第193話:暗黒の海溝、水圧の断頭台と深淵の眼
ドゥカーレ宮殿の床が抜け落ち、次元の底へと繋がる底なしの海溝が口を開けた。
猛烈な下降水流――それは単なる自然現象ではなく、第四魔卿フォルネウスの意思によって操作された「深海への強制連行」であった。
「くそッ……! ジェットの出力が追いつかねえ! どんだけ強引な引き込み力だ!」
風間蓮が『海神の衣』の推進ジェットを最大出力で噴射するが、巨大な洗濯槽の底へ吸い込まれるように、四人の身体は漆黒の闇の中へと猛スピードで引きずり込まれていく。
視界は完全に奪われ、上下左右の感覚すら喪失する絶対的な暗黒。
唯一の光源は、陣形の中央で如月拓也の右眼が放つ、青白い『深層言語・限定解析』の光だけであった。
「……慌てないでください。このまま水流に逆らって浮上しようとすれば、スーツの推進器が焼き切れます」
激しい水流の轟音がスーツ越しに響く中、拓也の極めて冷静な声が通信機から聞こえてきた。
その声には、死の淵へと落下している最中だというのに、微塵の焦りも恐怖も混じっていない。
「落下地点の海底まで、およそ三千メートル。……激突の瞬間まで、スラスターの燃料を温存します。俺のカウントダウンに合わせて、全員で一斉に『逆噴射』と『物理障壁』を展開してください!」
「ハッ! 了解だ指揮官殿。三千メートルのバンジージャンプとは、粋なアトラクションを用意してくれたもんじゃねえか!」
風間が暗闇の中で獰猛に笑う。
「瀬戸、結界の形を流線型から『パラシュート状』に変形して水圧の抵抗を作れるか!」
「やってみます! 『白銀の浄化陣・水傘』!」
瀬戸玲奈が杖を振るうと、落下する四人の下部にドーム状の結界が展開され、水の抵抗を面で受けることで落下速度がわずかに殺された。
それでも、周囲の岩壁が猛烈な勢いで上へと流れていく。
拓也の右眼は、暗闇の中で迫り来る海底の岩盤と、その上に張り巡らされた致死級の水圧トラップの網目を正確に読み解いていた。
「……底が見えました。激突まで、5、4、3……」
極度の緊張が走る。
ミスをすれば、水圧と落下の衝撃でミンチになる。
「……2、1、今ッ!!」
ボシュゥゥゥゥゥゥッ!!
拓也の号令と同時に、神宮寺蒼太と風間のスーツから、限界出力の逆噴射ジェットが火を噴いた。
同時に、神宮寺が真下へ向けて『絶氷大盾・銀嶺』を構え、分厚い氷のクッションを何層にも重ねて展開する。
ドゴォォォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波が海底を揺らし、大量の泥と水泡が巻き上がった。
氷のクッションが次々と砕け散り、逆噴射のベクトルが落下のエネルギーを相殺していく。
「……ぐ、うぉぉぉぉぉぉッ!!」
神宮寺が全身の筋肉を軋ませながら、最後の衝撃を大盾で完全に殺し切った。
「……着底しました。全員、無事ですか」
拓也が周囲の状況を解析しながら、静かに問いかける。
「ああ、生きてるぜ。……まったく、寿命が縮むかと思ったがな」
風間がスーツの泥を払いながら立ち上がる。
「瀬戸の結界と、君の完璧なタイミングがなければ、防魔合金のスーツごとスクラップになっていた。……見事な指揮だ、拓也くん」
神宮寺がへこんだ氷のクッションを解除し、周囲を警戒するように大盾を構え直した。
巻き上がった泥が収まり、彼らの視界に広がったのは、異様な光景だった。
青白い不気味な発光サンゴに照らされた、広大な深海の底。
水圧は地上の数百倍に達しており、『海神の衣』がなければ一瞬で肉体が圧縮されて死に至る、純粋な物理的絶望の領域。
