Ⅴ
部屋の空気は、ひどく淀んでいた。
血の匂い、安酒の饐えた匂い、吐瀉物の酸っぱい匂い、そしてベラドンナの青臭い匂いが混ざり合い、息をするだけで肺の奥が重く沈み込んでいくようだった。
あれから何時間経ったのか、私にはもうわからなかった。
床の中央には、白目を剥き、不自然に弓なりに反り返ったまま固まった父の死体が転がっている。私は冷え切った板張りの壁に背中を預け、ずるずると腰を下ろしたまま、その奇妙な肉の塊から目を逸らすことができなかった。
後悔はなかった。罪悪感も、不思議なほど欠落していた。私が殺した。私からすべてを奪い、母を理不尽に痛めつけ続けてきたあの男を、この手で排除した。それは、虫を駆除するのと同じ、ただの正当な防衛行為のはずだった。
それなのに、私の体はひどく震えていた。
ガタガタと、膝が勝手に音を立てる。歯の根が合わず、奥歯がカチカチと鳴る。両腕を胸の前で強く抱きしめても、筋肉の奥底から湧き上がるような小刻みな震えを止めることはできない。
さらに不可解なことに、私の両目からはとめどなく涙が溢れ出していた。
悲しいわけではない。父の死を悼む気持ちなど、微塵も存在しない。かといって、自分が捕まるかもしれないという恐怖に怯えているわけでもなかった。
ただ、「人を殺した」という決定的な事実が、圧倒的な質量を持って私の心と体にのしかかっていた。自らの手で命を奪った後、体がどのように反応するかは、どのページにも記されていなかった。
拭っても拭っても溢れる涙は、ひどく熱かった。私は奇妙な安堵と戸惑いを同時に覚えていた。
どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。傾いた窓から差し込む光の角度が変わり、部屋の中に長い影が落ち始めた頃、床の隅でピクリとも動かなかった母の体が、わずかに身じろぎした。
「うっ……ぁ……」
呻き声が、静寂に包まれた部屋に響く。
私はハッとして顔を上げた。震える手で乱暴に涙を拭い、壁伝いに立ち上がる。
母は、ゆっくりと、本当にゆっくりと体を起こした。顔の右半分はひどく腫れ上がり、紫色の痣ができている。眉間から流れた血は乾いて黒い瘡蓋になっていたが、それでも母は生きている。私の頭の中の霧が、少しだけ晴れたような気がした。
母は助かった。
私の決断は間違っていなかったのだ。あのまま私が何もしなければ、母は確実に父の暴力によって命を落としていた。私が母を救った。もう、怯える必要はない。理不尽な暴力に身を縮める日は、今日で終わるのだ。
「……お母さん」
私は、自分でも驚くほど穏やかな声で呼びかけた。
母は腫れた目を細め、霞む視界の中で私の姿を捉えようとした。そして、私の足元から少し離れた場所に転がっている、異様な物体――父の死体へと視線を移した。
「……え?」
母の喉から、間の抜けたような声が漏れた。
母の目は、大きく見開かれた。信じられないものを見るかのように、瞬きすら忘れて、白目を剥いて死んでいる父を見つめている。
私は、母が状況を理解しやすくするために、一歩前に出て、はっきりとした口調で言った。
「大丈夫だよ、お母さん。もう安全だから」
私は、母が安堵の息を吐くのを待った。あるいは、「ありがとう」と言って私を抱きしめてくれるかもしれないと、心のどこかで期待していた。
「私がやったの。これでもう、私たちを傷つける人はいない。あいつはもう、二度とお母さんを殴らないよ」
しかし。
私の言葉が紡ぎ出したのは、安堵でも感謝でもなく、完全なる狂気だった。
「あああああああああああああああッ!!!」
喉が裂けんばかりの、鼓膜を突き破るような絶叫。
それは、拷問を受けた獣が死の間際に放つような、純粋な悲鳴だった。
「お、お母さん……!?」
私は硬直した。予想外の反応に、頭の中の思考が完全に停止した。
母は、這いつくばるようにして床を進み、父の死体へとすがりついた。腫れ上がった顔を、泡を吹いて固まった父の胸に押し付け、獣のように泣き叫び始めたのだ。
「あなた! あなたっ!! いやああああああっ!! なんで! なんでこんなことに!!」
母は、数時間前まで自分を殺そうとしていた男の冷たい頬を撫で、狂ったようにその名を呼び続けている。服を引き裂き、泥と血に塗れた汚い男の死体を、まるでかけがえのない宝物のように強く抱きしめている。
「嘘よ! 起きて! お願いだから目を開けて!! あなたああああああっ!!」
理解できなかった。
何が起きているのか、全く理解できなかった。
なぜ、泣いているの? なぜ、悲しんでいるの?
