惜別の情
夜明け前の空気は、肺の奥がひんやりと粟立つほどに冷たかった。
孤児院の大部屋には、何十人もの子供たちの規則正しい寝息だけが満ちている。私は薄い毛布をそっと払い除け、誰の眠りも妨げないように、足音を殺してベッドから抜け出した。
窓の外はまだ深い藍色に沈んでおり、鳥たちのさえずりさえ聞こえない。昨夜、院長先生の胸で声を上げて泣いたおかげだろうか。あれほど私の心を支配していた鉛のような重圧と恐怖は嘘のように消え去り、代わりに、氷の張った湖面のように研ぎ澄まされた静寂が私の中に満ちていた。
私は部屋の隅にある、古く少し欠けた姿見の前に立った。
そこには、十二歳の少女の姿が映っている。半年前、馬車の車輪を磨いていた頃の、煤と泥に塗れ、栄養失調で頬がこけ、死んだ魚のような目をしていた少女はもうどこにもいなかった。
孤児院での規則正しい生活と温かい食事は、私の血色を取り戻させ、清潔な白いワンピースは、私を年相応の子供らしく見せている。そして何より、瞳の奥に宿る光が違った。絶望に塗りつぶされていたかつての目ではなく、今は確かな意思と、未来を見据えるための光が宿っている。
「……よし」
私は誰に聞こえるでもない小さな声で呟き、洗面台に置かれていたヘアゴムを手に取った。
それを口の端にくわえ、両手を後頭部へと回す。少し伸びてきた髪を指の腹で梳きながら、しっかりと一つに束ねていく。襟足の後れ毛をまとめ上げ、くわえていたゴムを取って、きつく、解けないように結び上げた。
首筋に冷たい朝の空気が触れる。気合いを入れるための、私なりの儀式だった。もう、迷わない。今日という日を、私は私の意志で戦い抜くのだ。
身支度を整えた私は、そのまま部屋を横切り、窓際に配置された一つのベッドへと向かった。
そこには、タオルケットにくるまり、少し口を開けて無防備な寝顔を晒しているルカがいた。亜麻色のくせっ毛が枕に散らばり、規則正しく胸が上下している。
私は彼の枕元にしゃがみ込み、その華奢な肩にそっと手を置いた。
「……ルカ。ルカ、起きて」
ささやくような声で呼びかけ、軽く肩を揺らす。
ルカは「んぅ……」と小さな寝息を漏らし、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。焦点の合わないヘーゼル色の瞳が、薄暗闇の中で私の顔を捉える。
「……エララ? どうしたの、寝過ごしちゃった?……」
「起こしてごめんなさい。まだ起床時間じゃないの。でも、どうしても今、ルカに聞いてほしい大事な話があるの。……一緒に来てくれる?」
私の真剣な声色に何かを感じ取ったのか、ルカは嫌がる様子を一切見せず、こくりと頷いた。彼は目を擦りながらベッドから抜け出し、上着を羽織ると、無言で私の後について歩き出した。
私たちは足音を忍ばせながら廊下を抜け、外の庭へと出た。
東の空の地平線あたりが、ほんのりと薄紫に白み始めている。しかし太陽はまだ顔を出しておらず、庭全体は夜明け前の青白い薄明かりに包まれていた。朝露に濡れた芝生が、ひんやりとした独特の青臭い匂いを放っている。
私たちは、いつも二人で本を読んでいたあの樫の木の根元までやってきた。
冷たい木製ベンチには座らず、私たちは向かい合うようにして、少し湿った木の根元の草の上に腰を下ろした。
「大事な話って……何? エララ、なんだか少し、雰囲気が違うよ」
ルカは心配そうに私の顔を覗き込んだ。彼の大きな瞳には、純粋な気遣いだけが浮かんでいる。昨日、私に不器用な手つきで青い花を贈ってくれた、優しくて、少し臆病な少年。
私は膝の上で両手を強く握り締め、深く息を吸い込んだ。
「ルカ。昨日、私が院長先生に呼び出された理由のことなんだけど……」
私は、昨日院長室で告げられたことを、一つ残らず彼に打ち明けた。
