第194話:深海の玉座、水魔卿フォルネウスの絶対領域
光すら届かぬ水深三千メートルの海底。
そこは、本来であれば生命の存在を許さない、絶対的な沈黙と超高水圧が支配する死の世界である。
だが今、その漆黒の暗闇の中で、青白い魔力の閃光と氷の破片が猛烈な勢いで飛び交い、深海の静寂を暴力的に打ち破っていた。
「右斜め後方、距離十五! 敵は二体! 風間さん、先ほどと同じく顔面に『氷塊』を!」
「オラァッ! 凍てつけ、深海のバケモノどもッ!」
如月拓也の鋭い指示に呼応し、風間蓮の『銀牙槍・改』から放たれた絶対零度の魔力が、暗闇に身を潜めていた深海魔獣『暗黒海淵の捕食者』の顔面を正確に捉え、分厚い氷塊を形成する。
「神宮寺さん、粉砕を!」
「承知ッ! 『絶氷・剛大盾』!!」
推進ジェットを全開にした神宮寺蒼太が、分厚い水の壁を突き破るような猛スピードで突進。氷塊ごと魔獣の顔面を大盾で粉砕する。
パァァァァンッ!!
再び水中に発生した瞬間的な真空の気泡。
超高水圧の海底で一気に圧壊したその強烈な衝撃波は、硬質な水圧装甲をやすやすとすり抜け、魔獣の巨体を内側から無残に破裂させた。
『ギ、ギェェェェェェッ……!』
断末魔の叫びと共に、数十メートル級の巨体を持つ深海魔獣たちが、次々と海の屑となって沈んでいく。
「……これで、伏兵はすべて片付きました。周囲に敵影はありません」
拓也が、青く発光する右眼の『深層言語・限定解析』で周囲の魔力波形をスキャンし、静かに安全を宣言した。
「ハッ! どんなに光学迷彩で隠れようが、指揮官殿の眼の前じゃ丸裸も同然だな!」
風間が槍をクルリと回し、水中での軽快な動きに満足げな笑みを浮かべる。
「だが、油断は禁物だ。……拓也くんの眼が完璧に機能しているからこそ、我々はこうして一方的に蹂躙できているに過ぎない。本来なら、我々の方が『見えない敵』にすり潰されていたはずだからな」
神宮寺が、大盾にこびりついた魔獣の体液を水流で払い落としながら、厳かに周囲を警戒し続ける。
「瀬戸さん、スーツの魔力残量と結界の調子はどうですか?」
拓也の問いかけに、陣形の中央にいる瀬戸玲奈がバイザー越しに微笑んで頷いた。
「問題ありません。鉄山さんの『海神の衣』のおかげで、水圧の相殺にかかる魔力消費が格段に抑えられています。これなら、ボスの元まで全力を温存できます」
「……よし。それでは、行きましょうか」
拓也は、海底のさらに奥深く――周囲の発光サンゴの光すらも呑み込むような、底なしの暗黒地帯へと視線を向けた。
そこに、街一つを丸ごと海溝へ引きずり込んだ元凶である、強大な特異点の中枢が鎮座しているのを、彼の右眼ははっきりと捉えていた。
四人は推進ジェットを微弱に噴射し、漆黒の海底を滑るように進んでいく。
やがて、彼らの視界に、常軌を逸した巨大な建造物が浮かび上がってきた。
それは、黒い海水を極限まで圧縮して作り上げられた、巨大な『クリスタルの宮殿』だった。
壁も柱もすべてが超高圧の水で構成されており、周囲の海流を完全に支配する禍々しい魔力の光を放っている。
「……あれが、真の玉座ですか」
瀬戸が、そのあまりのスケールと威圧感に息を呑む。
宮殿の巨大な門は開け放たれており、まるで彼らを誘い込んでいるかのようだった。
警戒しながら内部へと進むと、そこは外の海底よりもさらに水圧が高く、押し潰されそうなほどの重厚な魔力に満ちていた。
そして、広大な玉座の間の最奥。
黒い水の結晶で作られた巨大な玉座に、一人の『男』が腰掛けていた。
『……我が用意した最高級の深海魔獣を、小石のように蹴散らしてここまで来るとはな』
男の姿は、エジプトで対峙したベリアルのような荒々しい怪物とは対極にあった。
青白い透き通るような肌。海藻のように波打つ長い銀髪。そして、その身体は水と肉体が融合したかのように、常に流動して輪郭を曖昧にさせている。
美しく、静かで、底知れぬ恐怖を抱かせる存在。
第四魔卿にして深海の悪魔、『水魔卿フォルネウス』。
「ご丁寧な歓迎、どうも。だが、手品と水遊びはもう終わりだぜ。その首、置いていってもらおうか」
風間が槍の穂先をフォルネウスへと突きつける。
『ククク……威勢の良いハエだ。だが、勘違いするなよ人間ども。貴様らがここまで来られたのは、貴様らが強いからではない。我が、貴様らの「足掻き」を特等席で見物したかったからに過ぎん』
フォルネウスがゆっくりと玉座から立ち上がる。
その瞬間。
ミシミシッ……! ギギギギギギッ!!
