Ⅳ
嫌な予感は、最悪の形で的中した。
父は粗末な我が家の前に着くと、乱暴に扉を蹴り開けて中へと入っていった。
私は正面から入るのを避け、家の側面に回り込んだ。腐りかけた木板でできた薄い壁に、そっと耳を押し当てる。壁の隙間から、内部の生々しい音が耳へと届いた。
「おい! 酒だ! 酒を持ってこい!」
父の狂気じみた叫び声。
「あなた……!? どうしてこんな時間に……仕事は……?」
困惑し、怯えた母の声が返ってくる。
「うるせえ! 黙れ! 鉱山の監督官の野郎が、俺を追い返しやがったんだよ!『酔っ払って仕事になるか、失せろ』だと!? ふざけやがって、誰のおかげで石炭が採れてると思ってやがるんだ! あのクズ野郎が!!」
ガシャーン、と皿が割れる大きな音が響いた。父が暴れているのだ。
「そんな……またお酒を飲んで行ったの……? お願いだから、仕事だけはちゃんと……」
「黙れと言ってるのが聞こえねえのか、このグズが! 俺が酒を飲むのを止めなかったお前が悪いんだろうが!! お前が俺から酒瓶を取り上げなかったからだ! 全部お前のせいだ!!」
「きゃあああっ!」
鈍い打撃音。それに続いて、母が床に激しく叩きつけられる音がした。
「ごめんなさい!……やめて、許して……!」
「誰に向かって口を利いてやがる! 飯もロクに作れねえ、金も持ってこねえ、挙句の果てに俺の仕事まで邪魔しやがって! 死ね! 死んじまえ!!」
バキッ、ドカッという嫌な音が何度も何度も繰り返される。母の悲痛な悲鳴は次第に小さくなり、弱々しいうめき声へと変わっていく。壁越しに伝わってくるその振動が、私の脳を麻痺させていくようだった。
私は壁に耳を当てたまま、硬直していた。
いつもなら、ここでじっと耐える。暴力が収まるのを、嵐が過ぎ去るのを待つ。それがこれまでの私の生き方だった。
私の中で、何かが音を立てて冷たく凍りついた。
恐怖で震えていた体の震えが、嘘のようにピタリと止まった。
涙は一滴も出なかった。ただ、頭の中が氷のように澄み渡り、恐ろしいほどの静寂が訪れたのだ。
助けを呼んでも無駄だ。衛兵は来ない。神もいない。
私が動かなければ、母は確実に殺される。そして、次は私の番だ。
私には、いつか使うかもしれない、けれど絶対に使いたくはないと思っていた「あれ」があった。あまりにも危険で、一歩間違えれば自分すら命を落とす恐ろしい代物。
私は踵を返し、家畜小屋へと走った。
息を切らしながら梯子を登り、二階の干し草の最奥へと手を突っ込む。干し草の山をかき分け、板を外し、厳重に保管していた、乾燥させた黒い植物の束。
――ベラドンナ。
別名、魅力草。深い紫色の花を咲かせるその植物は、根から葉、実のすべてに強力な神経毒を含んでいる。かつて馬車清掃の合間に、街の外縁の森で見つけて、密かに、見つからないように採取し、干し草の中で乾燥させておいたものだった。
医学書にはその毒性が僅かに記されていた。瞳孔を開く化粧品や薬(生薬)として用いられるが、多量に摂取した場合、副交感神経を強力に遮断し、激しい幻覚、錯乱、そして呼吸麻痺を引き起こして死に至らしめる、魔女の草とも。
「はぁ……はぁ……」
私は震える手で、あらかじめ用意していた麻布を取り出し、口と鼻を厳重に覆って後ろで強く縛った。少しでもその粉末を吸い込めば、私自身が命を落とす。
次に、家畜の糞尿処理用に置いてあった、イラクサの繊維で編まれた厚手の手袋を両手に嵌めた。手で触ることすら危険だからだ。
