、ジリジリと慎重に歩みを進めた。
だが、アスタロトの樹海は、単に霧を撒き散らすだけのような甘い魔境ではなかった。
『……ォ……ォォ……』
突如として、濃霧の奥から、低く、微かな「声」が聞こえてきた。
「なんだ……? 誰かの、声か?」
レオンが耳を澄ませ、大剣の柄を握りしめる。
『……助け、て……。痛いよォ……レオン、隊長……!』
その声を聞いた瞬間、レオンの屈強な肉体がビクリと震えた。
「なっ……お前は、まさか……!?」
レオンの視線の先。
結界の外側の濃霧がわずかに晴れ、そこからズタボロの服を着た若き探索者の姿が浮かび上がった。
その青年は、かつてレオンがまだ駆け出しのリーダーだった頃、アメリカの迷宮で自らの指揮のミスによって死なせてしまった、かつてのパーティメンバーだったのだ。
「馬鹿な……お前は、あの時……!」
レオンが、大剣を下ろしてフラフラと結界の外へ歩み寄ろうとする。
「レオンさん! 駄目です、それは幻覚だ! 結界の外に出ないで!!」
拓也が叫び、必死にレオンの背中を掴もうとする。
だが、幻覚はレオンだけではなかった。
『……カルロス。俺たちを見捨てて、お前だけがのうのうと生きているのか……?』
「……ッ!? お前ら、なんでここに……!」
カルロスの目の前には、かつて南米の過酷なスラムで共に生き抜き、そして魔獣の餌食となって死んでいった兄弟分たちの姿が、血まみれで立ち並んでいた。
『……風間。お前、また俺の足を引っ張る気か?』
『……九条。お前の炎のせいで、俺は焼け死んだんだぞ……』
次々と、各々の心に深い傷として残っている「過去のトラウマ」や「死なせてしまった仲間たち」が、濃霧の中から怨嗟の声を上げて姿を現す。
それは、彼らがSランクという頂点に登り詰めるまでに積み上げてきた、見ないふりをしてきたはずの罪悪感と後悔の具現化であった。
「……くそッ……これは、ただの幻覚だ……! 分かっているのに、身体が……!」
風間が、頭を抱えてその場にうずくまる。
いかに強靭な肉体と魔力を持つ世界最高峰の探索者たちであっても、自らの心の最も柔らかい部分を直接抉ってくる『精神攻撃』に対しては、物理的な防御力は一切通用しない。
「……拓也くん! このままじゃ、皆さんの心が壊されてしまいます!」
瀬戸が、必死に浄化結界を維持しながら悲痛な声を上げる。
結界によって直接的な毒の吸入は防いでいる。
しかし、この霧は「視覚」と「聴覚」を通じて、人間の脳内に直接トラウマの映像を送り込むという、悪魔のような性質を持っていたのだ。
「……精神攻撃。これが、第五魔卿アスタロトの本当の『暴食』……獲物の心を喰らい尽くす毒か」
拓也は、膝をついて苦しむ仲間たちを見渡し、静かに、だが強い決意を込めて短剣を抜いた。
「瀬戸さん! 結界の維持を俺の周囲だけ、極限まで薄くしてください!」
「えっ!? 駄目です、そんなことをしたら拓也くんが毒を吸って……!」
「いいから、やってください! 幻覚の元を断つには、俺が『視る』しかないんです!」
拓也の気迫に押され、瀬戸は震える手で結界の出力を調整した。
その瞬間、拓也の眼帯の下の右眼が、これまでにないほどの激しい青い閃光を放った。
『深層言語・限定解析』――強制突破。
物理的な魔力流動だけでなく、この空間に渦巻く「精神干渉の周波数」そのものを、拓也は自身の脳髄に直接ダウンロードし、解析を始めた。
「……ぐ、ぅぅぅぅッ!!」
凄まじい情報量と、毒霧の精神干渉が拓也の脳を直接殴りつける。
しかし、彼の心には、どんな過去のトラウマも、怨嗟の声も入り込む隙はなかった。
なぜなら、彼の心にはすでに、最愛の姉・如月三月との『絶対に救い出す』という強烈な誓いと、狂信的なまでの愛情が、分厚い壁となって君臨していたからだ。
「……見つけた。この幻覚周波数を束ねている、発信源……!」
拓也は、右眼から一筋の血の涙を流しながらも、濃霧の奥深くにある「一つの座標」を正確に指差した。
「神宮寺さん!! 真正面、距離四十五! この濃霧の発生源である『巨大な毒キノコの親玉』がいます!!」
拓也の叫びが、幻覚に苛まれていた神宮寺の鼓膜を打つ。
「……ハッ!!」
神宮寺もまた、過去の幻覚に囚われかけていたが、少年指揮官の血を吐くような指示によって、強制的に現実へと引き戻された。
「……すまない、拓也くん。少し、夢を見ていたようだ」
神宮寺が、自らの頬を強く叩き、大盾を構えて立ち上がる。
彼の眼に、もはや迷いはなかった。
「我が盾は、君の示す道を絶対に裏切らない。……『絶氷大城壁・破砕衝』ォォォォォォッ!!」
神宮寺の放った極低温の衝撃波が、拓也の指し示した座標へ向けて、濃霧を一直線に切り裂きながら飛翔する。
そして。
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
濃霧の奥底で、巨大な何かが粉々に砕け散る音が響き渡った。
その瞬間。
周囲に立ち込めていた紫色の幻覚胞子の霧が、嘘のようにスゥッと消え去り、かつての仲間たちの幻影も、風に吹かれた砂のように崩れ去っていった。
「……ハァッ……ハァッ……」
レオンが、カルロスが、風間が、荒い息を吐きながらその場にへたり込む。
「終わりましたよ、皆さん」
拓也が、右眼の血を乱暴に拭いながら、いつものように淡々と告げた。
その小さな背中は、歴戦の大人たちの眼には、どんな大木よりも大きく、そして頼もしく映っていた。
過酷なアマゾン大遠征の第三日目。
最も恐ろしい精神の毒を、少年指揮官の自己犠牲を厭わぬ眼と、それに呼応した神宮寺の信頼の一撃が打ち破った。
彼らの歩みは、いかなる悪夢にも止められることはないのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
物理が駄目なら精神攻撃! アスタロトの放った「幻覚胞子」の霧に、歴戦の強者たちも過去のトラウマを抉られ苦戦します。しかし、三月への誓いで心を完全武装している拓也には効きませんでした!
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