表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】底辺育ちの才女は、へこたれない【◈♧】  作者: 逆立ちハムスター


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/14

眠れぬ夜

消灯時間をとうに過ぎた孤児院は、深い静寂に包まれていた。


何十人もの子供たちが規則正しい寝息を立てる大部屋を抜け出し、私は一人、夜の庭へと足を踏み入れた。昼間の柔らかな陽光に包まれていた庭は、今は冷たい月明かりと、降るような星空の下で青白く沈み込んでいる。私は薄い寝巻きのまま、冷え切った芝生を踏みしめ、昼間にルカと一緒に座っていた樫の木の根元まで歩いていった。


見上げれば、吸い込まれそうなほどの満天の星が広がっている。

かつて家畜小屋の隙間から見ていた煤煙に霞む夜空とは違う、ゼリュキア帝国占領下のルークスで見える、澄み切った美しい星空だ。


しかし、その美しさも今の私の心を満たしてはくれなかった。胸の奥には、鉛のような重く冷たいしこりが居座っている。


側にあるベンチに倒れるようにして座り込んだ。


……私って、なんて我が儘で、愚かなんだろう。


夜風に溶けるように、私は自分自身を嘲笑った。

書籍商のエスクリトーラという女性からの、養子縁組の申し出。それは、私が喉から手が出るほど欲していた「知識」と「教育」を無制限に与えてくれる、奇跡のようなチャンスだ。孤児院にいる数多の子供たちの中から私が見出されたこと自体、感謝してもしきれないほどの幸運のはずだった。


それなのに、私の心は歓喜で満たされるどころか、深い喪失感と恐怖に怯えていた。

ここを離れるのが寂しい。ルカと離れ離れになるのが辛い。そんな甘ったれた感情が、私をこの孤児院に縛り付けようとしている。


馬車清掃で泥水をすすり、父親の暴力に怯え、最後には生きるために自らの手を血で染めたあの地獄の日々を思えば、今の状況はどれほど恵まれていることか。私はもっと冷酷に、合理的に、生き抜くための最善の手を打たなければならないはずだ。情に流されて千載一遇のチャンスを台無しにするなんて、許されることではない。


『寂しがるなんて、贅沢だ。私には、そんなものを感じる資格なんてないのに』


私は膝を抱え、ひび割れが治りかけてきた自分の手を強く握り締めた。知識で武装し、誰にも搾取されない人間になるのだと誓ったはずなのに、私の心はいつの間にか、この温かな場所に毒されていたのだ。


――その時だった。


「……南棟の雨どいですが、先日の強風で留め具が少し緩んでいるようです。明日の朝、大工を手配しておきましょうか」

「ええ、お願いするわ。雨水が溢れて廊下が滑りやすくなったら、子供たちが怪我をしてしまうもの」


庭の向こうから、低い話し声と共に、カンテラのオレンジ色の光が揺れながら近づいてきた。

見回りの時間だ。声の主は、年配の修道士と、そして――院長先生だった。


私は心臓を跳ね上がらせ、慌てて樫の木の太い幹の裏側へと身を隠した。

規則違反だ。夜中に部屋を抜け出したことが見つかれば、ただでは済まない。最悪の場合、養子の話も取り消されてしまうかもしれない。私は息を殺し、冷たい木の皮に背中を押し当てて、二人の足音が通り過ぎるのを待った。


「それから、中庭の通路の件ですが……」

「ああ、あそこね。最近、雨で土が流されたせいか、少し大きな小石が目立つようになってきたわね。子供たちが走って転んだ時に、あんな尖った石にぶつかったら危険だわ。明日、年長の子たちにお願いして、石拾い競争でもさせましょうか。一番たくさん拾った子には、おやつのクッキーを一つおまけする約束で」

「ふふ、それは名案ですね。子供たちも喜んで庭を綺麗にしてくれるでしょう」


二人の会話が、夜の静寂の中に優しく響く。

私は隠れながら、その会話の内容に微かな衝撃を受けていた。


彼らは、ただ施設を管理しているのではない。子供たちが転んだ時に少しでも怪我をしないように、そんな些細な小石の存在にまで気を配ってくれているのだ。私がかつて生きていた貧民街では、子供が泥の中で転んで怪我をしようが、誰も見向きもしなかったというのに。


