エスクリトーラ
ドアの向こうにいたのは――私が想像していたいかなる人物像とも、まるでかけ離れた女性だった。
厳しい顔つきの年配の婦人でもなければ、分厚い眼鏡をかけた冷徹な学者でもない。そこに立っていたのは、年齢にしておそらく二十歳そこそこ。私にとっては「お姉さん」と呼ぶのが相応しいほどの、若く美しい女性だった。
しかし、彼女の美しさは、私がかつて貧民街から見上げていた貴族の令嬢たちのような、華美で暴力的なまでの煌びやかさとは違った。
深い藍色を基調とした、過度な装飾のない上品なドレス。滑らかな銀糸のような髪は簡素にまとめられ、青白いほどに透き通る肌が、彼女の持つ静けさを際立たせている。その柔らかい物腰と、切れ長で知的な瞳の奥に時折垣間見える、どこか遠くを見るような物憂げな表情。
それは、莫大な知識の海を一人で漂ってきた者特有の、孤独と静謐さを纏った姿だった。
「……あなたが、エララね」
鈴を転がすような、それでいて芯のある落ち着いた声が部屋に響いた。
私は両手で椅子の背を強く握り締めたまま、瞬きすら忘れて彼女を見つめ返していた。
「遠いところを、よくおいでくださいました。エスクリトーラ様」
院長先生が微笑みながら彼女を部屋の中央へと招き入れ、私の背中にそっと手を添えた。
「さあエララ、ご挨拶を」
「あ……えと……初めまして。エララと、申します……」
私はカチコチに固まった体をどうにか動かし、ぎこちないお辞儀をした。心臓がうるさいほどに鳴っている。
「初めまして、エララ。私はエスクリトーラよ。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。座ってちょうだい」
彼女はそう言って、私にソファへ座るよう促し、自らも向かいのソファへと優雅に腰を下ろした。
院長先生は「では、私はお茶のお代わりを用意してまいりますので、どうぞごゆっくり」と気を利かせ、静かに部屋を退出していった。
パタン、と重厚なドアが閉まる。
部屋には、私と、帝国からやってきた若き書籍商であるエスクリトーラの二人きりになった。
私は膝の上で両手をきつく組み、視線を彷徨わせた。
正直なところ、私の心の中にはまだ複雑な感情が渦巻いていた。彼女のその上質で汚れのない衣服や、洗練された身のこなしを見ると、どうしても過去のトラウマがフラッシュバックしてしまうのだ。
かつて泥まみれで馬車を磨いていた私に、「汚い」「臭い」と吐き捨てるように笑い、泥水を跳ね上げて走り去っていった、同年代の貴族の令嬢たち。美しく着飾った人間は、私たちのような這いつくばって生きる人間を同じ生き物だとは見ていない。その残酷な事実が、骨の髄まで染み込んでいる。
この人も、もしかしたら。今は猫を被っているだけで、少しでも私が無知を晒せば、軽蔑の眼差しを向けてくるのではないか。
私がそんな警戒心で身をこわばらせていると、エスクリトーラはテーブルの上のカモミールティーを一口含み、ふう、と小さく息を吐いてから口を開いた。
「驚いた顔をしているわね。……もっと、白髪の気難しい老婆でも来ると思っていた?」
図星を突かれ、私はビクッと肩を揺らした。
「い、いえ……ただ、その……」
「隠さなくてもいいわ。私の手紙の文面、少し堅苦しすぎたものね」
彼女はくすりと小さく笑うと、組んだ手の上に顎を乗せ、その知的な瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言うわ、エララ。私があなたを養女として迎え入れたいと思ったのは、あなたの噂を聞いて、昔の自分自身の面影を重ねてしまったからなの」
「昔の、自分……?」
「ええ」
エスクリトーラは少しだけ視線を落とし、懐かしむように語り始めた。
「私はね、生まれながらの令嬢でも、恵まれた貴族でもないわ。私自身も、あなたと同じように、幼い頃に両親を亡くした孤児だったの」
「え……?」
私は思いがけない言葉に、目を見開いた。この、どこからどう見ても高貴で教養に溢れた女性が、私と同じ孤児だったというのか。
「私が七歳の時、故郷の孤児院で飢えて死にかけていたところを拾ってくれたのが、先代の書籍商であった私の養父だった。彼は私に、ありとあらゆる本を与え、文字を教え、世界がいかに広くて美しいかを教えてくれたわ。彼が与えてくれた『知識』があったからこそ、私は人間としての尊厳を取り戻し、今の私になることができたの」
彼女の声には、亡き養父への深い敬愛と、切ない喪失感が滲んでいた。
「数年前にその父が亡くなってから、私はたった一人で父の残した膨大な書物と事業を切り盛りしてきた。父の遺志を守ること、それが私の生き甲斐だった。……でもね、ある時ふと思ったの。私がこの知識の海を一人で守り続けて、一体何になるのだろうって。この素晴らしい本たちを、ただ倉庫で眠らせておくのはあまりにも勿体ない」
エスクリトーラは顔を上げ、再び私に視線を合わせた。その目には、強い光が宿っていた。
「そんな時に、孤児院を支援しているロバート・チェネス氏から、ルークスの孤児院に、類稀なる知識欲を持った賢い少女がいるという話を聞いたの。どんな環境に置かれても、泥にまみれても、決して学ぶことを諦めようとしない少女がいると。……それを聞いた時、私は決めたの。あの日の私を救ってくれた父のように、今度は私が、同じような境遇の子供に温かい環境と本を、そして生き抜くための知識を授けたいと」
彼女の言葉は、私の胸の奥に、温かく、そして深く沁み込んでいった。
良い意味で、完全に裏切られた。
私が想像していたような、高慢な貴族でも、冷徹な学者でもなかった。彼女は、私と同じだったのだ。過酷な運命に翻弄され、どん底から知識だけを頼りに這い上がってきた、強くて孤独な女性。
私自身が家畜小屋の二階で夢見ていた「知識を武器にして生き抜く」という未来を、彼女はすでに体現しているのだ。境遇がまったく同じとは言わないまでも、過酷な人生を送ってきた彼女の背中に、私は強烈に惹かれていくのを感じた。
「エララ」
エスクリトーラは立ち上がり、私の隣に座ると、その白くて細い手で私の手をそっと包み込んだ。
「私はまだ若輩者で、母親と呼ぶには頼りないかもしれない。だから……私を『母』と思わずに、共に知識を探求する『友人』として、側にいてみない?」
その優しくて誠実な言葉に、私の胸の奥が熱くなった。
この人なら、信じられる。この人からなら、世界のすべてを学びたい。心からそう思えた。
「……はい。私でよければ、ぜひ……」
私は感極まって頷きかけた。
――しかし、その瞬間、私の脳裏に、夜明け前の庭で精一杯の作り笑いを浮かべていたルカの顔がフラッシュバックした。
『僕の寂しさのために、エララのその素晴らしいチャンスを潰してしまう方が、ずっとずっと嫌なことなんだ』
私のために身を引き、背中を押してくれた少年。
私と同じように本を愛し、知識に飢え、地図を見てはまだ見ぬ世界に目を輝かせていたルカ。
彼を置いて、私だけがこの光り輝く未来へ行くのか?
彼だけを、この高い壁に囲まれた孤児院に残して?
私は葛藤に苛まれた……。




