新たな生活
柔らかく暖かな日差しが、孤児院の庭に降り注いでいた。
よく手入れされた芝生の上では、同じ服を着た子供たちが無邪気な声を上げて追いかけっこをしている。平和で、穏やかな昼下がり。私は庭の隅にある大きな樫の木の木陰に座り、膝の上に広げた黒い革張りの聖書に静かに視線を落としていた。
これは孤児院の子供たち全員に義務として配られたものだ。しかし、今の私の頭の中には、神の教えも、聖人たちの奇跡の物語も入ってきてはいなかった。活字を目で追いながらも、私の意識はゆっくりと、この半年間に起きた怒涛の出来事の中を漂っていた。
あの日――血と絶望にまみれたあの日の朝から、もう半年が経つ。
床に転がる父親の死体と、梁から吊り下がった母親の遺体。その絶対的な死の光景を前にして、私の心は一度完全に砕け散った。涙さえ枯れ果て、悲鳴を上げる気力もなく、ただ虚無だけが全身を支配していた。
それでも、私の体は動いた。いや、動かざるを得なかったのだ。
生きるために、食べ物を買うために、働かなければならない。その強迫観念だけが、操り人形の糸のように私の手足を動かした。私は血の匂いが染み付いた家を後にし、放心状態のまま、いつも通りに馬車留めのある高級宿へと向かった。
前日、勝手に職場を離れたことで、宿の雇われ管理人からはこっぴどく怒られるだろうと覚悟していた。泥に額を擦り付けて土下座をし、何度殴られても耐えて、絶対に仕事を取り戻すつもりだった。
だが、馬車留めに着いた私を待っていたのは、全く予想外の事態だった。
「おや、君がここで働いているという清掃係の子かな?」
そこにいたのは、あの恰幅の良い粗暴な管理人ではなく、見知らぬ細身の男だった。糊の利いた上質なシャツを着て、口元には愛想の良い笑みを浮かべている。どうやら、偶然にも管理人が交代した直後だったらしい。そんなことはこの街では珍しいことではないが、私にとっては奇跡的なタイミングに思えた。
私は理由を問いただされることもなく、「いいから仕事に戻りなさい」と促され、再びブラシを握ることができた。神仏の類は信じていないが、この時ばかりは運命に感謝した。
しかし、その安堵はすぐに粉々に打ち砕かれた。
新しい管理人は、前任者のような暴力や暴言を一切使わなかった。常に穏やかな口調で、笑顔を絶やさない。だが、彼は前任者よりも遥かに悪質で、恐ろしい男だったのだ。
「君、両親を亡くして一人ぼっちなんだってね。可哀想に。これからは私が君の保護者代わりになってあげるから、安心して働きなさい」
彼はそう言って、私に投げられた貴族からのチップを、すべて自分のポケットに回収し始めた。さらに、本来私(正確には父親)に支払われるはずの微々たる給料すらも、「君のような子供が大金を持つのは危険だから、私が管理してあげよう」と、言葉巧みにピンハネしたのだ。
私が孤児になったという噂は、たった半日で貧民街からあっという間に彼の耳に入っていた。彼は私の足元を完璧に見透かしていた。帰る家も消えかけ、守ってくれる大人もいない子供など、彼にとっては格好の搾取の対象に過ぎなかった。
『不満があるなら辞めてもいいんだよ? 君の代わりなんて、この街には掃いて捨てるほどいるんだからね。だからお互い喧嘩せず、仲良くやろうね』
笑顔の奥にある、冷酷な蛇のような目。
それは、感情のままに暴力を振るう父親や前任者とは違う、計算し尽くされた知的な悪意だった。私は逆らうことができなかった。彼に捨てられれば、その日の食べ物すら手に入らないからだ。
圧倒的な無力感に苛まれながら、その日の仕事を終えて家に帰った私を、さらなる絶望が待ち受けていた。
立て付けの悪いドアが開け放たれ、家の中が荒らされていたのだ。
貧民街の住人が、親を亡くした私の家を狙って泥棒に入ったのだろう。金目のものなど最初から何もない家だったが、なけなしの食器や、母親が使っていた古い裁縫道具すら持ち去られていた。
そして、私が最も恐れていたことが現実となっていた。
