第109話:黄金の密室と、鉄壁の盾
探索者協会本部、最上階の奥に位置する特別応接室。
そこは、各国の要人やトップクランのリーダーのみが足を踏み入れることを許される、重厚な防音設備と最高級の調度品で整えられた「黄金の密室」だった。
ふかふかの革張りソファに、三月はちょこんと浅く腰掛けていた。
彼女の向かいには、最高級のシルクのハンカチで何度も額の汗を拭う、専務理事のセバスチャン。そしてその斜め後ろには、三月の担当窓口である佐藤結衣が、直立不動で控えている。
「……まずは、先日のスタンピード防衛戦、本当にお疲れ様だった。君の働きがなければ、第5層は確実に決壊し、この迷宮都市は火の海になっていただろう」
セバスチャンが極めて丁重な、まるで爆発寸前の爆弾に触れるかのような声で切り出し、テーブルの上に一枚の小切手を滑らせた。
「約束通り、協会からの特別報酬だ。額面は白紙にしてあるが、すでに君の指定した鉄山殿の裏口座に、トップクランの年間収益に匹敵する額を振り込ませてもらった」
「わぁ……! ありがとうございます、セバスチャンさん! こんな大金、私みたいなFランクがもらっていいんですか?」
三月は小切手を両手で受け取り、目をキラキラと輝かせながら、完璧な「無邪気な少女」の笑顔を向けた。
だが、セバスチャンはその可憐な笑顔の裏にある「絶対的な深淵」を、数多の観測データと事後処理班の報告書から骨の髄まで理解している。
巨大な変異種が『自爆』した痕跡。
顎の骨が、見えない万力で物理的に捻り潰されたような異常な圧痕。
彼女は、ただの探索者ではない。数万の魔獣をミリ単位の重力で支配し、巨大な変異種すら赤子のように捻り潰せる、人間の枠組みを完全に超越した歩く自然災害だ。
もし彼女を協会が「管理」しようなどと愚かな真似をすれば、この協会本部ごと一瞬で圧殺されるだろう。
セバスチャンが導き出した結論は、三月と敵対や交渉をすることではなく、ただひたすらに機嫌を損ねないよう祀り上げる「完全なる服従」だった。
「……謙遜は不要だ。我々協会は、君を管理しようなどという身の程知らずな考えは毛頭ない。君がこの都市において、戦略兵器すら凌駕する『規格外の抑止力』であることは重々承知しているつもりだ」
セバスチャンは身を乗り出し、三月に向かって深く、深く頭を下げた。
「どうか、これからも我々協会を、君の『日常』を守るための便利な道具として使ってほしい。君の迷宮での異常な戦果の隠蔽や、不審な魔力波形の揉み消しは、すべて我々協会が総力を挙げて請け負おう。……それと、君の家族の平穏を守るため、我々の精鋭部隊を『護衛』として密かに配置することも可能だが、いかがだろうか?」
セバスチャンなりの、最大限の誠意と奉仕の提案。
だが、三月はその言葉を聞いて、クスリと小さく笑った。
「お気遣いありがとうございます。でも、家族の護衛については間に合っているんです」
「……間に合っている?」
「はい。私の家の周りや、家族の外出時の警護は、すでに鉄山さんが率いる『護民の盾』のメンバーが完璧にやってくれていますから。協会の方々にまでお手数をおかけするわけにはいきません」
その言葉を聞いた瞬間、セバスチャンは目を見開いた。
(……鉄山の組織か。あの、対人防衛と隠密護衛において右に出る者はいないと言われる、鉄壁のスペシャリスト集団を、すでに自分の家族の周囲に張り付かせているというのか……!)
