第102話:恐怖の記憶と、沈黙の残響
防衛線で若手探索者を助ける形となってしまった三月は、へたり込んだまま、わざとらしいほど震える肩を抱いていた。
「……ひっ、もう、帰りたい……っ」
彼女の足元には、数瞬前まで襲いかかっていたはずの巨大魔獣が、喉元を貫かれた無様な死体となって転がっている。
若手探索者は三月の肩を抱きながら、安堵と興奮が入り混じった表情で周囲を見回した。
「すごいな、君……。あの魔獣の跳躍を完全に読んで、灰の礫で急所を突くなんて……。君、本当にFランクなのか?」
三月は顔を上げ、涙で濡れた瞳を探索者に向けた。
その表情は、恐怖と混乱に満ちた、か弱い少女そのものだ。
「……え? あ、あの……私、ただ怖くて……適当に投げたら……っ!」
彼女の完璧な演技に、若手探索者が偶然の奇跡だと勝手に納得しかけた、その時だった。
「――ひ、いっ……! あ、あああ……っ!」
すぐ近くから、引きつったような、喉を締め付けられたかのような短い悲鳴が聞こえた。
若手探索者が驚いて視線を向けると、そこには使い込まれた革鎧に身を包んだ、一人のDランク探索者の青年が立っていた。
青年の顔は、死人のように真っ白に引きつっている。
大きく見開かれた瞳は、まるでこの世の終わりを目撃したかのように恐怖で激しく小刻みに揺れ、呼吸をすることすら忘れたように胸を上下させていた。
彼の視線は、地面にへたり込んでいる三月へと、完全に釘付けになっていた。
(……あ、あの時の)
三月の優れた記憶領域が、瞬時に目の前の青年のデータを引き出した。
あれは、彼女が覚醒を果たし、誰のサポートも受けずにただ一人、深夜の深層で狂ったように戦い続けていた頃のことだ。
魂喰いによる過剰な魔力の摂取と、内側から溢れ出す底知れぬ闇。
自我を飲み込まれそうになりながら暴走しかけ、周囲にいるすべてのものを肉片に変えようと、我忘れて魔獣たちを一方的に屠り殺していた、あの凄惨な夜。
青年は、偶然その場に居合わせていた。
目の前で繰り広げられたのは、人の姿をした「絶対的な怪物」による、おぞましい蹂躙。
三月は彼を助ける意図など一ミリもなく、ただ暴走の衝動に任せて周囲の魔獣を絶滅させたに過ぎなかったが、結果として、その場にいた青年は生き延びることになった。
青年からすれば、それは感謝すべき「救い」などではなかった。
ただただ、いつ自分に牙を剥くかもわからない死神が、目の前で返り血を浴びて嗤っていた、人生最大のトラップ。生涯消えることのない精神の傷。
青年は、その悪夢の元凶が、今、か弱い少女のフリをして目の前にいることに、恐怖で狂いそうになっていた。
ガチガチと、青年の奥歯が激しい音を立てて震える。
そのただならぬ様子に、隣にいた若手探索者が怪訝そうに眉をひそめた。
「おい、お前どうしたんだ? そんなに震えて……」
「あ、ああ……う……っ」
青年は声を出そうとするが、喉が引きつってまともな言葉にならない。
ここで、あの時の「怪物」の正体を暴露するべきか。
いや、言えるわけがない。そんなことをすれば、あの夜のように、一瞬で自分もこの場にいる全員も、あの恐ろしい闇に飲み込まれて塵にされてしまう。
怪物の機嫌を損ねてはならない。その本能的な絶対の恐怖が、青年の全身を支配していた。
三月は、へたり込んだまま、青年をただ冷徹に見つめ返した。
彼女の美しい黒い瞳には、一切の感情が浮かんでいない。
(……わざわざ消すほどの人でもないわね)
三月の脳裏には、この青年を口封じのために消すという発想は、ハナから存在していなかった。
なぜなら、彼は自分に対して何の敵意も向けていない、ただの怯える一般探索者に過ぎないからだ。家族の平穏を脅かす明確な敵ではない存在を、わざわざリスクを冒してまで殺す必要性は皆無だった。
三月はただ、無機質な視線で青年を見つめ、静かに無言の圧力をかけた。
これ以上余計な反応をして目立つな、と。
青年は三月のその凪いだ瞳を見た瞬間、背筋に冷水を浴びせられたようにガタガタと激しく身震いした。
そして、喉を詰まらせながら、必死に言葉を絞り出した。
「い、いや……なんでも、ない……。ただの、人違い、だ……っ!」
あまりの恐怖に、青年はそれ以上その場に立ち止まることすら耐えられず、自らの武器を抱え直すと、逃げ出すようにして前線の別の防衛ポイントへと走り去っていった。
若手探索者は、そのおかしな様子に首を傾げた。
「な、なんだあいつ……? スタンピードの恐怖で頭がおかしくなったのか?」
「……そうかもしれないわね。みんな、すごく怖がっているし……。私、本当に、ただのFランクの支援要員だから、何もできなくて……っ」
三月はすかさず、さらに怯えた表情を作って涙ぐみ、若手探索者の同情を誘う。
「あ、ああ、悪かった。怖い思いをさせて。君はあいつみたいに狂わないように、安全な後ろに下がっててくれ!」
若手探索者はそう言い残し、迫りくる魔獣の第二波を迎え撃つために、前線の主戦場へと走り去っていった。
周囲の注目が完全に逸れたことを確認し、三月はゆっくりと立ち上がった。
へたり込んでいたコートの裾を軽く払い、その表情から「か弱い少女」の演技をスッと消し去る。
(……無駄な時間を取られたわね。でも、あのお兄さんが余計なことを言わずに逃げてくれて助かったわ)
かつて暴走しかけていた自分を目撃し、死ぬほど恐れている人間の存在。
それは、彼女の隠蔽工作にとって一つのイレギュラーではあったが、青年が「恐怖によって沈黙する」ことを選んだため、決定的な破綻には至らなかった。
三月は、新調された長袖のルームウェアの上から、さらに深く漆黒のロングコートを羽織り直す。
両腕の凄惨な傷跡は完璧に隠されている。
「さて。これ以上お母さんを待たせるわけにはいかないわ。第二波も、一瞬で終わらせましょう」
三月は誰の目にも留まらない死角へと、静かに、影のように溶け込んでいった。
彼女が右手を(新)双極の魔刃・黒月の鞘に添えた瞬間、目に見えない局所重力と、獲物を確実に即死させる魔力針が、広場全体へと密やかに展開されていく。
人間たちの絶叫と狂乱の裏側で、怪物の冷徹な「大掃除」が、再び再開される。
青年が三月に抱いているのは「感謝」ではなく、魂に刻み込まれたような「圧倒的な恐怖」です。
だからこそ、彼は三月の姿を見た瞬間にトラップのような絶望を感じ、自分の身を守るために(そして怪物の逆鱗に触れないために)必死で「人違いだ」と嘘をついて逃げ出しました。
この「恐怖による支配と沈黙」という歪な関係性が、三月の圧倒的な怪物性をより一層引き立てる形となっています。もちろん、三月自身は彼を消すような短絡的な思考はせず、あくまで自分の「日常」を守るための効率的な対処のみを考えています。
次回、このスタンピードの裏に潜む「獅子の牙」が残した最悪の置き土産が姿を現します。
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