乾燥したベラドンナの葉と実を、小さな石のすり鉢に投入する。
すりこぎを握り締め、力任せに擂り潰していく。
ゴリゴリ、ゴリゴリと、乾いた音が小屋に響く。
焦る気持ちを抑えながら、とにかく細かく、粉末にするために手を動かし続けた。私の呼吸が麻布越しに荒くなる。すり鉢の中で、暗緑色の葉と乾燥した実が、刻一刻と死の粉末へと姿を変えていく。
完璧な粉末状になったベラドンナを、浅い木皿の上にたっぷりと開けた。
準備はできた。
私はすり鉢を置き、木皿を両手でしっかりと抱え込むと、家畜小屋を飛び出した。
家までの数分間が、永遠のように感じられた。イラクサの手袋越しに伝わる木の冷たさ、麻布に遮られて息苦しい呼吸、そして何より、これから自分が犯そうとしていることへの冷徹なまでの決意。恐怖はすでに消えていた。あったのは、錬金を行う学者のような、恐ろしいほどの冷静さだった。
家の前に辿り着く。
室内は、不気味なほど静まり返っていた。
あんなに響いていた怒号も、母の悲鳴も、途絶えている。
私は足音を殺し、そっとドアノブに手をかけた。軋む音を立てないよう、慎重に、ゆっくりとドアを開ける。
隙間から中を覗き込んだ瞬間、生臭い血の匂いが鼻を突いた。
土間に、母がぐったりと倒れていた。
顔面は腫れ上がり、口元と眉間から赤い血が溢れ出し、床に小さな血溜まりを作っている。ピクリとも動かない。生きているのかどうかすら、一目では分からなかった。
そして、その奥。
父は、部屋の中央にある古い木製の長椅子に深く背をもたれかけ、酒瓶を片手に持ったまま、満足そうに目を閉じて息を荒くしていた。暴れ疲れたのか、あるいは酔いが回ったのか、完全に無警戒な状態で寝転がっている。
母の流す血を見た瞬間、私の中で最後にとどまっていた理性が外れた。
私は音もなく室内に滑り込んだ。
長椅子で目を閉じている父の頭元へ、静かに、確実に近づいていく。父は私が入ってきたことにすら気づいていない。汚い寝息を立てているだけだ。
私は抱えていた木皿を掲げた。
そして、父の顔面、目と鼻と口が集中するその真っ只中を目掛け、木皿に盛られたベラドンナの粉末を、容赦なく大量に浴びせかけた。
緑がかった暗い粉塵が、爆発するように父の顔全体を包み込んだ。
「ごふっ……!? ぶっ、げほっ、ゴホッ!!」
息を吸い込んだ瞬間に大量の毒粉を気管と目、口内に吸い込んだ父は、弾かれたように跳ね起き、激しくむせ返った。
「がはっ! げほっ! な、なんだ……!? 目が、目がぁぁぁっ!?」
私は恐怖で後退る。そのまま後ずさり、壁際まで下がってその様子を観察した。
効果は劇的だった。ベラドンナに含まれる毒素が、粘膜を通して一瞬で父の体内に侵入したのだ。
父は両手で顔を覆い、狂ったように叫び始めた。粘膜を襲う猛烈な刺激と、即座に瞳孔が開き切ったことによる猛烈な眩しさ、そして視界の暗転。周囲が全く見えなくなったのか、父は完全なパニックに陥っていた。
「ごほっ! 息が……吸えねえ! がはっ、げほっ!」
激しく咳き込み、呼吸困難を起こした父は、長椅子から転げ落ち、地面の泥と血に塗れた床を狂ったようにかきむしった。爪が剥がれ、指先から血が滲み出ても、父は気づいていないようだった。
「出ろ! 出ていけ! 悪魔め! 俺を殺しに来たのか! 離れろ、離れろぉぉぉっ!!」
父の口から、常軌を逸した絶叫が上がり始めた。