バラムの姿は消えており、裏手の家畜小屋の二階――私の聖域だった干し草のベッドも荒らされ、隠してあった本がすべて消え去っていたのだ。
貴族達から少しずつもらった医学書、歴史書、そして古い聖書などが。
私が這い上がるための唯一の武器であり、心の支えだった知識の結晶。それが、誰とも知れない卑しい泥棒の手によって奪われてしまった。暖炉の焚き付けにされたのか、二束三文で古物商に売り飛ばされたのかはわからない。
不思議なことに、その時の私は、怒りも悲しみも湧いてこなかった。
心が許容量を超えた痛みをシャットアウトしてしまったのか、ただ「ああ、無くなったのか」というひどく乾いた事実だけを認識した。
その日の夕暮れ。私は家畜小屋から錆びたシャベルを持ち出し、家の裏庭の硬い土を掘り始めた。
手が豆だらけになり、血が滲んでも、私は無心で土を掘り続けた。そして、硬直した父親の死体と、首の骨が折れて不自然に曲がった母親の遺体を、重い麻布に包んで引きずり、その穴の中に突き落とした。
墓標も拾った木の枝のみ、ただ土を被せただけの冷たい墓。私はそこで祈りを捧げたあと、ただ泥だらけの手を見つめていた。
─
数日後、私はその家からも追い出された。
大家の男がやってきて、次の家賃が払えないなら出て行けと怒鳴り散らしたのだ。
「私が働いて、必ず払います! だから、ここから追い出さないで!」
私は必死に大家の足にすがりついた。家を失えば、本当にすべてが終わってしまう。だが、大人は薄汚い十二歳の少女の言葉になど耳を貸さなかった。無情にも私は荷物一つない状態で路地裏へと蹴り出され、帰る場所を永遠に失ったのだ。
その後、飢えと寒さで路地裏で死にかけていたところを、孤児院の馬車に拾われた。
いや、「拾われた」という表現は正しくない。捕獲されたのだ。
最初は、この孤児院は文字通りの地獄だった。
院長は肥え太った豚のような女性で、私たち孤児を国からの補助金をもらうための道具、あるいは無料の労働力としか見ていなかった。
与えられる食事は、虫の浮いた薄いスープと、石のように硬くカビの生えたパンの欠片だけ。少しでも反抗すれば、容赦ない鞭打ちの罰が待っていた。朝から晩まで街の清掃や内職の労働を強いられ、夜は隙間風の吹き込む薄暗い地下室に、何十人もの子供たちと敷き詰められて一緒に監禁された。
泣き叫ぶ小さな子供の声。病気で咳き込む音。そして、朝になれば冷たくなっている誰かの体。
私は感情を殺し、ただ息を潜めて、この劣悪な環境で生き延びることだけを考えていた。
そんな地獄のような日々が一変したのは、ほんの数週間前のことだ。
この国は、遠方の強大な海洋国家である「ゼリュキア帝国」との戦争に、一瞬で敗北した。
海からの艦隊による凄まじい砲撃で、王都は僅か半日で陥落し、国の指導者たちは即座に降伏。私たちが住むこのルークスの街も、ゼリュキア帝国の占領下に入ったのだ。
敗戦の混乱の中、孤児院の運営にも大きなメスが入った。
それまで私腹を肥やしていた悪徳院長は帝国の軍人によって拘束され、代わりに孤児院の運営を引き継いだのが、ロバート・チェネスという名の商人だった。
彼は帝国の息のかかった御用商人だという噂だったが、彼が来てから、私たちの環境は文字通り天国のように激変した。
粗末だったベッドには清潔なシーツが敷かれ、隙間風は修繕された。食事は質素ながらも、温かい麦粥や野菜の煮込み、新鮮なパンが十分な量で提供されるようになった。労働や監禁は即座に廃止され、代わりに基本的な文字や計算の「教育」と、庭で遊んだり書物を読んだりする「自由時間」が与えられた。
なぜ、一介の商人が孤児たちにここまで良くしてくれるのか。
彼が純粋な善人であるとは、到底思えなかった。あの搾取する管理人のように、何か裏の目的――例えば、将来の労働力として恩を売っておくためか、あるいは帝国の宣伝活動の一環か。または神への贖罪なのか。
理由はわからないが、今の私にとってはどうでもいいことだった。
