第111話:原宿の喧騒と、見えざる絶対者の歩み
迷宮都市――日本の首都、東京。
代々木公園での穏やかなピクニックを終えた如月家の四人は、午後の柔らかな日差しの中、原宿駅前へと続く人の波の中をのんびりとした足取りで歩いていた。
「いやー、食べた食べた。やっぱり外で食べるお母さんの弁当は最高だな!」
「もう、お父さんったら食べすぎよ。せっかく東京のど真ん中を歩いてるんだから、少しはお洒落なショーウィンドウでも見て歩きましょうよ」
昭雄がポンポンと満腹のお腹を叩き、由美子がくすくすと笑いながらその腕に寄り添う。
弟の拓也はスマートフォンで最新の探索者ランキングのニュースをチェックしながら、前を歩く両親を追いかけている。
三月は、そんな家族の背中を、眩しいものを見るような優しい目で見つめながら歩いていた。
かつて若者のファッションとカルチャーの中心地であった原宿・表参道エリア。
そこは今、現代のトレンドと、人智を超えた迷宮のファンタジーが最も色濃く交差する特異な場所となっていた。
最新のスイーツを求める女子高生たちの横を、血と硝煙の匂いを染み込ませた重武装の探索者たちが、ごく当たり前のように肩を並べてすれ違う。
高級ブランドのブティックの隣には、迷宮でドロップした魔石や素材を買い取るための煌びやかな「魔石換金所」が軒を連ねている。
それが、この迷宮都市・東京における、歪で平和な日常の風景だった。
(……平和な日曜日。誰も悲しまず、誰も怯えない、完璧な東京の休日)
三月は、周囲の喧騒に溶け込むように『気配察知(微)』のアンテナを薄く、広く展開していた。
休日の原宿エリアは、尋常ではない人口密度だ。しかし、三月の超感覚は、その群衆の中から特定の気配だけを完璧に識別していた。
クレープ屋の長蛇の列に並んでいる、派手な服装のカップル。
電柱の影でスマートフォンをいじっている、デリバリーサービスの青年。
アパレルショップの前で、熱心に客引きをしている店員。
彼らは全員、鉄山が裏で束ねる組織『護民の盾』の精鋭たちだった。
完全に一般市民の顔をして東京の雑踏に溶け込みながら、如月家の周囲に一切の死角を作らず、完璧な護衛陣形を敷き続けている。
表の権力である協会が監視カメラや交通網のデータを操作して公的なノイズを消し、裏のイージスが物理的な盾となる。
今やこの巨大な首都・東京のシステムそのものが、三月の「家族との休日」を守るためだけに最適化されて稼働していた。
「あ、姉ちゃん! 見てみろよ、あそこ!」
突然、前を歩いていた拓也が興奮した声を上げ、交差点の向こう側を指差した。
人混みが、モーセの十戒のように自然と割れている。
その中央を我が物顔で歩いてくるのは、全身をギラギラとした高級な魔法金属の防具で固めた、5人組の探索者パーティだった。
肩には有名なBランククランのエンブレムが誇らしげに輝いており、彼らは一般の東京市民たちを見下すような、傲慢な笑みを浮かべて闊歩している。
「あのエンブレム、最近テレビでよく見るBランクのクランだ! すっげー、装備だけで何千万もするらしいぜ!」
拓也が目を輝かせる。
しかし、彼らがすれ違いざま、人混みを無理やり押し退けようとしたその時だった。
「おい、邪魔だオッサン。俺たちの前を歩くんじゃねぇよ」
先頭を歩いていた大柄な剣士が、悪態をつきながら、昭雄の肩にわざと強くぶつかってきた。
「おっと……! す、すみません」
よろめいた昭雄を、由美子が慌てて支える。
大柄な剣士は謝るどころか、舌打ちをして昭雄を睨みつけた。
「チッ、一般人がチョロチョロしやがって。俺たちが命懸けでこの東京の地下を掃除してやってるから、お前らみたいな無能が平和に休日を楽しめてるんだぞ? 少しは道を譲る頭を持て」
その瞬間。
周囲の雑踏に溶け込んでいた『イージス』のメンバー数人の気配が、一斉に『極度の殺意』へと変貌した。
彼らの手は上着の懐に潜む暗器へと伸び、たった今、自分たちが命に代えても護衛すべき「絶対者の父親」に暴言を吐いた愚か者の首を、この原宿のど真ん中で音もなく刎ね飛ばすための包囲網を瞬時に完成させた。
(……駄目よ)
三月は、表情を一切変えることなく、コートのポケットの中で左手の人差し指を「トン」と一度だけ叩いた。
それは、イージスのメンバーに向けた『手出し無用』の絶対の合図。
もしここで彼らが血を流せば、両親が悲鳴を上げ、休日の空気が台無しになってしまうからだ。
「……お父さん、大丈夫?」
三月は小走りで昭雄の元へ駆け寄り、心配そうにその背中をさすった。
「ああ、平気だ。こちらがボーッとしていたのが悪いんだから」
「おい、そこの女。文句があるなら――」
