第110話:東京の空の下、不可視の防衛線
迷宮都市――日本の首都、東京。
かつて世界有数の経済の中心地であったこの巨大なコンクリートジャングルは、今や地下深くに広がる底なしの深淵と隣り合わせの、人類最大の最前線基地となっている。
新宿の超高層ビル群の足元には、迷宮の第一層へと繋がる巨大なメインゲートが口を開け、上空には探索者協会の最新鋭の魔力観測ヘリが飛び交う。
現代の先進技術と、人智を超えた化け物たちがモザイク状に入り混じるこの狂った都市の中心で、如月家は穏やかな休日を迎えていた。
「さあさあ、たくさん作ったから遠慮しないで食べなさい。三月の好きな、甘めの卵焼きもいっぱいあるわよ」
新宿の喧騒から少し離れた、緑豊かな代々木公園。
抜けるような青空の下、丁寧に手入れされた芝生の上に広げられたレジャーシートには、重箱に詰められた色鮮やかなお弁当が並んでいた。
由美子が嬉しそうにタッパーの蓋を開けると、ふわりと出汁と卵の甘い香りが広がる。
隣には、昭雄が早起きして握ってくれたという、少し不格好だが愛情たっぷりの大きなおにぎりが山積みになっていた。
「やったー! お母さんの卵焼き、世界で一番好き!」
三月は満面の笑みを浮かべ、割り箸を割ってさっそく卵焼きを口に運んだ。
口の中に広がる優しい甘さと、出汁の旨味。
連日、血と泥に塗れた深層で命のやり取りをしている怪物にとって、この一口はどんな莫大な特別報酬よりも価値のある、至高の味わいだった。
「姉ちゃん、食べるの早すぎ! 俺の分も残しといてよ!」
「ふふっ、早い者勝ちだよー。拓也もモタモタしてると全部食べちゃうからね」
弟の拓也と他愛のない冗談を言い合いながら、三月はおにぎりを頬張る。
彼女の体内では、昨日と変わらず極小の『爆熱(微)』が血流に乗って循環し、人間としての適正体温である36.5度を完璧に偽装し続けている。
もはや人間とは呼べないほどに変質した魔力回路。しかし、家族と触れ合うこの温もりを維持するためなら、どれほど緻密で神経をすり減らす魔力制御だろうと、三月は無意識の領域でこなし続けることができた。
三月は水筒のお茶を飲みながら、周囲の景色へと自然な形で視線を巡らせた。
休日の代々木公園は、多くの家族連れやカップルで賑わっている。しかし、三月の『気配察知(微)』の超感覚は、その群衆の中から特定の気配だけを完璧に識別していた。
少し離れたベンチで、スポーツ新聞を読みながら缶コーヒーを飲んでいるサラリーマン風の男。
楽しそうに犬の散歩をしている老夫婦。
芝生の手入れをしている公園の清掃作業員。
彼らは全員、鉄山が束ねる裏組織『護民の盾』――三月が個人的に『イージス』と呼んでいる、対人防衛のスペシャリストたちだった。
(……今日も完璧な配置ね。東京の日常に完全に溶け込んで、死角はゼロ。これなら、お父さんやお母さんに万が一の危険が及ぶことは絶対にないわ)
三月は心の中で鉄山の手腕と彼らの忠誠心を称賛しつつ、再びお弁当へと向き直った。
表の権力である協会が公的な情報を操作し、裏のイージスが物理的な盾となる。
今やこの巨大な首都・東京のシステムそのものが、三月の「家族との休日」を守るためだけに最適化されて稼働していた。
だが、その完璧にデザインされた穏やかな空気に、ほんのわずかなノイズが混じった。
(……ん?)
