第十九話:団地の温もりと、歪む日常
迷宮の硬質な空気と魔力の余韻を全身に纏ったまま、三月は新宿の雑踏を抜けて自宅のある団地へと向かっていた。
使い古されたスニーカーの裏が、コンクリートを叩く。
迷宮の奥底で聞いたクリスタル・レギオンの金属的な咆哮が、街の喧騒にかき消されていく。彼女にとって、この日常こそが、何よりも優先されるべき聖域だった。
自宅のドアの前まで来ると、三月は一度だけ大きく深呼吸をした。
コートの内側に隠した黒鉄の大剣と、ポケットに入れたままの魔石。
それらが放つ異界の冷気を感じながら、彼女はわざと声を弾ませてドアを開ける。
「ただいまー!」
「あら、三月。お帰りなさい」
台所から、母・由美子の声がした。
ジューという小気味よい音が響いている。フライパンの中で、今日もまたハンバーグが美味しそうな焼き色をつけられていた。
三月は、その光景を眺めながら、少しだけ苦笑する。
「お母さん、またハンバーグ? 昨日もそうだった気がするんだけど」
由美子はハンバーグを器用にひっくり返しながら、楽しげに笑った。
「あら、良いじゃない。お父さんも拓也も、これなら残さず食べてくれるもの。それに……三月、あなた最近すごくお腹を空かせて帰ってくるでしょう? やっぱり、これが一番スタミナがつくのよ」
「……まあ、確かにね。美味しいし」
三月は素直にそう答えた。
迷宮の底で死線を潜り抜けてきた彼女にとって、母の作るこのハンバーグは、ただの食事以上の意味を持っている。噛みしめるたびに、心に溜まった迷宮の冷気が解けていくような感覚があるのだ。
リビングの隅では、弟の拓也が参考書を広げて机に向かっていた。
姉の帰宅に気づくと、彼は少しだけ表情を和らげ、眼鏡の位置を直す。
「……遅かったな、姉ちゃん。あ、母さん、俺の分もハンバーグでいいのか?」
「もちろんよ。拓也も受験勉強で頭を使うんだから、しっかり食べなきゃ」
食卓に並ぶのは、今日もハンバーグだ。
三月は自室で着替えを済ませてリビングに戻ると、父・昭雄の座る席の隣に座った。
父の顔色は、以前よりも明らかに良くなっている。
三月の稼ぎで手に入れた高価な薬と、こうして家族で囲む毎日の食卓。それが、父の回復を早めているのは間違いなかった。
「三月、今日は仕事はどうだったんだ?」
父の問いかけに、三月は自然な笑みを浮かべて答えた。
「うん、順調だよ。少しずつランクアップできそう」
嘘ではない。だが、真実でもない。
「Fランク」という枠組みは、今の彼女にとってあまりにも小さすぎる。
昨日討伐したクリスタル・レギオン。あれは本来、多くのパーティが連携して挑むべき相手だ。それを独力で撃破した自分を、「順調」の一言で片付けてしまうことへの背徳感が、ふと胸をよぎる。
食後、自室に戻った三月は、ベッドの上に仰向けになった。
暗い天井を見つめながら、指先をわずかに動かす。
『磁力操作(微)』。
彼女が意識を向けると、ベッドの横に置いていたヘアピンが、糸に引かれるようにフワリと浮き上がり、彼女の指の周りをくるくると回り始めた。
(……これがあれば、もっと効率的に稼げるようになる)
迷宮の魔石を回収する際、いちいち拾い歩く必要はない。
剣に磁気を纏わせれば、攻撃の軌道を無理やり曲げて回避困難な一撃を叩き込むこともできるかもしれない。
その時だった。
指先を回っていたヘアピンが、カチャリと音を立てて床に落ちた。
彼女の気配察知が、窓の外の空気に「違和感」を捉えたからだ。
団地の外、深夜の静寂の中。
三月の住む棟の前に、一台の高級黒塗り車が停車した。
車から降りてきたのは、スーツを完璧に着こなした二人の男。彼らの纏う雰囲気は、深夜の住宅街には明らかに不釣り合いな、重厚な「探索者」の匂いを漂わせている。
(……探索者協会の人? それとも、別の……)
彼女の持つ『気配察知』が、彼らの体内に宿る高密度の魔力を検知している。
彼らは明らかに、ただの通行人ではない。
目的を持ってこの場所に来た。そして、その視線は、三月の部屋のある階層へと真っ直ぐに向けられている。
(まさか、昨日のボス討伐の……?)
三月はベッドから跳ね起き、カーテンの隙間から外を覗き込んだ。
男の一人が、何かを操作するように通信機を耳に当てる。
彼女の日常を脅かす、得体の知れない影。
迷宮の中よりも冷たい緊張感が、彼女の背筋を駆け上がった。
第十九話をお読みいただき、ありがとうございました!
家庭の温かい食卓風景、毎日ハンバーグが出るという「日常の象徴」を描くことで、三月が守りたかった平穏がどのようなものか強調しました。
しかし、そんな彼女のささやかな日常を、謎の男たちが踏み荒らそうとしています。あの高級車に乗った二人組は、一体何者なのか。三月が迷宮の外で直面する、これまでとは違う種類の脅威に、ぜひご期待ください!
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それでは、第二十話でお会いしましょう!




