本好きの友人
孤児院での新しい生活が始まってから、さらに一ヶ月の月日が流れていた。
初夏の風は心地よく、緑豊かな庭には陽光が眩しいほどに降り注いでいる。ゼリュキア帝国の占領下に入って以来、このルークスの街全体は重苦しい空気に包まれているというのに、壁に囲まれたこの孤児院だけは、まるで別世界のように穏やかな時間が流れていた。
私はすっかりこの生活に慣れていた。朝の冷たい水で顔を洗い、栄養のある温かい麦粥を食べ、日中は文字を学び、自由時間には本を読む。泥にまみれて馬車の車輪を磨き、いつ飛んでくるかわからない父親の拳に怯えていた日々が、遠い前世の出来事のように思えるほどだ。
そして、今の私の隣には、いつも決まって一人の少年が座っている。
彼の名前はルカ。
私と同じ十二歳で、亜麻色のくせっ毛と、いつも少し眠たそうに垂れた大きなヘーゼル色の瞳が特徴的な少年だった。彼もまた、先の戦争の動乱で両親を失い、この孤児院にやってきたという。
ルカは、この孤児院の子供たちの中で唯一、私と同じ「本好き」だった。
私たちは毎日、庭の隅にある大きな樫の木の木陰を陣取り、お互いの知識を交換し合っていた。私は医学や歴史の難しい言い回しを彼に教え、彼は私がまだ知らない古い詩集の言葉や、天文学の基礎を教えてくれた。文字を一つ教え合うたびに、新しい世界への扉が少しずつ開いていくような、そんな静かで熱気を帯びた時間を共有していた。
「エララ、これ……君に」
その日、ルカは少し頬を赤らめながら、背中に隠していた手を前に差し出した。
彼の手の中には、庭の隅でひっそりと咲いていたであろう、淡い青色の小さな野花が一輪握られていた。
「わあ……綺麗。私に?」
「うん。その……今日読んだ詩の中に、『青い花は知性を愛する乙女に似合う』っていう一節があったから。エララにぴったりだと思って」
ルカは照れ隠しのように視線を泳がせながら、小さな声で言った。
私は花を受け取り、そっと鼻を近づけた。微かな、甘い香りがする。今まで生きてきて、誰かから花を贈られるなんてことは一度もなかった。私の人生にあったのは、泥と血と、絶望の匂いだけだったからだ。胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「ヒュー! なんだよあいつら、色気づいちゃって!」
「花だってさ! うえー、気持ち悪い!」
突然、下品な囃し立てる声が響いた。
声の方を見ると、庭で遊んでいた数人の悪ガキたちが、私たちを指差してニヤニヤと笑っていた。彼らにとって、本ばかり読んでいる私たち二人は、格好のからかいの対象なのだ。
ルカはビクッと肩を揺らし、すっかり萎縮してしまった。
「ご、ごめん……エララ。僕が変なことをしたから……」
彼が花を取り返そうと手を伸ばしてきたが、私はその手を軽く払い、花を胸元に大事に抱え込んだ。そして、冷やかす子供たちに向かって、真っ直ぐに視線を向けた。
「好きよ! 何が悪いの!」
私の大きく、堂々とした声に、子供たちは一瞬ぽかんと口を開けた。
「ルカが私を思って花をくれたの。とても素敵なことじゃない。人の好意を笑うような、心まで貧しいあなたたちには一生わからないでしょうけどね」
私は冷ややかな声で、容赦なく言い放った。
父親を殺し、あの地獄を生き抜いてきた私にとって、同年代の子供の悪口など、そよ風以下の意味しか持たない。私が本当に恐れるべきは、無知であることと、力を持たないことだけだ。
「な、なんだよあいつ……」
「気味が悪い女だな、行こうぜ……」
私の全く動じない態度に気圧されたのか、子供たちは「うえー」と負け惜しみのように悪態をつきながら、そそくさと別の場所へと走り去っていった。
「エ、エララ……」
「謝る必要なんてないわ、ルカ」
私は驚いた顔をしているルカに向き直り、空いている方の手で、彼の少し震えている両手をギュッと握りしめた。