大柄な剣士が三月を見下ろして威圧しようとした、その時。
三月は彼の方へ振り返り、完璧な『怯えきった、か弱い少女』の顔を作ってペコリと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……! 探索者の方々のお邪魔をしてしまって……! いつも、迷宮都市を守ってくださってありがとうございます……!」
震える声と、涙ぐんだ瞳。
圧倒的な格下であるFランク相当の少女から向けられた完全な服従の態度に、大柄な剣士は毒気を抜かれたように鼻で笑った。
「……フン。分かってりゃいいんだよ。おい、行くぞお前ら」
彼らは満足げに笑い合いながら、再び人混みをかき分けて渋谷の方向へと歩き去っていった。
周囲のイージスのメンバーたちは、主の命令に従い、ギリギリのところで殺意を収めて再び雑踏の中へと姿を消す。
「まったく、最近の探索者は態度がデカくて嫌になるわね……。お父さん、怪我はない?」
「ああ、大丈夫だ。せっかくの休日だ、あんな奴らのことで気分を悪くすることはないさ。ほら、あそこのカフェでケーキでも買って帰ろうか」
昭雄の優しい声に、由美子と拓也も笑顔を取り戻し、家族は再び穏やかな空気の中で歩き始めた。
三月は「ケーキ! 私モンブランがいいな!」と無邪気に笑いながら、彼らの背中を追う。
だが、彼女の黒い瞳の奥には、深淵よりも冷たい絶対零度の光が宿っていた。
(この東京の地下を掃除してやってる、ですって?
……笑わせないで。あなたたちみたいな底浅いゴミが何万回束になって潜ったところで、第30層の空気を吸っただけで内臓が破裂して死ぬくせに。私が裏で何万という深層の怪物を物理的に圧殺して間引いてあげているから、あなたたちは中層で気持ちよくごっこ遊びができているだけよ)
三月は、数十メートル先を歩く大柄な剣士の背中を、一瞥すらすることなく見据えた。
コートのポケットの中で、左手の指先をほんの数ミリだけ動かす。
『重力操作(微)』。
対象は、大柄な剣士が履いている、数百万は下らないと言われる特注の魔法防具ブーツの『右足のつま先』。
そこに、ほんの数グラムだけ、計算し尽くされた微小な重力のベクトルを付加する。
「ギャッ……!?」
直後。
大柄な剣士は、何もない平坦なアスファルトの上で、まるで見えない手に足を引っかけられたかのように派手に転倒した。
顔面から地面に激突し、背負っていた高価な魔法剣がアスファルトに叩きつけられて無惨にひしゃげる。
「いっ、ってぇぇぇ!? なんだ!? 誰か俺の足を押しただろ!?」
「な、何やってんだよリーダー! 何もないところで転んで……ダッセェな!」
「ち、ちげぇよ! 誰かが俺の足を……!」
周囲の通行人たちからクスクスと冷ややかな笑い声が漏れる中、パーティのメンバー同士で醜い口論が始まる。
その滑稽な悲鳴を背中で聞き流しながら、三月は何事もなかったように家族の隣を歩き続けた。
彼女の体内で循環する極小の『爆熱(微)』が、冷え切った魔力回路を温め、人間らしい柔らかな体温を保ち続けている。
(お父さんにぶつかった罪の清算は、あの程度で許してあげる。……ここは私の東京で、私の箱庭なんだから。ゴミはゴミらしく、見えないところで這いつくばっていればいいのよ)
「三月、モンブランでいいのか? お父さんはショートケーキにするぞ」
「うん! 私、そこのお店のモンブランずっと食べてみたかったんだ!」
家族と笑い合い、ケーキ屋のショーケースを覗き込む。
この東京という街のすべてを掌握し、裏社会の護衛と表社会の隠蔽に守られながら、人類最強の怪物は今日も『完璧な娘』を演じ切る。
硝子の箱庭は、コンクリートジャングルの真ん中で、今日も誰にも壊されることなく美しく輝き続けていた。
第111話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
迷宮都市・東京の象徴とも言える、原宿の雑踏での一幕でした。
平和な一般市民と、重武装の探索者がすれ違う異質な都市風景。そしてその中で、傲慢なBランク探索者に絡まれた際の「如月三月の圧倒的強者としての振る舞い」を描きました。
イージス(護民の盾)のメンバーが瞬時に暗殺陣形を敷く裏社会のプロフェッショナルな動きと、それを「休日の空気が悪くなるから」という理由だけで制止する三月。
そして去り際に『重力操作(微)』で数百万の装備ごと顔面から転ばせるという、冷徹かつ陰湿な報復(ゴミ掃除)が、最強の怪物らしくて非常に痛快だったのではないでしょうか。
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