Ⅲ
朝の光は、家畜小屋の薄汚れた板壁の隙間から、細い帯となって斜めに差し込んでいた。空中に漂う粒子状の埃が、その光の中で静かに舞い踊っている。
私は重い瞼をゆっくりと開けた。全身の関節が軋み、特に昨夜冷水に晒し続けた両手の指先は、強ばって上手く曲がらない。干し草の匂いと、一階にいる老馬の生温かい吐息の匂いが鼻腔を突く。
昨夜、私は夜更かしをしてしまった。貴族の令嬢から譲り受けた『人体の構造と魔力回路の相関性について』の第一章を、ページの隅から隅まで何度も読み返していたからだ。頭の奥が微かに痺れるような心地よい疲労感があったが、心は不思議なほど澄み切っていた。
「……隠さなければ」
私は小さく呟くと、干し草をかき分け、昨日もらった三冊の本を、乾いた布で丁寧に包み、その隙間へと押し込む。上から厳重に干し草を被せた。
もし、これらの本が父に見つかればどうなるか、火を見るよりも明らかだ。彼は文字を読むことすら覚束ない男だが、分厚い皮表紙と羊皮紙の価値だけは理解できる。間違いなく街の質屋に持ち込まれ、安酒数本分のコインに姿を変えてしまうだろう。あるいは、泥酔した彼の気まぐれで、暖炉の薪代わりに燃やされてしまうかもしれない。
この本は、私の命の次に大切な宝物だ。何があっても守り抜かなければならない。
身支度といっても、着替える服などない。煤と泥で黒ずんだ粗末な麻のチュニックの埃を払い、くすんだ灰色の髪を乾いた紐で一つに結び直すだけだ。梯子を降り、老馬の鼻筋を撫でてから、私は家畜小屋を出た。
朝の空気は肌を刺すように冷たかった。母屋の扉を恐る恐る開けると、家の中は死んだように静まり返っていた。
足元には、昨夜叩きつけられて割れたと思われる土器の欠片が散乱している。部屋の隅の木製ベッドでは、父が太い腕を投げ出し、地響きのような高いびきをかいて眠りこけていた。鼻をつく強い安酒の饐えた匂い。
台所では、母が背中を丸めてしゃがみ込み、散らばった破片を拾い集めていた。その右頬は赤黒く大きく腫れ上がり、痛々しくひび割れている。
私が部屋に入ってきたことに気づくと、母はビクッと肩を揺らし、振り返った。彼女の目は光を失っており、そこには深い絶望と疲弊だけが漂っていた。
「……エララ」
母が掠れた声で私の名前を呼ぶ。私は返事をせず、ただじっと彼女を見つめた。
母は腫れた顔を歪めながら、ポケットから硬く小さくなったパンの耳をひとくず取り出し、私に差し出してきた。父に隠して残しておいてくれた、私へのささやかな朝食のつもりなのだろう。
「食べなさい……。今日も、仕事でしょう……?」
その声には、娘に対する罪悪感と、何もしてやれない無力感が滲み出ていた。
私は差し出されたパンの耳を受け取った。そして、一口だけ齧り、残りを母の手の中に押し戻した。
「お母さんが食べて。私には、チップで買った林檎の残りがあるから」
嘘だった。林檎は昨夜のうちにすべて食べてしまっていた。けれど、目の前で今にも倒れそうな母に、それを分け与える気にはなれなかった。彼女を哀れんでいないわけではない。だが、共倒れになるわけにはいかないのだ。
「ごめんね……ごめんね、エララ……」
母は泣き出しそうな顔でパンの耳を握りしめ、うつむいた。私はそれ以上何も言わず、背を向けて家を出た。
「ごめんね」という言葉ほど、この家において無意味な響きを持つ言葉はない。その言葉は父の拳を止めてはくれないし、お腹を満たしてくれることもない。申し訳なく思うくらいなら、なぜあの男と離れないのか。なぜあの男に立ち向かわないのか。幼い私には、母の弱さが理解できず、同時に激しい苛立ちを覚える対象でもあった。
街に出ると、朝の薄もやの中に石炭の煙が立ち込め、低層の労働者たちが重い足取りで炭鉱へと向かって歩いていた。彼らの顔は一様に黒く汚れ、瞳からは生気が失われている。彼らの未来は、私の未来でもあるのかもしれない。このままこの街で、馬車の泥を洗い続け、あるいは父のように炭鉱の奥底で命を削り、ただ死んでいくのを待つだけの人生。
(……嫌だ)
胸の奥で、小さく、しかし確固たる拒絶の声が上がる。