拓也たちが身に着けている『海神の衣』が、突如として不気味な軋み音を立て始めた。
「な、なんだッ!? 身体が……重い……!」
風間が苦悶の声を上げ、その場に片膝を突く。
神宮寺もまた、屈強な両足でどうにか踏みとどまっているが、大盾を構える腕が小刻みに震えていた。
「水圧が……上がっているのか!?」
神宮寺が顔をしかめる。
『我が真の玉座に足を踏み入れた瞬間から、貴様らはすでに我が「絶対圧力」の支配下にある。……この空間の重圧は、外の海底のさらに十倍。いかなる防魔合金であろうと、あと数分で紙屑のようにペシャンコに圧壊するだろう』
フォルネウスが、指揮者のように優雅に両腕を広げる。
すると、周囲の海水が意思を持ったように渦を巻き、四人の身体を全方位から見えない巨大な万力で締め上げ始めたのだ。
「きゃあっ……!」
瀬戸が悲鳴を上げ、杖を取り落としそうになる。
彼女の結界でさえ、この絶対的な環境の暴力の前では紙切れ同然だった。
『さあ、絶望のままに潰れよ。貴様らの内臓が口から飛び出し、血肉が海に溶けていく様を、ゆっくりと鑑賞させてもらおう』
水魔卿の残酷な冷笑が、玉座の間に響き渡る。
圧倒的な水圧の暴力。
しかし、その絶望的な死の淵にあっても。
「……十倍、ですか。なるほど、確かに息苦しいですね」
陣形の中央。
小柄な少年指揮官だけは、静かに短剣『絶理の銀刃』を抜き放ちながら、普段と何一つ変わらない冷徹な瞳でフォルネウスを見据えていた。
『……何? 貴様、なぜ立っていられる?』
フォルネウスの顔に、初めて明らかな驚愕の色が浮かぶ。
大人たちが膝をつくほどの絶対水圧の中を、拓也はまるで散歩でもするように、ゆっくりと玉座へ向かって歩き出したのだ。
「お前の『絶対圧力』は、対象の魔力密度に比例して重圧をかけるシステムになっている。……エジプトのベリアルが使っていた『剥奪の結界』の、水中応用版ってところですか」
拓也は、軋み音一つ立てない『海神の衣』を纏いながら、淡々と告げた。
「でも、俺には元々、お前が反応するような魔力なんて欠片も持っていないんですよ。……空っぽの器は、どれだけ外から圧力をかけても、簡単には潰れない」
強者である大人たちを殺すために設定された、理不尽な環境デバフ。
だが、純粋な『凡人』である如月拓也にとって、魔力に反応する環境の暴力は、彼自身を縛る枷にはなり得なかったのだ。
『……小賢しい理屈を。魔力を持たぬ非力なガキが、我が玉座に届くなどと……!』
フォルネウスが怒りに顔を歪め、指先から超高圧の水槍を何十本も同時に放つ。
鋼鉄の分厚い装甲すらも一瞬で両断する、水の刃。
だが、拓也の青く発光する右眼は、そのすべての軌道をコンマ一秒の狂いもなく読み切っていた。
ヒュンッ! ヒュンッ!
拓也は、水中でスラスターを微弱に吹かしながら、最小限の動きで水刃の網目をすり抜けていく。
「……俺一人じゃ、お前は倒せない。俺はただの凡人だから」
拓也の冷たい声が、フォルネウスの眼前へと迫る。
「でも……お前の自慢の『圧壊装置』を停止させるくらいなら、この腕でも十分に届く」
拓也が逆手に構えた『絶理の銀刃』が、赤熱の光を帯びて水中で閃いた。
狙いはフォルネウスではない。
彼の玉座の背後、この空間の絶対水圧を制御している、巨大な『黒い水の結晶核』。
少年指揮官の放つ起死回生の一撃が、深海の悪魔の傲慢な理を断ち切るべく、今、鋭く振り下ろされた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
水魔卿フォルネウスの絶対圧力に対し、またしても「持たざる者」である拓也の特性が活路を開きます!
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