『……生きて着底するとは。しぶといハエどもだ』
暗黒の海溝の奥深くから、海そのものが喋っているような、重く響くフォルネウスの声が鼓膜を震わせた。
『だが、ここは光すら届かぬ我が絶対領域。水面で遊んでいた先ほどとは勝手が違うぞ。……深淵の闇に、その身をすり潰されるがいい』
ズブ……ズブブブ……。
海底の泥の中から、数十メートルにも及ぶ巨大な影が次々と這い出してきた。
それは、チョウチンアンコウとムカデを掛け合わせたような、グロテスクな深海魔獣『暗黒海淵の捕食者』の群れだった。
彼らの身体は高水圧に耐えるために異常なほど硬質化しており、さらに周囲の黒い海水と完全に同化する光学迷彩能力を持っている。
「チッ……見えねえぞ! 暗闇に溶け込んでやがる!」
風間が槍を構えるが、敵の姿が海流に揺らめいて完全に視界から消失した。
「視覚に頼るな、風間! 水流の変化を感じ取れ!」
神宮寺が叫ぶが、敵は水圧を操作して自らの動線を誤魔化しているため、プロの直感すらも騙されてしまう。
「……大丈夫です。見えていますよ」
だが、そんな絶対的有利な環境の暴力を前にしても、少年指揮官の青い瞳は冷徹に光り輝いていた。
三月の魂による奇跡の治癒を経て、完璧な状態を取り戻した拓也の『深層言語・限定解析』。その眼には、光学迷彩も水圧の偽装も一切通用しない。
「敵の装甲は硬いですが、水圧を外殻で支えている分、内側への衝撃には脆いはずです。……『キャビテーション(空洞現象)』を利用します」
拓也は、見えないはずの巨大魔獣の群れを正確に指差した。
「風間さん、左斜め上、距離二十! 敵の顔面へ向けて、貫通力を捨てた『最大の冷気塊』を放ってください!」
「了解だ! 凍てつけェッ!!」
風間が推進ジェットで素早く回り込み、見えない空間へ向けて巨大な氷の塊を撃ち放つ。
直後、隠れていた魔獣の顔面に氷塊が直撃し、周囲の海水が一瞬にして極低温で凍りついた。
「神宮寺さん、その氷塊を全力のシールドバッシュで粉砕して!!」
「承知ッ! 『絶氷・剛大盾』!!」
神宮寺がロケットのような推進力で突進し、魔獣の顔面に張り付いた氷塊を大盾で粉々に打ち砕いた。
その瞬間。
パァァァァンッ!!
水中での凄まじい衝撃波と氷の急激な破壊によって、魔獣の眼前に瞬間的な『真空の気泡』が発生。それが超高圧の深海で一気に圧壊したことで、小さな爆発以上の強烈な衝撃波が魔獣の硬質な装甲の内側へと叩き込まれたのだ。
『ギ、ギャアァァァァァァッ!?』
水圧の装甲を無視された内部破壊。
巨大な深海魔獣が断末魔を上げ、内側から破裂するようにして海の屑へと変わった。
「すげえ……! 水の性質を利用して、装甲を無視する爆弾を作り出しやがった!」
風間が自らの放った冷気の予想外の破壊力に驚きの声を上げる。
「物理の理屈さえ分かれば、深海という環境はこちらの武器にもなります」
拓也は短剣を構え直し、残る魔獣たちと、その奥に潜む第四魔卿の気配を見据えた。
「さあ、案内してもらいましょうか。……水圧の神様が引きこもっている、真の玉座へ」
光届かぬ深淵の底。
しかし、少年指揮官の青い眼光と、彼を信じ抜く最強の大人たちの前には、いかなる暗闇も絶対の死角にはなり得なかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
水深三千メートルの海底へ落下した一行。しかし、三月の癒やしで万全の拓也の指揮は、深海の環境すらも味方につけて反撃を開始します!
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