強力な毒による、鮮明で恐ろしい幻覚とせん妄だろうか。父には今、周囲の空間に無数の悪魔や化け物が群がり、自分を切り刻もうとしているように見えているのだろう。誰もいない空中に向かって必死に拳を振り回し、見えない何かから逃れようと、壁に自ら激しく頭をぶつけた。
ドンッ! ドンッ! と肉と骨が砕けるような音が部屋に響く。父の額から血が吹き出したが、父は痛みすら感じていない様子で、さらに暴れ回った。
「熱い! 体が焼ける! 服を脱がせろ! 悪魔がまとわりついてる!!」
父は狂った手つきで自分の服を掴み、バリバリと引きちぎり始めた。ボロ布となった衣服を破り捨て、裸になった胸や腕の皮膚を、爪で血が噴き出すほど激しく掻きむしる。
「水……! 水をくれぇぇぇっ! 喉が燃える! 水だ、水をよこせぇぇぇっ!!」
副交感神経が完全に遮断され、唾液分泌が停止したことによる、地獄のような口渇。父は口から泡を吹きながら、水を求めて床を這い回り、狂ったように叫び続けた。その声はもはや人間のそれでは無く、屠殺場のアゴを砕かれた豚の悲鳴のようだった。
私は麻布で顔を覆ったまま、部屋の隅に静かに立ち、その光景を見つめていた。
恐怖は一切なかった。ただ、書物に書かれていた通りの症状が、目の前で正確に発現していく過程を観察している感覚だった。
狂乱の宴は、終焉を迎えつつあった。
父は突然、這い回るのをやめた。その場にバタリと倒れ込む。
「あ……が……あ……」
父の両目が、見開かれたままぐるりと裏返り、白目を剥いた。
次の瞬間、父の巨体が、まるで目に見えない糸で上下から強く引っ張られたかのように、ギュッと音を立てて弓なりに大きく反り返った。背中が宙に浮き、頭頂部と踵だけで身体を支える異様な姿勢。
「ガガガガガッ……! ギギギギッ……!」
歯を激しく喰いしばり、口から血の混ざった白い泡を吹き出しながら、全身が機械のように激しくガクガクと震え始める。筋肉が収縮しすぎ、骨が軋む音が聞こえるほどの猛烈な痙攣だった。
反り返った体が、何度も床に叩きつけられる。
ガクン、ガクン、と震える運動は次第に小さくなり、全身の関節が硬直していく。
そして――
ハァッ……と、父の口から最後のため息のような息が漏れた。
弓なりに反っていた体が、力なく床の上に崩れ落ちる。
静寂が、部屋を包み込んだ。
ぴくりとも動かない。胸の上下運動も完全に止まっている。見開かれたままの父の瞳孔は完全に開き切り、光を反射するだけの濁ったガラス玉のようになっていた。
凄惨な、あまりにも凄惨な死に様だった。地面を掻きむしった指先は潰れ、自分自身でつけた引っかき傷で全身は血塗れになり、恐怖に歪んだ顔で事切れている。
私はゆっくりと歩み寄り、父の鼻元に手をかざした。
息は、ない。
脈拍を確認するまでもない。
この家を、私の人生を、何年もの間暗い絶望で支配し続けていた暴君は、呆気なく、そして悲惨極まりない形で、ただの「肉の塊」へと変わっていた。
私はゆっくりと顔の麻布を外し、冷たい空気の満ちた部屋の中で、一つだけ深呼吸をした。
私が、殺した。
知識を武器にして、この男を殺したのだ。
後悔はなかった。ただ、冷え切った手のひらに、自分が生きるための最初の血を塗ったという、重く、決定的な事実だけが残っていた。
血と安酒と、ベラドンナの微かな青くさい匂いが混ざり合った部屋の中で、私は、まだ生きている。




