第106話:深淵の理解者と、拒絶の極光
迷宮第34層「忘却の墓標都市」。
灰色の靄に包まれた静寂の広場で、崩れ落ちた女神像の残骸の上に座る異形が、白骨化した顎をカタカタと鳴らして嗤った。
「そう睨むな、同胞よ。我はただ、久方ぶりに訪れた『理解者』を歓迎しているに過ぎない」
人型の怪物は、襤褸布の隙間から赤黒い魔力を立ち昇らせながら、ゆっくりと立ち上がった。
その眼窩の奥で揺らめく紫色の光は、これまでに三月が屠ってきた本能だけの獣たちとは明確に異なっていた。そこにあるのは、気の遠くなるような時間を生きた高度な知性と、他者の精神を嬲ろうとする底知れぬ悪意だ。
「理解者、ね。寝言は自分の墓の中でだけ言ってくれる?」
三月は無表情のまま、背中に背負った星鉄の鞘から「(新)双極の魔刃・黒月」を静かに抜き放った。
地上の金属の数十倍という異常な質量を持つ大剣が、三月の手の中で微かな風切り音を立てる。刀身からは、極寒と爆熱という相反する魔力が、主の殺意に呼応するように真紅と蒼碧の極光を放ち始めていた。
怪物はその圧倒的な武力を前にしても、余裕の態度を崩さなかった。
「隠さずともよい。お前のその魂の器……これまで対象の亡骸に触れ、どれほどの命を直接啜り上げ、自身の血肉としてきた? 人間の皮を被ってはいるが、お前の中身はとうの昔に我らと同じ、底なしの捕食者へと成り果てている。……なぁ、そうだろう?」
怪物が白骨の指を天へと向けた瞬間、廃都の広場を埋め尽くしていた無数の瓦礫と墓標が、重力を無視して一斉に宙へと浮き上がった。
ただ浮遊したのではない。瓦礫の一つ一つに怪物の高密度な「死の魔力」が込められ、触れれば鋼鉄すらも瞬時に腐呪させる凶悪な質量兵器へと変貌している。
その数、ざっと数万。廃都の空を覆い尽くすほどの絶望的な密度が、全方位から三月を包み込むように展開された。
「お前は、自分が守っているつもりの『家族』とやらに、本当の自分を見せたことがあるか? お前のその血塗られた本性を知れば、彼らはお前を愛するどころか、化物を恐れるように泣き叫び、拒絶するだろうよ」
怪物の言葉は、物理的な攻撃以上に、三月の精神の最も柔らかい部分を的確に抉り出そうとする呪詛だった。
地上で出会ったDランク青年の、恐怖に引きつった顔。
もし、あれと同じ表情を、父が、母が、弟が自分に向けたらどうなるか。
知性ある深淵は、その残酷な想像を三月の脳裏に強制的にフラッシュバックさせようとした。
「……さあ、偽りの愛にすがる哀れな同胞よ。絶望の中で我らと共に――」
「ほんと、くだらないわね」
怪物の言葉を遮るように、絶対零度の声が広場に響いた。
数万の腐呪の瓦礫が、凄まじい轟音と共に一斉に三月へと殺到する。
三月は左手の指先を動かし、「重力操作(微)」の出力を極限まで高め、自身の周囲に目に見えない重力の断層を展開した。
ドゴォォォォォォンッ!!!
全方位から殺到した超高密度の瓦礫弾が、三月の周囲三メートルの見えない壁に激突し、次々と粉砕されていく。
だが、深層の主の力は伊達ではなかった。重力の断層を削り取るように、次から次へと死の魔力が波状攻撃を仕掛けてくる。三月の足元の石畳が、余波だけでドロドロに腐敗し、沈み込んでいく。
「無駄だ! 我の死の領域は、すべてを塵へと還す!」
「……私の家族が、私の正体を知ったら拒絶する? そんなこと、私が一番よく知っているわ。だからこそ、私は死ぬまで完璧な『嘘』を吐き続けるって決めているの」
三月の黒い瞳に、怪物を嘲笑うような冷酷な光が宿った。
「私の本性なんてどうでもいい。お母さんが笑ってご飯を作ってくれて、お父さんがそれを美味しそうに食べて、弟が夢に向かって努力できる。その『結果』さえ完璧に維持できるなら、私自身が怪物だろうが、地上の人間に恐れられようが、そんなこと一ミリの価値もないわ!」
三月は「俊敏(中)」の出力を限界突破させ、崩壊する石畳を爆発的に踏み砕いて跳躍した。
殺到する数万の瓦礫の雨を、超人的な反射神経と、僅かな重力操作による軌道逸らしで縫うように潜り抜け、怪物の懐へと一直線に肉薄する。
「狂っているな! ならば、その滑稽な箱庭ごと、永遠の暗闇に沈めてやろう!」
三月の接近に対し、怪物はただの防壁ではなく、空間そのものを切り離す「絶対断絶の理」を己の眼前に展開した。
物理的な質量も、魔法のエネルギーも、すべてを虚数空間へと飲み込む漆黒の断層。地上であれば、一国を易々と滅ぼせるほどの深淵の絶技である。
だが、三月は止まらない。
星鉄の大剣を上段に構え、その切っ先の一点にのみ、己の持つ莫大な魔力と「重力操作(微)」のすべてを凝縮させた。
「邪魔よ、図体ばかりの骨董品」
極大の重力特異点を纏った星鉄の超質量が、怪物の絶対断絶の理へと深々と叩き込まれる。
ギィィィィィィンッ!!!