三月の箸が、ピタリと止まる。
代々木公園から数キロ離れた、新宿駅周辺の地下搬入口の方向。
そこから、微かだが明確な『殺意と狂気』が、猛スピードで地上を駆け抜け、こちらへ向かってきているのを感知したのだ。
『気配察知(微)』の範囲を限界まで広げ、東京のビル風に混じるその正体を特定する。
(……第一層の魔獣、狂暴猪の変異個体ね。どうやら、協会の地上搬入ゲートの管理ミスで、一匹だけ市街地への脱走を許してしまったみたい)
三月の黒い瞳の奥に、冷酷な捕食者の光が宿る。
狂暴猪の進行ルートは、明治通りを南下し、まっすぐこの代々木公園へと向かっている。
このままでは、あと数分で公園の外周に達し、一般市民を巻き込んだ大パニックが起きてしまう。
周囲に潜む『イージス』のメンバーたちも、通信機を通じてその異変に気づいたようだった。彼らが迎撃のために静かに動き出そうとする気配を感じ取る。
(……駄目よ。彼らがここで戦闘を起こせば、騒ぎになってお母さんたちが怖がってしまう。この『完璧な休日』に、一滴の血の匂いでも持ち込んだら絶対に許さないわよ)
三月は、家族に気づかれないよう、シートの上でそっと左手の指先を動かした。
対象は、数キロ先の東京のド真ん中を猛進する狂暴猪。
ビル群に遮られ、目視すらできない距離。しかし、三月の異常に拡張された魔力回路と『重力操作(微)』の理にかかれば、距離や障害物など些細な問題でしかなかった。
「……あ、拓也! 見て、あっちに東京観光の飛行船が飛んでるよ!」
「え? マジで!? どこどこ?」
三月が空を指差し、家族の視線を上空へと誘導した、その一瞬の隙。
(潰れなさい)
数キロ先のアスファルトを蹴り出そうとしていた狂暴猪の『前足の先端』にのみ、通常の数百倍の極大重力をピンポイントで発生させた。
ドゴォォォォォォォンッ!!
遠く新宿の方面で、微かな地響きのような音が鳴った。
猛スピードで突進していた狂暴猪は、突如として前足が地面に縫い付けられたように固定され、その自重と恐るべき慣性の法則によって、自らの身体をアスファルトに激突させた。
悲鳴を上げる間もなく、首の骨がへし折れ、全身が原型を留めないほどにひしゃげて即死する。
(よし、処理完了)
三月は指先から魔力を絶ち、何事もなかったかのように卵焼きを頬張った。
「あれー? 飛行船なんていないじゃん、姉ちゃんの見間違いだろ?」
「あはは、ごめんごめん! 鳥の群れだったみたい」
三月が笑って誤魔化すと、家族もつられて笑い声を上げる。
その頃、狂暴猪が自滅した新宿寄りの大通りでは、セバスチャンの指示を受けた探索者協会の事後処理班が、真っ青な顔をして冷や汗を流しながら、音もなく迅速に魔獣の死体を回収していた。
『……まただ。また、脱走した変異種が不自然な潰死体になっている!』
『間違いない、如月三月だ。彼女の家族が、この先の代々木公園でピクニックをしているという情報がある』
『……ひっ。数キロ先の標的を、姿も見せずに圧殺したっていうのか……! 急げ、彼女の休日の空気を少しでも汚せば、我々がどうなるか分からないぞ! すぐにアスファルトの血痕まで舐め取るように清掃しろ!』
協会のスタッフたちは、東京の市民に絶対にパニックを起こさせないよう、防音結界を張り巡らせ、僅か数分で現場を完璧に原状回復させて撤収していった。
三月の『日常』を脅かすものは、彼女の理不尽な暴力によって見えない場所で一方的にすり潰され、その痕跡は協会の権力によって完璧に揉み消される。
そして、残された平穏な空間だけが、家族の前へと提供されるのだ。
「お父さん、このおにぎりも美味しいね! 中身、鮭だ!」
「ああ、奮発していい鮭を買ってきたからな。いっぱい食べなさい」
昭雄が目を細めて笑い、由美子が水筒のお茶をコップに注いでくれる。
頭上には、新宿の高層ビル群を見下ろすように、平和を象徴する真っ白な雲がゆっくりと流れていた。
数キロ先で魔獣を圧殺した事実など、微塵も感じさせない可憐な笑顔で。
如月三月は、この迷宮都市・東京の中心に築き上げた歪で完璧な『硝子の箱庭』の時間を、ただひたすらに噛み締めるのだった。
第110話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
Fランクの皮を被った怪物少女が、家族との平穏なピクニックを守るためだけに、数キロ先の魔獣を指先一つで圧殺する……そんな歪で圧倒的な日常回をお届けしました。裏で必死に隠蔽工作に走る協会スタッフたちの胃痛が伝わってきそうですね(笑)
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