第113話:沈黙の食卓と、変貌する日常
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ここから物語は「第二章:少年の探索者編」へと突入します。
姉の三月が昏睡状態に陥り、崩れ去った如月家の日常。
高校受験を控えた弟・拓也は、姉がこれまで命を懸けて守り抜いてきた「裏側の戦い」を継ぐべく、独り、未踏の領域へと踏み出します。
姉を救うため、探索者としての道を歩み始めた拓也。
彼を待ち受ける過酷な現実と、鉄山の工房から始まる新たな絆の物語。
運命が大きく動き出す第二章、ぜひお楽しみください。
第113話:沈黙の食卓と、失われた日常
姉の三月が植物状態で倒れてから一週間。
如月家の食卓には、かつてないほど濃密な静寂が支配していた。
「……三月、今日は少し顔色が良かった気がするわ。このまま、何かの拍子に目を覚ましてくれたら……」
「ああ……そうだな。医師はもう期待するなと言うが、俺は信じているよ」
父の正一は震える手で茶碗を握りしめ、母の美咲と痛々しいほど視線を合わせる。二人は三月の病室とこの家を往復するだけの生活を送り、何とか日常という体裁を維持しようと懸命だった。その無理に明るく振る舞おうとする姿が、今の拓也には痛いほど突き刺さる。
拓也はその隣で、ただ黙って味噌汁を啜るふりをした。
彼の部屋の机の上には、志望校の赤本や対策問題集が山のように積み上がっている。本来であれば、人生で最も重要な高校受験を控えた、追い込みの時期だ。だが、今の拓也にとって、模擬試験の偏差値や志望校の合格判定など、姉の昏睡に比べれば砂粒ほどの価値も持っていなかった。
(お父さんも、お母さんも……もう限界に近いんだ)
両親は三月の不在という巨大な空白を受け入れられず、現実から目を逸らすこともできず、憔悴しきっている。彼らは三月が家族を守るためにどれほどの危険を冒していたのかを知らない。彼女が遺した重厚な封印鞘が、ただの鉄の塊ではないことも。
食卓を後にし、自室に戻った拓也は、姉が遺したスマートフォンを凝視した。
画面には、受験勉強の合間に見ていた姉のメッセージが、何事もなかったかのように残っている。『拓也、頑張れよ。合格祝い、何がいいかな?』――その言葉が、今の拓也には刃のように胸を切り裂いた。
(姉ちゃんが、何と戦っていたのか……。何も分からないままじゃ、姉ちゃんは戻ってこない)
拓也は、姉が倒れる前から自身の研究について助言を仰いでいた先達・東雲のもとを訪ねる決意をした。
如月家の周辺には、鉄山から派遣された斎藤が『護民の盾』として目を光らせていることを、拓也はうっすらと察知している。斎藤はあくまで家の外で警護を続けており、部屋の中まで踏み込んでくることはないが、その「盾」の存在が今の如月家の平穏を支えていた。
拓也は両親に「志望校の対策について、詳しい人にアドバイスをもらってくる」とだけ告げ、家を出た。
夜の街。新宿の雑居ビルにある東雲の事務所。扉を叩くと、中から研究資料に埋もれた東雲の声が返ってくる。
「……拓也君か。珍しいね、こんな時間に」
東雲はいつものように、研究資料から目を上げ、拓也を招き入れた。拓也は震える声で告げる。
「……東雲さん。姉ちゃんが倒れました。一週間前、植物状態で……俺、どうしていいか分からなくて。姉ちゃんが何をしてたのか、何と戦っていたのか教えてください。どうしても、姉ちゃんを救いたいんです」
東雲の表情から、いつもの穏やかな笑みが消えた。
彼は椅子から立ち上がり、窓の外へと視線を向ける。三月という要を失ったこの世界の均衡が、音を立てて崩れようとしていることを悟っていた。
「……君がそれを知る必要があるのか。君にとっては過酷すぎる現実だ。だが、姉を救うために迷宮へ潜るのなら、彼に頭を下げ、協力してもらう以外に道はない」
東雲は拓也に向き直り、静かに告げた。
「迷宮は、高校受験の模試とは比較にならないほど、君の命を削り取ってくる場所だ。それでも行くか?」
拓也は短剣を握りしめ、力強く頷いた。
翌朝、拓也は鉄山の工房へ向かった。
扉を押し開けると、燃えるような熱気が押し寄せる。巨大な槌を振るう鉄山の姿。彼は拓也の足音だけで来訪者を察したのか、槌を止め、ゆっくりと振り向いた。
「……お前か。如月の弟」
鉄山は、三月の弟である拓也の姿をじっと見据えた。彼には、姉が倒れたことすらまだ知らされていない。
鉄山は、三月が家族のためにどれほど心血を注いでいたかを知る数少ない人間として、少し眉をひそめた。
「どうした。三月はどうした? ……あいつがここへ寄らずに、お前をよこすとはな」
鉄山は、拓也が三月の不在と、植物状態にあるという悲劇を告げに来たのだと察し、一歩踏み込んだ。
拓也は、その重圧に屈することなく、真っ直ぐに鉄山を見据え、深々と頭を下げた。
「姉ちゃんが……倒れました。……もう一週間、意識がないんです。姉ちゃんが守ってきたこの日常を、姉ちゃんの戦いを、俺に継がせてください。……鉄山さん、俺に力を貸してください!」
鉄山は、巨大な槌を床に突き立て、耳を傾けた。
工房に満ちる金属の匂いと熱気の中で、拓也の覚悟と、沈黙が交錯する。
「……三月が、倒れただと。あいつが……」
鉄山は槌から手を離すと、静かに、しかし地響きのような低音で告げた。
「……事情は分かった。あいつが命を削って守ろうとしたものが、植物状態になった本人だというのか。……ふん、笑えないジョークだ」
鉄山は作業台を指で叩いた。
「俺は職人だ。迷宮に潜るための武装ならいくらでも用意できる。だが、三月の代わりはお前に務まるか? 高校受験前のガキが、迷宮の洗礼に耐えられるはずがない」
「……だから、鉄山さんに頼んでいるんです。俺が、姉ちゃんを救うためにここへ来たんです。……姉ちゃんが使っていた装備は、今の俺には重すぎて扱えない。だから、今の俺でも扱える武具を打ち、俺を育ててくれる仲間を……鉄山さんの伝手で用意してください!」
拓也の言葉に、鉄山は工房の火を見つめた。
三月という少女が家族を守るために何を犠牲にしてきたかを知る彼にとって、その弟の必死な言葉は、心に深く突き刺さった。
「……いいだろう。お前のその覚悟、俺が預かる」
鉄山は槌を肩に担ぎ、工房の奥へと招き入れた。
「まずは探索者登録からだ。そして、お前を護りながら成長させられる護衛……いや、パーティも俺が責任を持って用意してやる。お前が三月の代わりに迷宮へ踏み出すというのなら、俺が全力でバックアップしてやる」
工房の熱気の中で、拓也の「高校受験」という日常は終わりを告げた。
鉄山という職人が拓也の師となり、最強のパーティを用意する。
迷宮という名の深淵を見据え、少年の過酷な修行が、今、始まろうとしている。
高校受験という日常と、姉の救出という非日常の狭間で揺れる少年の決意を描きました。鉄山の協力も取り付け、いよいよ探索者としての準備が始まります。
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