第105話:温かな食卓と、怪物の痕跡
「ただいま、お母さん! 遅くなってごめんなさい!」
玄関のドアを開けると同時に、醤油と生姜の甘辛い、食欲をそそる香りが三月の鼻腔をくすぐった。
急いで靴を脱ぎ、リビングへの扉を開けると、そこには彼女が何よりも守りたかった「完璧な日常」が広がっていた。
「おかえりなさい、三月。遅かったわね、協会のお手伝いは忙しかったの?」
エプロン姿の由美子が、湯気を立てる大皿をダイニングテーブルの中央に置きながら、優しい笑顔で出迎えてくれる。
テーブルには、こんがりと焼かれた豚肉と、飴色になるまで炒められたたっぷりのタマネギが乗った生姜焼き。その横には、ホカホカの白いご飯と、豆腐とワカメのお味噌汁が並んでいた。
「うん、ちょっとデータ整理の量が急に増えちゃって。でも、もう全部片付いたから大丈夫!」
三月は完璧な愛らしい笑顔でそう答えると、急いで手を洗い、自分の席へとついた。
向かいの席では、弟の拓也がテレビのニュース番組を見ながら、すでに白米を掻き込んでいた。
「姉ちゃん、お疲れ! なあ、今日のニュース見たか? 迷宮の中層でスタンピードの兆候があったらしいんだけど、トップクランの連中が第5層であっさり鎮圧したんだってさ。やっぱりすげえよな、トップの探索者って」
拓也の無邪気な言葉に、父の昭雄も頷きながらお茶をすする。
「ああ、本当にありがたいことだ。彼らみたいな強い人たちが最前線で体を張ってくれているおかげで、こうして平和にご飯が食べられるんだからな」
「ふふっ、本当ね。トップクランの人たちには頭が下がるわ」
家族の平和な会話を聞きながら、三月は生姜焼きとタマネギを箸で掴み、口へと運んだ。
甘辛いタレの味と、豚肉の旨味が口いっぱいに広がる。お母さんの手料理は、今日も世界で一番美味しかった。
「……うん! すっごく美味しい! やっぱりお母さんの生姜焼きが一番だよ!」
三月は満面の笑みを浮かべ、ご飯を口いっぱいに頬張った。
テレビの向こう側で、誇らしげにインタビューに答えている「銀の剣」のリーダーの姿など、彼女の視界には一切入っていなかった。
彼らが自分たちの手柄だと勘違いして浮かれていることなど、どうでもいい。
事実として、今こうして家族が笑い合い、温かいご飯を食べている。その結果さえ守り抜けたのなら、過程など三月にとっては些末な問題に過ぎなかった。
(……それにしても、タマネギを多めにして大正解だったわね。味が染みてて最高)
数万の魔獣を蹂躙し、巨大な変異種を内側から爆散させた怪物の頭の中は、今やタマネギの甘みに対する賞賛で満たされていた。
同じ頃。
探索者協会の最上階、支部長室では、重苦しい沈黙が降りていた。
「……これが、事後処理班が回収してきた『地脈の暴食獣』の死骸の解析データかね」
専務理事のセバスチャンが、デスクの上に置かれたホログラムの報告書を見つめながら、胃の痛みに顔を歪めていた。
その対面に立つ佐藤結衣もまた、青ざめた顔で小さく頷く。
「はい。前線で戦っていた『銀の剣』をはじめとするトップクランの面々は、自分たちの攻撃が蓄積し、敵が限界を超えて自爆したと主張しています。しかし……解剖と魔力痕跡の調査結果は、彼らの証言とは完全に矛盾していました」
結衣はタブレットを操作し、暴食獣の巨大な頭部周辺の骨格データを空中に投影した。
「吹き飛んだ上半身の残骸、特に上下の顎の骨の断面に、異常な負荷がかかった痕跡が発見されました。……何らかの極めて強力な局所重力によって、顎を外側から強引に『万力のように』プレスされ、物理的に砕かれた圧痕です」
セバスチャンは震える手で葉巻に火をつけようとしたが、うまくライターの火が点かず、苛立たしげにそれをデスクに放り投げた。
「つまり……あの化物は、暴食獣が放とうとした極大のブレスを、自らの力で相殺するのではなく……顎を外側から強制的に閉じることで、口の中で暴発させたというのか」
「……その通りかと推測されます。広範囲の重力で潰せば一瞬だったはずですが、彼女はあえてそれをしなかった。おそらく、周囲にいたトップクランの探索者たちを巻き込まないため、そして『自分の異常な力を隠蔽するため』に、最も被害が少なく、かつ自然な自滅に見せかけるピンポイントの急所破壊を選んだのです」
その冷徹すぎる判断力と、巨大な怪物の顎を重力という目に見えない力だけで完全に封殺する、底知れぬ魔力の出力。
セバスチャンの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
「……トップクランの連中が、自分たちの手柄だと騒いでいるのは都合がいい。このまま彼らの戦果として大々的に発表し、彼女の存在は完全に闇に葬れ。彼女には、約束通り白紙の小切手と同額の特別報酬を、裏の口座に振り込んでおくんだ」