この男は、私たちをずっと殴り続けてきたじゃないか。稼いだお金をすべて酒に使い、私からチップを奪い、母を奴隷のように扱い、最後には殺そうとした。
喜ぶはず。自由になったんだから。地獄から抜け出せたんだから。
私という存在を否定し、迫害し続けた絶対的な悪。それを排除したのに、なぜ被害者であるはずの母が、加害者の死を嘆き悲しんでいるのか。
「お母さん……なんで……?」
私の震える声は、母の絶叫にかき消された。母は私を一瞥すらしなかった。ただ、死体にすがりつき、涙と鼻水を流しながら、自分を虐げてきた男への愛とも執着ともつかない何かを叫び続けていた。
それからの時間は、私にとってひどく苦痛なものだった。
泣き叫び疲れた母は、やがて虚ろな目で父の胸に顔を埋めたまま、ピクリとも動かなくなった。私が何度呼びかけても、毛布をかけようとしても、母は完全に私を無視した。いや、母の視界に私はもう存在していないようだった。母の世界には、今や死んだ父しかいなかった。
私は、冷たい手で自分の腕をさすりながら、静かに部屋を出た。
重い足を引きずり、裏手の家畜小屋へと向かう。いつもなら安らぎを与えてくれるはずの干し草の匂いも、今日だけはただの虚無にしか感じられなかった。
梯子を登り、二階の隠れ家へと潜り込む。魔力ランプに火を灯し、いつものように本を開いた。
しかし、文字が全く頭に入ってこない。
『――魔力の流動は、精神の安定と密接な関係にあり……』
医学書の文字をなぞっても、歴史書の英雄たちの軌跡を追っても、私の脳裏に焼き付いて離れないのは、血と泥に塗れた床で、死んだ父にすがりついて泣く母の姿だった。
なぜ。なぜ。なぜ。
何度問いかけても、本は答えを教えてはくれなかった。
暴力と恐怖で支配される関係の中にも、私には理解できない、歪で強固な「何か」が存在していたのだろうか。
私が悪かったの? 私が間違っていたの?