「とてもロマンチックで、本当に嬉しい。ありがとう、ルカ。大切にするわ」
私が心からの笑みを向けると、ルカは目を丸くした後、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「そ、そう……? 君が嬉しいのなら、それで、いいかな……」
彼はもごもごと口ごもりながらも、その口元はだらしなく緩み、心底嬉しそうに微笑んでいた。その不器用で純粋な反応に、私まで少し顔が熱くなるのを感じた。
「そうだ、エララ。これ、見てよ」
照れ隠しなのか、ルカは慌てて自分の鞄から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
それは、昨日孤児院に物資を届けに来た商人から、ルカが粘り強く交渉して譲り受けたという古い地図だった。
私たちは樫の木の根元に座り直し、二人の膝の上にまたがるようにして地図を広げた。
そこには、私たちが住むこの小さな国だけでなく、海を隔てた巨大な大陸の国々などが、緻密な線と古びたインクで描き出されていた。
「ここが、今僕たちをの国を支配しているゼリュキア帝国だね。もう北の端まで見えないくらい国土が広がっている。ここは……一年中雪が降っているのかな」
「そうかもしれないわね。見て、ここには『氷竜の巣』って書いてあるわ。本当に竜がいるのかしら」
「いるかもしれないよ! この南の方にある国なんて、『クリスタル砂漠』だって。どんな景色なんだろう」
私たちは顔を寄せ合い、地図上の未知の国々を指でなぞりながら、想像の翼を広げた。
「クリスタルの砂漠には、きっと甘いスパイスを使った不思議な食べ物があるのよ」
「この東の島国には、バイキングっていう、屈強な戦士がいるって本で読んだことがある!」
「どんな歴史があるのかしら。滅んだ古代帝国の遺跡がまだ眠っているかもしれないわね」
二人で想像を膨らませ、笑い合い、まだ見ぬ世界について語り合う。
少し離れた広場では、他の子供たちが石を立てて別の石をぶつけて倒す「エフェドリスモス」という遊びに熱中し、負けた子が勝った子を背負って走り回って大騒ぎしている。あるいは、網を持って虫達を追いかけている子もいる。
それが普通の子供の姿なのだろう。しかし、私とルカにとっては、この一枚の古い地図の中に広がる壮大な世界を旅して、読み解き、知識を深めることこそが、何よりもスリリングで楽しい遊びだった。
ふと、私は地図の隅に描かれた海獣の絵に夢中になっているルカの横顔を見つめた。
少し長い睫毛、真剣な眼差し、そして地図をなぞる細くて白い指。
トクン、と。
胸の奥で、今まで感じたことのない奇妙な鼓動が跳ねた。
お母さんが父親に抱いていたような、恐怖の混じった歪な感情ではない。もっと純粋で、温かくて、ただ隣にいるだけで心が満たされるような感覚。
これが「恋」というものなのかどうか、医学書や歴史書をいくら読んでも答えは出ない。でも、私は確かに今、この瞬間のルカを「愛おしい」と感じていた。
私がじっと見つめていることに気がついたのか、ルカがふっと顔を上げた。
至近距離で、彼のヘーゼル色の瞳と視線がぶつかる。
「……エララ? どうしたの?」
「っ……! な、なんでもないわ! この海獣、ちょっと変な顔ねって思って思って!」
私はカッと顔が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らして地図に目を落とした。心臓がうるさいくらいに鳴っている。ごまかすように早口で喋る私の姿がおかしかったのか、ルカはくすくすと優しく笑った。
そんな、穏やかで幸福な時間が永遠に続けばいいのにと、心の底から思っていた。
しかし、運命というものは、常に私がささやかな幸せを掴みかけた瞬間に、新たな試練を用意するものらしい。