「承知いたしました。……専務、我々は本当に、とんでもないものをこの街に飼い慣らしているつもりになっているのかもしれませんね」
結衣の自嘲気味な呟きに、セバスチャンは深く重い溜息を吐くことしかできなかった。
人類の希望であるはずのトップクランすら、あの少女にとってはただの目隠し用の小道具に過ぎないのだ。
深夜。
如月家が完全に寝静まったのを確認し、三月は自室の虚空に向かって右手をかざした。
いつものように、漆黒のインナースーツとロングコートに身を包み、背中には「(新)双極の魔刃・黒月」を背負っている。
「人間たちの相手は気を遣うから疲れるわ。やっぱり、迷宮の底で気兼ねなく暴れている方が性に合ってる」
三月は小さく伸びをすると、極大の重力と魔力で空間を物理的に捻じ曲げ、漆黒のポータルを開いた。
スタンピードという面倒な茶番は終わった。ここからは、彼女自身の「器の拡張」のための、純粋な捕食の時間が始まる。
一瞬の暗転の後。
三月が降り立ったのは、これまでのような荒れ狂う自然環境や、狂気的な空間の歪みを持つ階層ではなかった。
「……ここは?」
迷宮第34層「忘却の墓標都市」。
見渡す限り、どこまでも続く灰色の廃墟群。
かつては高度な文明が栄えていたのであろう、天を突くような巨大な尖塔や、崩れかけた神殿のような建造物が、静寂の中に立ち並んでいる。
空には星一つなく、ただ薄暗い靄が街全体を覆い隠していた。
これまでの階層のように、殺意に満ちた魔獣の咆哮が聞こえてくることはない。
ただ、圧倒的な静寂と、濃密すぎるほどの「死の気配」だけが充満している。
三月は「気配察知(微)」の感覚を最大まで広げながら、崩れかけた石畳の道をゆっくりと歩き出した。
周囲に魔獣の姿はない。しかし、彼女の超感覚は、この廃都の中心部から、これまでの階層主とは明らかに異質な、冷たくて鋭い「視線」を感じ取っていた。
(……本能のままに襲ってくる獣じゃない。もっと、理路整然とした……『知性』のようなものを感じるわね)
数分ほど歩き、巨大な広場に出た時だった。
広場の中央、崩れ落ちた女神像の残骸の上に、一つの影が座っていた。
それは、ボロボロの襤褸布を纏った、人型の存在だった。
体格は成人男性ほど。顔の半分は白骨化しており、残りの半分には、干からびた灰色の皮膚が張り付いている。
だが、その存在から放たれる魔力の密度は、先ほどの「地脈の暴食獣」すらも遥かに凌駕する、底知れぬ深淵そのものだった。
人型の怪物は、三月の姿を認めると、ゆっくりと立ち上がった。
そして、その白骨化した顎をカタカタと鳴らしながら、人間の言葉を発したのだ。
「……ひさしぶり、だな。我らと、同じ……『におい』のする、者よ」
人間の言葉を話す、深淵の怪物。
三月は一切の動揺を見せることなく、ただ冷徹な瞳でその異形の存在を見つめ返した。
「初対面の相手に馴れ馴れしいわね。それに、私をあなたみたいな薄汚い怪物と一緒にしないでくれる?」
「ククッ……。強がるな。お前のその皮の下には、我らと同じ、底なしの飢えと狂気が……みっちりと、詰まっているではないか」
怪物が空ろな眼窩の奥で、紫色の魔力光を怪しく揺らめかせた。
迷宮の底で初めて遭遇した、「知性」と「言葉」を持つ敵。
それは、三月がこれまで目を背け、完璧な嘘で塗り固めてきた自身の「怪物性」を、真っ向から抉り出そうとする鏡のような存在だった。
「……お喋りなゴミは嫌いよ。さっさと喰われて、私の器の足しになりなさい」
三月は背中に背負った星鉄の鞘から、静かに黒月を抜き放つ。
知性があろうが言葉を話そうが関係ない。彼女の日常を脅かす可能性のある深淵は、すべて等しく噛み砕く。
真夜中の静寂に包まれた廃都で、少女と知性ある怪物の、静かで冷酷な死闘の幕が上がろうとしていた。
105話をお読みいただきありがとうございます!
前半は、凄惨な蹂躙劇から一転して「お母さんの生姜焼きが美味しい!」と平和に夕食を楽しむ三月の異常なギャップと、真実を知って胃を痛めるセバスチャンたちの姿を描きました。トップクランの勘違いが、見事な隠蔽工作として機能しています。
そして後半、ついに物語は新たな局面に突入します!
面倒な茶番を終えて深層に戻った三月を待っていたのは、これまでの獣とは違う「人間の言葉を話す人型の怪物」でした。三月と同じ『におい』がすると語るこの怪物は、三月自身の内なる狂気と怪物性を浮き彫りにする存在となりそうです。
知性を持つ強敵に対し、三月の理不尽な暴力はどのように機能するのか?
次回もどうぞお楽しみに! 面白い、続きが読みたい!と思っていただけましたら、ぜひブックマーク登録や下部の評価ボタンでの応援をよろしくお願いいたします!