ランプの青白い光の中、私は膝を抱えて呟いた。
わからない。私はただ、理不尽を排除したかっただけだ。正しいことをしたはずだった。
その夜、私は一睡もすることができなかった。干し草の上で身を丸め、ただ母の流した涙の意味と、自分の中にある得体の知れない感覚を持て余したまま、長く冷たい夜を過ごした。
─
空が白み始め、小さな窓から射し込む光が、今日も変わらぬ朝の到来を告げた。
太陽は昇り、街は石炭の煙に包まれ、人々はいつも通りに働き始める。世界は何も変わっていない。しかし、私の心の中だけは、まるで焼け野原のように荒涼とした別世界になっていた。
それでも、私は生きなければならない。
硬い干し草から身を起こし、硬いパンの欠片を水で流し込む。
私は、今日やるべきことを頭の中で整理した。
まずは仕事だ。昨日、途中で投げ出してしまったから、雇われの管理人からは当然ひどく怒られるだろう。殴られるかもしれない。しかし、泥に土下座をしてでも謝らなければならない。仕事をもらえなければ、本当に飢え死にしてしまう。
これからは、私が一人で稼がなければならないのだ。
父という寄生虫がいなくなった今、私が稼いだお金はすべて、私と母のためのものに変わる。母は今はまだ、急な状況の変化に心が追いつかず、錯乱しているだけだ。長年縛り付けられていた恐怖の対象が消えたことで、どうしていいかわからなくなっているだけなのだ。
時間が経てば、きっとわかる。
私が母のためにやったのだと。暴力のない、穏やかな生活がどれほど素晴らしいものかを実感すれば、母はいつか必ず、私に感謝してくれる。
大丈夫。私が、お母さんを支える。
自分に言い聞かせるように、私はボロボロの仕事着の埃を払った。
今は私を遠ざけていても構わない。憎まれてもいい。ただ、母が生きて、安全な場所で生活をしてくれていれば、それで十分だ。私がすべてを背負う。そのための知識を、私は本から学んできたのだから。
家畜小屋を出る前に、私はふと立ち止まった。
仕事に向かう前に、一度だけ、家の様子を見ておこう。
昨夜から何も喉を通っていないはずだ。少しだけ声をかけて、水だけでも飲ませてあげなければ。
朝の冷たい空気を肺に吸い込み、私は木造長屋の正面へと回った。
立て付けの悪いドアの前に立つ。
いつもなら、この時間になれば、父のいびきや、母が朝食の準備のために鍋を洗う音、あるいは父の理不尽な怒声など、何かしらの物音が聞こえてくるはずだった。
しかし、家の中からは一切の音が聞こえなかった。
しんと、静まり返っている。まるで、この家だけが世界から切り離され、時間が停止してしまったかのような、不気味な静寂。
胸の奥で、嫌な予感が警鐘を鳴らした。昨日、父が昼間に帰ってきた時と同じ、冷たい悪寒。
「お母さん……?」
私はそっとノブを回し、音を立てないようにゆっくりとドアを押し開けた。
室内に差し込んだ朝日は、埃が舞う空間を一直線に切り裂き、その先にある「光景」を残酷なほど鮮明に照らし出していた。
私の目に入ったのは、まず、床の上に転がった粗末な木の椅子だった。
それは、いつも私たちが食事の時に使っていた、脚の長さが少し違うガタつく椅子だ。
そして、そのすぐ上。
天井の太い梁に結びつけられた、太く、汚れた麻縄のロープ。
縄の輪は、母の細い首に、深く、食い込むように巻き付いていた。
「えっ……」
私の喉から、空気が抜けるような間の抜けた音が漏れた。
ロープの先で、母の体は空中に吊り下げられていた。母の足元は床から数十センチほど浮き、つま先が力なく下を向いている。腕は体の両脇にだらりと垂れ下がり、首は不自然な角度に折れ曲がっていた。
腫れ上がった顔は鬱血して黒く変色し、見開かれた目は、虚空を――あるいは、床に転がる父の死体を見つめたまま、完全に光を失っていた。
風が吹き込んだわけでもないのに、吊り下げられた遺体がわずかに揺れ、梁とロープが擦れる微かな音が、死の静寂の中に響いた。
私は、息を吸うことも、吐くことも忘れていた。
頭の中が真っ白になり、視界の端から徐々に暗転していく。
膝の力が完全に抜け、私は操り糸を切られた人形のように、その場に力なく座り込んだ。
目の前には、白目を剥いて死んでいる父の死体。
そしてそのすぐ上で、自ら首を吊り、変わり果てた姿となった母の死体。
私がやった。
私が、あの男を殺したから。
私が、母を救おうとしたから。
「ああ……」
言葉にならない声が漏れる。
私が手に入れたかった未来。本の中で学んだ、知識による解放。
そのすべてが、この腐臭の漂う狭い部屋の中で、無惨に砕け散っていた。
私は、冷たい土の床に座り込んだまま、ただ呆然と、首を吊った母と、見開かれた父の目を見上げるしかなかった。
私は何を間違えたのだろうか。




