第112話:魂の摩耗と、帰るべき場所(第1章 完)
月曜日の朝。
日本の首都であり、世界最大の迷宮都市でもある東京は、新たな一週間の始まりを告げる喧騒に包まれていた。
「それじゃあお父さん、今日の検診も無理しないでね。お母さんも、付き添いよろしくね! 拓也、学校遅れないようにねー!」
如月家の玄関で、三月はエプロン姿で満面の笑みを浮かべ、元気に手を振っていた。
三月の稼ぎのおかげでパートを辞められた由美子が、病気から回復した昭雄の腕を優しく支え、拓也が元気に靴を履いて駆け出していく。
三人が揃ってエレベーターの奥へと消え、チーンという到着音が響き渡るのを確認してから。
ガチャリ、と。
三月は分厚い玄関のドアを閉め、重い鍵をかけた。
その瞬間。
彼女の顔から、愛らしい「家族思いの長女」の笑顔がスッと消え去った。
「……ふぅ」
小さく息を吐き出すと同時に、三月は体内深くに張り巡らせていた極小の『爆熱(微)』の魔力循環をオフにする。
家族を安心させるために維持していた「人間の36.5度」の偽装が解かれ、変質しきった魔力回路が絶対零度の冷気を一気に放出し始める。
フローリングに霜が降り、金属のドアノブが白く凍りつく。
自室に戻った三月は、両腕に刻まれた生々しいケロイドの傷痕を隠すように漆黒のインナースーツを着込み、重厚なロングコートを羽織った。
ベッドの下から相棒である魔法大剣『黒月』を引き抜き、部屋の真ん中で静かに目を閉じる。
フッ、と。
空間の座標を掌握し、三月の身体は自室から掻き消えるようにワープした。
* * *
ワープの先は、迷宮第35層『極点焦熱の氷穴』。
氷河とマグマが交差する、マイナス100度の猛吹雪と数千度の熱波が吹き荒れる死の世界。
ズシン……! ズシン……!
三月の姿を認め、猛吹雪の奥から体長三十メートルを超える双極竜が姿を現した。
右の顎からは絶対零度を、左の顎からは紅蓮の炎を滴らせる深層の主。
竜が、侵入者を消し炭にしようと大きく息を吸い込んだ、その瞬間。
「うるさい」
三月は、無表情のまま左手の指先を動かした。
『重力操作(微)』。
三月はその微小な重力の的を、双極竜の脳髄の中心、わずか数ミリの空間に設定し、発動させた。
ドバァンッ!
たったそれだけで、竜の頭部は内側へ向かって一瞬でひしゃげた。
強靭な鱗も骨も関係ない。脳の中心に発生した異常な重力場によって、自らの頭部が内側へと潰れ、竜は絶命して氷の大地へと崩れ落ちた。
「……」
三月は無言のまま、竜の死骸へと歩み寄る。
右手のグローブを外し、素手でその骸から立ち昇る「魂」に触れた。
固有スキル『魂喰い』。
双極竜の根源たるエネルギーが、三月の回路へと流れ込んでくる。
しかし、その瞬間だった。
ピキッ、と。
三月の内側で、何かが決定的に「割れる」音がした。
「……あ」
三月は、その場に力なく膝をついた。
痛みはない。苦しみもない。
ただ、限界だったのだ。
いくら強力なスキルを持っていようと、三月の魂の器は元々「ただの人間の少女」のものでしかない。そこに何万という異形の魂を喰らい、無理やり継ぎ接ぎし続けた結果、彼女の人間としての精神は限界質量を超え、ついに完全に崩壊した。
(お母さんの、卵焼き……。どんな味、だっけ)
彼女の瞳から、人間らしい感情の光がスッと抜け落ちていく。
喜び、悲しみ、怒り、恐怖。
そして、何よりも大切だったはずの『家族への愛』すらも、真っ白に漂白されて消えていく。
「……帰らなきゃ」
崩れ落ちていく意識の中で、ただ一つ残された本能。
夕食の手伝いをしなければ。家族の待つ家に帰らなければ。
その強迫観念のような思いだけが、急速に空っぽになっていく三月の魂を動かした。
彼女は最後の魔力を振り絞り、空間の座標を繋いでワープを発動させる。
* * *
フッ、と。
東京のマンションの一室。自分の部屋のベッドの脇に、三月の身体が転がり出た。
「……あ、」
帰ってきた。大好きな家族のいる、安全な箱庭に。
それを認識した瞬間。三月を縛り付けていた最後の糸がプツリと切れ、彼女の瞳から、生命の光が完全に消失した。
魂が、完全に空っぽになったのだ。
もう二度と、何も考えることはできない。何も感じることはできない。
ガシャンッ、と。
手から滑り落ちた大剣が、フローリングに重い音を立てて転がる。
それと同時に、三月の身体も糸が切れた操り人形のように床へと崩れ落ちた。
ピクリとも動かない。微弱な寝息だけが、静まり返った部屋に響いていた。
* * *
夕方。
検診と買い物を終えた家族が、笑顔で玄関のドアを開けた。
「三月ー、ただいま! 美味しそうな挽肉が安く買えたぞ!」
「三月? あら、まだ寝てるのかしら」
リビングにもキッチンにも、三月の姿はない。
不思議に思った由美子が、三月の自室のドアを軽くノックし、そっと開けた。
「三月、入るわよ……って、三月!?」
由美子の悲鳴を聞きつけ、昭雄と拓也が慌てて部屋へと駆け込む。
そこには、漆黒のコートを着たまま、床に倒れ伏している三月の姿があった。
「おい、三月! どうしたんだ、しっかりしろ!」
「姉ちゃん!? 嘘だろ、おい!」
昭雄が三月を抱き起こし、必死に頬を叩く。
息はある。体温もある。
だが、大きく見開かれたままの彼女の黒い瞳には、一切の光が宿っていなかった。
家族がどれだけ泣き叫ぼうと、身体を揺さぶろうと、彼女の意識が浮上することは決してない。
魂を喰らい続けた怪物は、自らの魂を完全にすり減らし、ただ息をするだけの「植物状態」へと成り果てたのだ。
表の権力を屈服させ、裏の組織で周囲を完璧に固め、これ以上ないほど強固な『完璧な日常』を作り上げた直後。
それを守るべき絶対者自身が、永遠の眠りについて封印されるという残酷な結末。
コンクリートジャングル東京の夜景を見下ろす部屋の中で。
魂が空っぽになった少女の抜け殻を抱きしめながら、家族の悲痛な泣き声だけが、いつまでも虚しく響き渡っていた。
【 第1章 魂喰いの少女編 ・ 完 】
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