空間が悲鳴を上げるような、耳障りな不協和音が廃都に響き渡った。
空間を切り離そうとする怪物の理と、それを物理的な超重力で強引に押し潰そうとする三月の暴力。
拮抗したのは、わずか数秒だった。
三月の底なしの魔力回路から、常軌を逸したエネルギーが剣へと注ぎ込まれる。
ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、怪物の誇る絶対の防壁に亀裂が走り、無惨に粉砕された。
「なっ……バカな!? 我の断絶を、ただの力で……ッ!?」
驚愕に白骨の顎を開いた怪物の胸元へ、三月は無慈悲に大剣を深々と突き立てた。
「熱衝撃波」
静かな、死刑宣告のような三月の声。
刀身から、限界まで圧縮された極寒と爆熱の相反魔力が、怪物の体内へと直接流し込まれる。
「ガ、アアアァァァァァッ!! 認めぬ……我は、このような小娘の狂気に……ッ!」
怪物は自らの崩壊を止めるべく、体内のすべての死の魔力を一点に集め、熱膨張を相殺しようと足掻いた。
凄まじい魔力の奔流が三月を吹き飛ばそうと荒れ狂うが、彼女は「絶魔の竜血」でその干渉を完全に弾き返し、さらに莫大な魔力を剣の柄から押し込んでいく。
深淵の執念と、少女のエゴの削り合い。
その結末は、あまりにも圧倒的な魔力総量の差によって決着した。
「消えなさい」
三月の最後の一押しと共に、怪物の内部にねじ込まれた相反魔力が臨界点を突破した。
閃光。そして、鼓膜を裂くような爆発音。
知性を持った深淵の主は、自らの魔力ごと分子レベルで木端微塵に爆砕され、廃都の空に灰となって散っていった。
広場に、再び死の静寂が戻った。
三月は、完璧な切れ味を誇る黒月を軽く振り、鞘へと納めた。
そして、怪物が爆散した跡地に漂う、紫色の濃密な光を放つ「魂」の残滓へと静かに歩み寄る。
三月の異能「魂喰い」。それは対象の痕跡に直接触れることで、その存在の根源たるエネルギーを啜り上げる捕食の理である。
しゃがみ込み、その紫色の残滓にそっと右手を触れた瞬間。
ズンッ……!
手のひらを通じて、先ほどまでの激闘を裏付けるような莫大なエネルギーが、怒涛の勢いで彼女の魔力回路へと流れ込んできた。
それと同時に、怪物が持っていた「精神汚染」や「死霊操作」といった、知性や概念に干渉する強力なスキル群が三月の脳内へとインストールされそうになる。
(……チッ。他人の心の中を覗き込むようなスキルなんて、趣味が悪いだけ。魔力回路のノイズにしかならないわ)
三月は冷徹な演算で、流れ込んでくる精神干渉系のスキルを「すべて棄却」した。
彼女に必要なのは、小賢しい心理戦の技術ではない。愛する日常を物理的に脅かす障害を、一瞬で粉砕するための「圧倒的で純粋な暴力」だけだ。
彼女は、知性ある魂から得た莫大なエネルギーを、ひたすら「魔力許容量の拡張」と基礎ステータスの強化へと全て変換し、己の器に叩き込んだ。
全身の細胞が歓喜に震え、器がさらに巨大な底なしの淵へと拡張されていくのを感じながら、三月は立ち上がり、小さく息を吐いた。
「……さて。もうこんな時間ね」
人類未踏の第34層を、死闘の末に純粋な暴力で蹂躙し終えた少女は、灰色の空を見上げてふんわりと微笑んだ。
「明日の朝ごはんは、お父さんが駅前のパン屋さんで買ってきてくれた、ちょっと高い食パンでトーストにしようかな。お母さんの淹れてくれるコーヒーと一緒に食べたら、絶対に美味しいよね」
自身と同じ匂いを持つ強敵を噛み砕き、さらなる怪物へと成り果てた直後だというのに。
少女の頭の中は、明日の朝、家族と囲む温かな食卓のことでいっぱいだった。
誰にも理解されずとも構わない。誰に恐れられようと関係ない。
三月は、その歪で完璧な箱庭を守るため、ただひたすらに次の深淵へと向けて、漆黒のコートの裾を翻した。
これだけの死闘の直後に考えるのが「明日の朝のちょっと高い食パンのトースト」という激しいギャップ。この血生臭い狂気と、温かな日常のコントラストこそが、如月三月という少女の最大の魅力です。
次回は、激闘を終えて地上へと帰還した三月の、温かくもどこか歪な「完璧な朝の食卓」の風景から始まります。
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