旅立ち
気づけば、私は自分でも信じられないような言葉を口にしていた。
「エスクリトーラ様。あの……一つだけ、お願いがあります」
「お願い? 何かしら。欲しい本があるの?」
私はギュッと唇を噛み締め、意を決して顔を上げた。
「私の……友人である男の子も、一緒に養子にしていただくことはできませんか?」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、ぴたりと沈黙が降りた。
私は自分の発言の図々しさに、血の気が引くのを感じた。孤児一人の養育費だけでも莫大な金がかかるはずだ。それを、自分の友人も一緒に引き取ってくれだなんて、いくら何でも常識外れすぎる。怒られて、この話自体が白紙になってもおかしくない大失言だった。
エスクリトーラさんは目を丸くして私を見つめたまま、数秒間固まっていた。
やがて。
「ふ、ふふ……あはははっ」
彼女は耐えきれないように口元を押さえ、軽やかな声を上げて笑い出した。
「エスクリトーラ様……?」
「ご、ごめんなさい。まさか……まさか、自分のことだけでなく、友人の未来まで背負おうとするなんて。あなたが賢い子だとは聞いていたけれど、ここまで気高くて素晴らしい心を持った子だとは、少し予想外で」
エスクリトーラさんは涙ぐむほど笑った後、優しく私の頬を撫でた。
「もちろん、構わないわ。私の家は広すぎるし、本は山のようにあるから、子供が二人増えたくらいどうってことないもの」
「ほ、本当ですか!?」
私はソファから身を乗り出すようにして聞き返した。
「ええ、本当よ。……でもね、エララ。一つだけ確認させて」
エスクリトーラは少しだけ真剣な表情に戻り、私に問いかけた。
「その友人の子は、いいの? これから先、私の家に来れば、毎日が本と学問に囲まれる生活になるわ。もしその子が本を好きでなかったり、ただあなたの温情だけでついて来るのだとしたら、その子にとって、私の家はとても息苦しくて辛い場所に変わってしまうわよ」
「それは、絶対に心配ありません!」
私は即座に、力強く言い切った。
「彼も……ルカも、私と同じように、本と知識が大好きなんです。私なんかよりずっと、古い詩集や星のことに詳しくて、いつも一緒に地図を広げて世界の話をしているんです。彼なら、絶対にエスクリトーラ様の環境を無駄にしたりしません!」
熱を込めて語る私を見て、エスクリトーラさんは安心したように微笑み、「それなら、何も問題はないわね。その子に興味が湧いたわ。是非一緒に来てもらいたいわね」と頷いてくれた。
しかし、エスクリトーラさんからの承諾を得たにもかかわらず、私の胸の奥には、どす黒い不安が渦巻き始めていた。
(ルカは……どう思うだろう)
エスクリトーラさんが快諾してくれたとはいえ、これは完全に私の独断だ。
ルカの意志など一切確認していない。彼にとって、私に同情されて養子に「ついていく」という形になることは、ひどくプライドを傷つけることなのではないか?
私がかつて泥まみれだった頃、一番嫌だったのは「哀れみ」を向けられることだった。施しを受けることは、自分が無力であると思い知らされることと同義だったからだ。
もしルカが、私のこの行動を「余計なお節介だ」「一人で勝手に同情して哀れむな」と受け取ったら? 今まで見たこともないような恐ろしい顔で、私を拒絶したら?
これは結局のところ、私が「ルカと離れたくない」という寂しさから生まれた、身勝手なエゴでしかないのではないか。
不安で、吐き気がしてきた。せっかく紡いだ彼との絆を、私のこの手で粉々に壊してしまうかもしれない。
「……エスクリトーラ様。私、一人で、彼にこの話をしに行ってきてもよろしいですか?」
私は震える声を隠しながら尋ねた。
「ええ、もちろん。私は院長先生と今後の手続きについて少しお話ししてから、表の馬車で待っているわ。彼とよく話し合って……決まったら、馬車に来てちょうだい」
エスクリトーラの温かい言葉に背中を押され、私は院長室を飛び出した。
廊下を走り抜け、中庭へと向かう。
ルカがいるとすれば、あそこしかない。私たちのお気に入りの場所、あの大きな樫の木の下だ。
息を切らして中庭の入り口まで来た私は、樫の木の根元に座り込んでいる小さな背中を見つけた。
「ルカ――」
私が声をかけようとして近づいた時、ピタリと足が止まった。
ルカは、いつも私と座っていたベンチの端で膝を抱え、うつむいていた。
彼の肩が、小刻みに震えている。時折、ヒック、という小さな嗚咽が初夏の風に乗って聞こえてきた。
朝、あんなにも明るく「いってらっしゃい」と笑ってくれた彼が。私のチャンスを潰す方が嫌だと、立派なことを言ってくれた彼が。
私が面会をしている間、ずっと一人で、ここで泣いていたのだ。
その事実が、私の胸をナイフで抉るように痛めつけた。