セバスチャンは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
目の前の少女は、自身の圧倒的な暴力だけでなく、すでに盤石な「守りの手駒」すら完璧に手配し、配置を済ませていたのだ。協会の出る幕など、最初からどこにもなかった。
「……左様でしたか。鉄山殿の手腕であれば、我々が出るよりも遥かに確実で安全でしょう。承知いたしました。では、協会は彼ら『護民の盾』のメンバーが活動しやすいよう、公的な監視の目を逸らす『裏方のサポート』に徹させていただきます」
「ふふっ、ありがとうございます。皆さんがそう言ってくれるなら、私も安心して『Fランクの如月三月』でいられます」
三月はソファから立ち上がり、ニコリと、心底嬉しそうな笑顔を咲かせた。
怪物は、協会の服従を受け入れたのだ。
「私、自分の平穏な日常を『外側』から壊されるのが、世界で一番嫌いなんです。だから……お母さんの作ったご飯を食べて、お父さんとテレビを見て、弟が学校に行く。その平和な生活が守られている限り、私は絶対に、この街の味方でいますから」
それは、裏を返せば「日常が脅かされた瞬間、この街ごとすべてを破壊する」という絶対の死刑宣告でもあったが、セバスチャンは震える声で「……感謝する」とだけ答えるのが精一杯だった。
「特別報酬、本当にありがとうございました! これで今夜は、家族みんなで美味しいお寿司でも食べに行こうと思います! それじゃあ、私はこれで失礼しますね!」
三月はペコリと元気に一礼すると、何事もなかったかのように軽やかな足取りで応接室を後にした。
バタン、と重厚な扉が閉まる音が、密室に虚しく響き渡る。
残されたセバスチャンは、額から滝のような冷や汗を流しながら、革張りのソファに深く沈み込んだ。
「……専務。我々は、本当に……」
「ああ。人類の手に余る化物を、完全に野放しにした。……だが、これでいい。我々は彼女の『人間のごっこ遊び』を、国を挙げて全力で守り抜く。それが、この迷宮都市が明日も存続するための、唯一にして絶対の条件なのだから」
迷宮都市の支配者たる協会トップは、一人の少女の「日常」を維持するための、最も忠実な下僕となったのであった。
その日の夜。
迷宮都市の中心部にある、予約が数ヶ月待ちとも言われる高級回らない寿司店「銀鱗」。
その個室に、如月家の四人の笑い声が響き渡っていた。
「わぁ……っ! お父さん、見てこれ! 大トロが、お肉みたいにキラキラしてるよ!」
「本当だな! 拓也、あんまりがっつくんじゃないぞ。……それにしても三月、本当にこんな高級なところ、お前のボーナスだけで大丈夫なのか?」
昭雄が、目の前に並べられた芸術品のような寿司の数々に圧倒されながら、心配そうに三月を見る。
「大丈夫だよ、お父さん! 今回の仕事、すごく協会の人に褒められたから、特別に大入り袋をもらっちゃったの。たまには、家族みんなで贅沢しないとね!」
三月はお茶をすすりながら、満面の笑みで答えた。
実際には、彼女の裏口座にはこの寿司屋を店舗ごと買い取ってお釣りが来るほどの莫大な金額が振り込まれているのだが、そんなことは家族に言う必要はない。
「三月、本当にありがとうね。……こんなに美味しいお寿司を食べられるなんて、お母さん、幸せだわ」
由美子が、ウニの軍艦巻きを口に運びながら、嬉し泣きしそうな顔で微笑む。
その笑顔を見た瞬間、三月の胸の奥で、冷え切っていた魔力回路がふわりと温かくなるのを感じた。
「ううん。私も、みんなと一緒にご飯を食べてる時が、世界で一番幸せだよ」
三月は、光り輝く大トロを一貫つまみ、口へと運ぶ。
上質な脂が舌の上でとろけ、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
高級な味だ。でも、不思議と、昨日の朝にお母さんが焼いてくれた食パンのトーストと、同じくらいに美味しく感じた。
「ねえ三月、最近また忙しいの? 今度の休みは、家族で近所の公園にでもピクニックに行かないか? 拓也も、たまには運動しないと」
昭雄が幸せそうに目を細めて提案する。
「うん、いいね! ピクニック……絶対に行く! その日はどんな仕事も断って、一日中家族と過ごすよ!」
三月は弾むような声で応えた。
『気配察知(微)』の超感覚が、店舗の周囲に溶け込んでいる数人の気配を正確に捉えている。
一般人には絶対に気づかれない死角に潜み、あらゆる方向からの脅威を警戒し、家族の安全を完璧に確保しているプロフェッショナルたち。
『護民の盾』のメンバーだ。
(……今日も完璧な仕事ぶりね。私が迷宮に潜っている間も、こうして彼らが家族を護衛してくれているおかげで、私は一切の不安なく暴れることができる)
協会がどれほど精鋭を用意しようと、三月は護民の盾のメンバーの確かな実力と忠誠心の方を重く見ていた。
彼らが物理的な盾となり、協会が公的な情報を隠蔽し、東雲先生と鉄山さんが頭脳と裏社会を支配する。
この街のあらゆる機能が、今や如月三月の「硝子の箱庭」を守るためだけに最適化されていた。
(この完璧な盤面は、絶対に誰にも崩させない。私が、この手で守り抜く)
家族の温かな笑い声と、護民の盾による鉄壁の護衛。
三月は冷酷な捕食者の本性を心の奥底に完璧に封じ込め、ただの「家族思いの優しい長女」として、幸せな夕食の時間を心ゆくまで堪能するのであった。
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