カンテラの光が、私が隠れている樫の木のすぐそばを通り過ぎていく。

やり過ごせた。そう安堵して、肺に溜まっていた息を細く吐き出そうとした瞬間。


「あら?」


ピタリと、院長先生の足音が止まった。

それに合わせて、修道士の足音も止まる。


「どうなさいました、院長」

「……あそこのベンチに、何かが落ちているわ」


カンテラの光が、私がつい先程まで座っていた樫の木の隣の木製ベンチを照らし出した。

そこには、白い布切れのようなものが落ちていた。


ハッとして、私は自分の寝巻きのポケットを探った。

ない。今日、シスターが「身だしなみとして持ち歩きなさい」と私に持たせてくれた、刺繍入りの白いハンカチだ。先程、自分が座る前にベンチの夜露を拭き取るために使い、そのまま忘れてきてしまったのだ。


「誰かのハンカチでしょうか……」

「ええ。夕食前に見たときは落ちていなかっわね」


院長先生がハンカチを拾い上げる様子が、幹の陰からわずかに見えた。

見つかる。そう直感した私の体が、反射的に恐怖で硬直した。かつて、父親に何かを失敗して見つかった時の、殴られる瞬間の記憶がフラッシュバックする。


私は無意識のうちに後ずさりをしてしまい――。


カサッ。


足元の乾いた落ち葉が、静かな夜の庭に無慈悲な音を立ててしまった。


「誰だ!!」


修道士が鋭い声を上げ、手持っていた護身用の樫の木の杖を即座に構えた。カンテラの光が、私の隠れている幹の裏側へと容赦なく向けられる。


「そこに誰かいるのか! 出てこい!」

修道士の厳しい声に、私の心臓は破裂しそうに脈打った。逃げることもできず、私は震える体を抱きしめたまま固まっていた。


しかし、その張り詰めた空気を破ったのは、院長先生の静かで、しかし凛とした声だった。


「隠れていないで、出てきなさい」


その声には、怒りよりも、慈愛と、すべてを見透かしているかのような深い静けさが宿っていた。

私は観念し、ゆっくりと、震える足で樫の木の陰から姿を現した。


「……エララ!?」

修道士が驚きの声を上げ、構えていた杖を下ろした。院長先生もまた、少しだけ目を瞬かせたが、すぐにその表情を柔らかなものへと変えた。


「院長先生……あの、申し訳ありません。私……」


私はとっさに言い訳を紡ごうとしたが、喉がカラカラに乾いて言葉が出てこない。規則を破った。怒られる。見放される。その恐怖で、全身が小刻みに震え始めていた。


「どうしても、眠れなくて……それで、少し外の空気を、と……」

「そうなのね。でもその格好では風邪を引いてしまうわ」


院長先生は修道士の方を振り向くと、静かに告げた。


「あなたは向こうの棟の見回りを続けて。この子は、私が後で部屋に送り届けるから」

「はい。承知いたしました」


修道士は頭を下げると、カンテラを持って足早に立ち去っていった。

庭には、月明かりの下、私と院長先生の二人だけが取り残された。


院長先生は、私が落とした白いハンカチを丁寧に折りたたみ、私に手渡してくれた。そして、ベンチに腰を下ろすと、隣の空いたスペースを軽くポンポンと叩いた。


「座りなさい、エララ」

「……はい」


私は怯えながら、院長先生から少し距離を置いてベンチの端に腰掛けた。

沈黙が落ちる。遠くで、夜鳥の鳴き声が聞こえた。


「規則を破って夜中に出歩いたこと、怒っていらっしゃいますか……?」


耐えきれず、私から口を開いた。罰を与えられるなら、早く言って欲しかった。沈黙は、父親が暴力を振るう前の嵐の前の静けさと似ていて、私を狂わせそうだった。


しかし、院長先生はゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。怒ってなどいないわ。あなたのように賢い子が、理由もなく規則を破るはずがないもの」


彼女は夜空を見上げながら、ポツリと呟いた。


「眠れなかったのは、明日のことでしょう? 書籍商のエスクリトーラさんとの面会。……養子縁組のことが、不安で仕方ないのね」


図星を突かれ、私は息を呑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