同時に、私の心の中にあった「プライドを傷つけてしまうかもしれない」という恐れは、完全に吹き飛んでいた。彼をここで一人ぼっちにさせることの方が、何万倍も残酷なことだ。
私は足音を立てて、ゆっくりと彼に近づいた。
「ルカ」
私の声に弾かれたように、ルカはビクッと肩を跳ね上がらせた。
彼は慌ててゴシゴシと乱暴に乱暴に袖で目元を擦り、無理やりに口角を上げて振り向いた。
「エ、エララ! おかえり! 面会、終わったの?」
彼の声はひどく上擦り、目元は真っ赤に腫れ上がっていた。しかし彼は、何も言わずにいつものように私を迎え入れようとしていた。
私は何も言わず、彼の隣に腰を下ろした。
「……うん。終わったわ。養子縁組、正式に決まったの」
私は前を見たまま、静かに告げた。
「そっか! よかった、本当によかったね、エララ!」
ルカは必死に明るい声を出そうとしていたが、その声の端々は微かに震えていた。
「どんな人だった? 良い人そうだった?」
「ええ。とても良い人だったわ。私達と同じ孤児だったの、本のことを本当に愛している、優しくて賢い女性だった。それにね……」
私はそこで言葉を区切り、ゆっくりとルカの方へ顔を向けた。
「ルカにも、ぜひ一緒に来てほしいって、言っていたわ」
「え……?」
ルカは目を見開き、ぽかんと口を開けた。赤い目から、涙の粒が一つこぼれ落ちる。
「ほ、本当……!?」
「本当よ」
私は彼に向かって、今までで一番の笑顔を作って見せた。
「嘘だ。だって、エララ一人が養子になる話だったじゃないか。……もしかして、エララが無理言って、頼み込んでくれたんじゃ……」
「そんなことないわ」
私は首を横に振り続ける。
「私が毎日一緒に本を読んでいる友達がいるって話をしたら、エスクリトーラさんの方から『ぜひ来て欲しい』って言ってくれたの。彼女、ルカの持つ詩の知識や、天文学の才能にすごく興味を持っていたわ。だから、私の無理な頼みじゃなくて、ルカ自身の力で選ばれたのよ」
それを聞いた瞬間、ルカの瞳に、太陽の光を反射したような眩い輝きが宿った。
「僕も……一緒に行って、いいの? エララと一緒に、たくさんの本を読んで、世界を見られるの……?」
「ええ! もちろんよ!」
「やった……! やったああっ!」
ルカは無邪気に両手を突き上げ、私の手を取ってブンブンと振り回した。彼の顔からは先ほどまでの悲壮感は消え去り、純粋な歓喜だけが爆発していた。
その姿を見て、私は心の底からホッと息を吐き出した。
「……よ、よかった。正直言うとね、私、ルカに怒られるんじゃないかって、すごく不安だったの」
私がぽつりと本音をこぼすと、ルカは手を振るのをやめて首を傾げた。
「怒る? どうして?」
「だって、私がルカを巻き込むことで、あなたのプライドを傷つけるんじゃないかって。哀れまれているって、余計なお節介だって、嫌われるんじゃないかって……ずっと、怖かったの」
私の情けない告白を聞いて、ルカは少しだけ目を細め、ひどく大人びた、優しい表情になった。
「エララがそうやって心配してくれたこと、すごくわかるよ。そして、僕のことをそこまで気遣ってくれたことが、本当に嬉しいんだ」
ルカは私の手をしっかりと握り直した。
「でもね、エララ。僕にとって一番辛いことは、プライドが傷つくことでも、誰かに助けられることでもないんだ。……僕にとって一番辛いのは、『世界をこの目で見られないこと』なんだよ」
ルカは、私たちがいつも地図を広げていた樫の木の根元を見つめ、そして、壁の向こうに広がる青空へと視線を向けた。
「本の中で読むだけじゃなくて、実際にこの世界を自分の足で歩いて、見ていくことが、僕の夢だから。だから、エララがその扉を開けてくれたこと、に、感謝しかないよ」
彼のまっすぐな言葉に、私の目頭も熱くなった。
私たちは、お互いの弱さを補い合い、そしてお互いの夢を共有できる、本当の同志になれたのだ。
「……行きましょう、ルカ。エスクリトーラさんの馬車が待ってるわ」
「うん!」
私たちは立ち上がり、手をつないで、孤児院の門へと向かって走り出した。
背後で、樫の木の葉が風に揺れて、サラサラと心地よい音を立てていた。
門を抜けると、そこにはゼリュキア帝国の紋章が入った立派な黒塗りの馬車が停まっており、窓からエスクリトーラさんが優しく微笑んでこちらに手を振っていた。
ルークスの街を包む空気はまだ重苦しいかもしれない。私たちの行く先には、ゼリュキア帝国という未知で恐ろしい世界が広がっている。
けれど、もう何も怖くなかった。
知識という武器を与えてくれる人がいて、そして、隣には夢を共有できる最高の友がいる。私には実家と呼べる、誇らしい場所まである。
これから始まる新たな旅立ちに、私とルカは、胸が破裂しそうなほどに心を高鳴らせながら、光の射す方へと歩みを進めていった。