重要なのは、私が再び「知識」を得るための環境を手に入れたということだ。
孤児院で行われる同年代の子供たち向けの授業は、私にとってはひどく退屈なものだった。
調和語の基本的な読み書きや、一桁の足し算引き算。そんなものは、あの家畜小屋の二階で医学書や歴史書を読み解いていた私には、すでに通り過ぎた道だった。
だから私は、孤児院を訪れる大人たち――炊き出しの手伝いや慰問にやってくるオルフェ教会(オルフェニルカダリスティルニア大聖教会)のシスターや聖騎士、警備を兼ねて視察に訪れるゼリュキア帝国の兵士たちに、積極的に声をかけ、文字や知識の教えをねだるようになった。
もちろん、薄汚い孤児に話しかけられて、不快感を露わにする人も多かった。
無視されたり、「シッシッ」と犬を追い払うようにされたり、「神聖な任務の邪魔をするな!」と罵倒されたりされることも日常茶飯事だった。しかし、そういう大人たちの反応にはもう慣れている。心が傷つくことすらない。
私が探していたのは、知識を分け与えてくれる、ほんの一握りの大人だった。
ある日、孤児院への食料物資の荷運びが終わり、石段に腰を下ろして軽食をとっている一人の聖騎士がいた。
銀色の重厚な鎧に身を包み、顔には大きな古傷がある、見るからに強面で恐ろしい雰囲気の人だった。他の子供たちは彼を怖がって近寄らなかったが、私は彼が読んでいる分厚い戦術書のようなものに目を奪われ、迷わず近づいていった。
『なんだ、お嬢ちゃん。腹が減っているのか?』
野太い声で凄まれたが、私は怯まずに彼の手元を指差した。
「いえ。その本に書かれている文字の読み方を、教えていただけませんか」
彼は一瞬ぽかんとした顔をした後、腹の底から愉快そうに笑い出した。そして、見た目の恐ろしさとは裏腹に、とても丁寧に、そして根気よく、難しい軍事用語や他国の地理についての知識を教えてくれたのだ。
また、ある子供好きのシスターは、私の才能に驚嘆してくれた人の一人だった。
彼女が持ってきていた聖書の解説書を、私がすらすらと読み上げ、さらにその意味を自分なりに解釈して見せた時、彼女は丸く目を見開いて私を抱きしめた。誰かに抱きしめてもらったのは、私が幼い頃の母ぐらいだ。
『なんて賢い子なの……! あなたには、神の祝福が宿っているに違いないわ』
彼女は後日、街の書物店でわざわざ買ってきてくれたという一冊の本を、私にプレゼントしてくれた。
それは、『南方大陸見聞録』という旅行記だった。
手触りの良い皮表紙に、未知の動植物の挿絵、見たこともない文化や風習が記された、素晴らしい本だった。私は彼女に深く頭を下げ、その本を胸に抱きしめた。
両親、家、本、仕事、そしてバラムを失ったあの日の絶望から、ようやく私は一歩を踏み出すことができたのだ。
私は孤児院での穏やかな時間を最大限に利用し、シスターや騎士達からの知識や恩恵を吸収し、本を何度も何度も繰り返し読み込み、自分なりに才能を磨いていった。
私は諦めない、へこたれない。
この理不尽な世界で生き抜き、絶対に誰にも搾取されない力を手に入れる。そのための武器は、刃でも魔法でもなく、私のこの頭脳の中にある知識だけなのだから。
「――カーン、カーン、カーン……」
不意に、庭園の奥にそびえる礼拝堂の鐘が、静かな昼下がりの空気を震わせて鳴り響いた。日課である午後の礼拝の始まりを告げる合図だ。
庭で遊んでいた子供たちが、一斉に遊びをやめ、わちゃわちゃと列を作りながら礼拝堂へと向かって走り出す。
私は膝の上の聖書をパタンと閉じ、立ち上がった。
芝生についた草の欠片を手で払い落とし、大きく深呼吸をする。
孤児院の制服である簡素な白いワンピースの裾が、初夏の風に揺れた。
私はもう、家畜小屋で怯えていたあの日の弱い少女ではない。
心は一度壊れ、冷え切ってしまったかもしれないが、その代わりに、何者にも揺るがない冷徹な意志を手に入れたのだ。
私は子供たちの列の最後尾にゆっくりと混ざり、毅然とした足取りで、神がいるかも分からない礼拝堂へと向かって歩き出した。