私はあんな風にはならない。絶対に、この泥の底から抜け出して見せる。そのために、私は本を読むのだ。知識を蓄え、誰も奪うことのできない力を手に入れるのだ。
馬車清掃所に到着すると、すでに数人の清掃員が集まっていた。私と同じような身寄りのない子供や、片腕を事故で失った元炭鉱夫たちだ。
「おい、エララ! 遅いぞ! さっさと桶に水を汲んでこい!」
清掃所の監督官である粗暴な男、ガレットが怒鳴り散らす。彼は自分が気に入らない作業員には平気で暴力を振るい、給料を撥ねるような底意地の悪い男だった。
「はい」
私は短く答え、大きな木桶を両手に持って井戸へと向かった。冷たい井戸水を並々汲み上げ、それを清掃場まで何度も往復して運ぶ。それだけで腕の筋肉が悲鳴を上げ、呼吸が乱れる。
仕事が始まった。
今日も今日とて、冷水とブラッシングの繰り返しだ。一区画に並べられた何台もの馬車を、もくもくと磨いていく。木製の車体、鉄製の車輪、真鍮の装飾。車輪のスポークにこびりついた乾いた泥を、硬いタワシで削り落とす。
作業を進めながら、私の頭の中では昨夜読んだ書物の記述が反芻されていた。
石炭の焦げた匂いと朝靄に包まれていた。まだ人通りもまばらな大通りで、私は冷水を入れた木桶と、使い古した硬いブラシを用意し続ける。水に手を浸した瞬間、氷の針で刺されたような激痛が走るが、顔色一つ変えずに次の馬車に取り付いた。
真鍮の金具を磨き、車輪にこびりついた昨夜の泥を削り落とす。
「……心臓から伸びる魔力は、動脈に沿って全身へ……」
頭の中で、昨夜覚えた書物達の記述を反芻していた。手を動かしながら知識を思い返すことで、指先の感覚が麻痺していく苦痛から気を逸らすことができる。私は作業に没頭していた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。太陽が少し上がり、街が騒がしくなり始めた頃だった。
ブラシで豪奢な馬車の車輪をゴシゴシと磨いていた私の視界の隅を、見覚えのある大きな影が横切った。
ボロ切れのような上着に、薄汚れたズボン。大柄で、少し右足をひきずるような歩き方。
――父だ。
私は思わずブラシを動かす手を止めた。
おかしい。この時間は、彼が地下の鉱山に入っているはずの時間だ。炭鉱夫の朝は早く、日の出前には坑道に入り、日暮れまで地上に出てくることはない。一度入れば途中で帰ることなど許されないはずだった。それなのに、父はふらつくような千鳥足で、一直線に我が家のある貧民街の方角へと歩いていた。
嫌な予感が、背筋を氷の刃で撫でられたように走り抜ける。
胸の奥が不気味に波打ち、息が苦しくなる。私は手に持っていたブラシを木桶に放り投げ、雇い主の視線を盗んで、吸い寄せられるように父の後を追いかけた。
「おい、エララ! どこへ行く、仕事中だぞ!」
背後で管理人の怒鳴り声が聞こえたが、振り返る余裕などなかった。私は物陰から物陰へと移動しながら、父の背中を追う。
しかし、角を曲がったところで、ふと父が足を止めて振り返った。血走った赤い目が、路地の影に潜もうとした私を捕らえる。
「あぁん!? なんだお前は、なにコソコソついてきてやがる!」
父の怒号が路地に響き渡る。口から飛ぶ唾の飛沫と、遠くまで漂う強烈な酒の臭い。昼間だというのに、彼は完全に酔っ払っていた。その目が私を睨みつける。過去に殴られた記憶が脳裏をよぎり、膝が笑い出しそうになる。
「さっさと仕事に戻れ、役立たずのガキが! ウロウロしてんじゃねえ!」
父は地面に唾を吐き捨てると、再び背を向けて歩き出した。
私はその場に立ちすくみ、呼吸を整えた。恐怖で心臓が早鐘のように打っている。引き返すべきだ、いつものように何も見なかったことにして、馬車の清掃に戻るべきだ。そう頭の中で警鐘が鳴り響く。だが、足は勝手に動き出していた。
怒鳴られたことを無視し、私は気配を殺して、一定の距離を保ちながら父の後を追った。父は酒で感覚が麻痺しているのか、私が後ろをついてきていることにもはや気づいていないようだった。




