第十五話:魂の飽和と、軋む器
クリスタル・ゴーレムの重厚な魂を喰らい、『堅牢(中)』へと至った三月。
新しい漆黒のコートの裾を揺らしながら、彼女は第三層のさらに奥深く、
魔力の濃度がより色濃くなる深淵へと歩みを進めていた。
「まだ、いける……」
ぽつりと呟いた声は、静かな水晶の森に吸い込まれていく。
腕力を司る『怪力』、速度を司る『俊敏』、そして防御を司る『堅牢』。
探索者にとっての基礎とも言える三つの身体能力が、
すべて常人を遥かに凌駕する『中』の領域へと到達した。
無敵とも思える全能感が、彼女の足取りを軽くさせている。
このまま第三層の主すらも見つけ出し、その魂を喰らってしまえるのではないか。
そんな歪んだ自信が胸の奥で膨らんでいた。
しかし。
広場からさらに数百メートルほど進んだその時だった。
「――ッ!?」
突如として、三月の全身を激しい悪寒が襲った。
ドクンッ!!
心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねる。
視界が不意にぐにゃりと歪み、青白かった水晶の森の景色に、
ノイズのように「どす黒い赤色」がフラッシュした。
「あ、が……っ、なに、これ……」
三月は膝から崩れ落ち、黒鉄の大剣を杖代わりにしてかろうじて上体を支えた。
(敵の攻撃……!? 違う、気配はない……っ)
外からのダメージではない。
異変は、彼女の『内側』で起きていた。
全身の血管を駆け巡る魔力が、まるで沸騰したように異常な熱を持ち始めている。
そして、脳内に直接、幾つもの悍ましい「咆哮」が響き渡った。
『キシャアアアアッ!』
『ゴォォォォォ……ッ!』
『ギチギチギチッ!』
第二層の主・ブラッドマザー。
水晶の巨兵・クリスタルゴーレム。
暗殺者・クリスタルマンティス。
つい数日、あるいは数時間の間に彼女が喰らい尽くしてきた、
強大な魔獣たちの断末魔と本能が、彼女の魂の中で濁流となって暴れ回っていた。
「ぐ、うぅぅ……あぁぁぁっ!!」
三月は胸を掻きむしり、苦痛に顔を歪めた。
『魂喰い(ソウルイーター)』のオン・オフを自らの意志で制御できるようになり、
理性の鎖で狂気を飼い慣らしたつもりでいた。
しかし、彼女は決定的な事実を見落としていたのだ。
どれほど強靭なスキルを得ようとも、「如月三月」という人間の『器』そのものが、
いきなり劇的な変化に耐えられるわけではないということを。
短短期間のうちに、強力な魔獣の魂を連続して喰らいすぎた。
『怪力』『俊敏』『堅牢』という三つの強力なスキルが、
ほぼ同時に『中』へと急速進化したことで、人間の魂と肉体のキャパシティが、
完全に飽和状態を起こして悲鳴を上げているのだ。
――喰え。もっと喰え。
――お前はもう人間ではない。我らと同じ怪物だ。
頭の中に直接響く、どす黒い衝動の声。
成長速度を上げすぎた代償。
それは、抑え込んでいたはずの『魂喰い』という呪いが、
脆くなった器の隙間から一気に逆流し、彼女の自我を飲み込もうとする牙だった。
「ふざけ、るな……っ!!」
三月は自らの舌を、遠慮なく強く噛み切った。
口の中に生暖かい鉄の味が広がり、強烈な痛みが脳を貫く。
「私は……人間だっ! お父さんと、お母さんと、拓也の……家族だ!!」
家族の笑顔を、あの食卓の温もりを、焼け付くような脳裏に必死に描き出す。
痛みを鎖に。愛を楔に。
三月は全身の毛穴から冷や汗を吹き出しながら、
体内を暴れ回る魔獣たちの残滓を、自らの圧倒的な意志の力でねじ伏せていく。
「静かに、しろぉぉっ!!」
彼女自身の魔力を重い檻に変え、暴動を起こすスキルたちを、
魂の奥底へと強引に封じ込めた。
数分間の、永遠にも感じられる内なる死闘。
やがて、荒れ狂っていた魔力の沸騰が徐々に収まり、
視界を覆っていた赤いノイズが消え去っていった。
「はぁっ……! はぁっ……、はぁっ……」
三月は荒い息を吐きながら、冷たい岩盤に倒れ込んだ。
全身の筋肉が痙攣し、まるでフルマラソンを何本も走ったかのような極度の疲労感が襲ってくる。
危なかった。
あと少しでも自己の確立が遅れていたら、今度こそ本当に理性が焼き切れ、
迷宮を永遠に彷徨いながら命を貪るだけの、本物の化物に成り果てていた。
「……調子に、乗ってた」
三月は自嘲気味に呟き、震える手で顔を覆った。
強大な力に酔いしれ、急ぎすぎていた。
『中』へと一気に進化した能力は、今の彼女の肉体には負担が大きすぎる。
例えるなら、軽自動車の車体に、無理やりF1カーのエンジンを三つも積んで走っているような状態だ。
このまま無計画に強大な魂を喰らい続ければ、
スキルが進化する前に、器である人間としての自分が完全に崩壊してしまう。
「……当分は、大物を喰うのは禁止。この身体を、新しい力に完全に馴染ませるまでは」
三月はフラフラと立ち上がり、黒鉄の剣を杖のようにして身体を支えた。
これ以上の深層への前進は、今は自殺行為だ。
まずは獲得した『中』の能力を、感覚のズレなく完全に使いこなせるようになるまで、
「喰う」のではなく、純粋な「武の鍛錬」として実戦をこなす必要がある。
「今日は……帰ろう」
三月は踵を返し、来た道を戻り始めた。
道中、三匹のシャドウ・ウルフの群れと遭遇した。
『グルルルッ……!』
以前なら瞬時に両手を開き、その魂を貪るための『吸入の門』を作り出していただろう。
だが、三月は静かに『魔鉄の塊剣』を構えた。
「……おいで」
スキルに頼らず、自身の身体能力と剣筋のコントロールだけで、魔獣を狩る。
魂は喰らわない。魔石だけを回収する。
圧倒的な力に呑み込まれないための、静かで理知的な戦い。
少女は真の強さを手に入れるための「踊り場」に立ち、
人間としての己の足元を、もう一度固め直す決意を胸に刻んでいた。
第十五話をお読みいただき、ありがとうございました!
あまりに急激な成長は、三月の人間としての器に大きな負荷をかけていました。スキルが進化しすぎたことで、内なる怪物の衝動が彼女の理性を焼き切ろうと牙を剥きます。
それでもなお、痛みをアンカーに踏み留まった三月は、ただ力を貪るだけではなく、自らを律する術を学びました。化物に成り果てないための、静かなる鍛錬の日々が始まります。
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それでは、第十六話でお会いしましょう!