ゼリュキア帝国のアドララという湾岸都市で書籍商を営む、エスクリトーラという女性から養子縁組の申し出があったこと。彼女が私の知識欲を見込んでおり、高度な教育を受けさせてくれる環境が用意されていること。
そして――今日、彼女が直接この孤児院へ、私に会いに来るということ。
私が話し終えるまで、ルカは一言も発しなかった。
彼の表情は、最初は驚きに見開かれ、次に状況を理解しようと眉をひそめ、そして最後には、少しだけ寂しそうに俯いてしまった。
沈黙が落ちる。遠くで、朝を告げる鳥が甲高く鳴いた。
「……ルカ。怒って、いる……?」
私は恐る恐る尋ねた。彼を置いて、私だけが恵まれた環境へ旅立とうとしている。裏切られたと感じても仕方がない。彼が怒って私を責めたとしても、私は甘んじて受け入れるつもりだった。
しかし、ルカはゆっくりと顔を上げると、ふるふると首を横に振った。
「ううん。怒ってなんかないよ。……すごいじゃないか、エララ! それって、エララにとって最高に素晴らしいチャンスだよ!」
彼の声は少し震えていたが、その顔には精一杯の笑顔が浮かんでいた。
「でも、ルカ……私は……」
「僕ね、少しだけ考えたんだ」
ルカは私の言葉を遮り、自分の膝を抱え込むようにして、ポツリポツリと語り始めた。
「もし僕が、他の子たちみたいに本をあまり読んでいなくて、この孤児院の壁の中の世界しか知らなかったら……きっと、怒って泣き喚いていたと思う。『僕を置いていくな』って、『裏切り者』だって、エララにひどい言葉をぶつけていたかもしれない」
彼は視線を落とし、足元の朝露に濡れた草を指先でそっと撫でた。
「でも、僕たちは本を読んだじゃないか。世界がどれほど広くて、知識を得ることがどれほど素晴らしいことか、一緒に歩み、学んできた。そして……そういうチャンスが、どれほど貴重なものかっていうことを、知っている」
ルカが顔を上げる。その瞳には、もう迷いや子供っぽい独占欲はなかった。そこにあるのは、同じ知識を愛する同志としての、深い理解と尊敬だった。
「エララに会えなくなるのは、すごく……すごく寂しいよ。昨日の夜、君が辛そうな顔をして戻ってきた時から、もしかしたらいなくなっちゃうのかなって、少し覚悟はしてたんだ。……でもね、僕の寂しさのために、エララのその素晴らしいチャンスを潰してしまう方が、僕にとっては、ずっと、ずっと嫌なことなんだ」
「ルカ……」
「だから、いってらっしゃい、エララ。君なら絶対に大丈夫だよ。あの難しい歴史書だってすらすら読めるんだから、帝国の書籍商の人だって、絶対に君のことを気に入るよ!」
彼の言葉が、私の胸の奥深くに真っ直ぐに突き刺さった。
彼は自分自身の寂しさを押し殺して、私の背中を押してくれている。私が知識を武器にして生き抜こうとしていることを、誰よりも理解し、応援してくれているのだ。
こんなにも純粋で、温かく、気高い心を持った少年が、私の人生に存在してくれたこと。その奇跡に、私は言葉を失っていた。
「……ありがとう、ルカ。本当に……ありがとうっ!」
私はこらえきれず、草の上に膝をついたまま身を乗り出し、ルカの華奢な体に勢いよく抱きついた。
「わっ!? エ、エララ!?」
「忘れない。絶対に、ルカのこと忘れないから。あなたが教えてくれた詩も、星の名前も、二人で見た地図のことも……全部、私の宝物よ!」
私が首筋に顔を埋めて強く抱きしめると、ルカはすっかりパニックになり、顔を耳まで真っ赤にして両手を空中でバタバタと泳がせた。
「あ、あああ……っ! ちょ、ちょっとエララ、誰かに見られたら……!」
「見られたっていいわ! からかいたい奴には、からかわせておけばいいのよ!」
「も、もう! 君って本当に、堂々としてるっていうか……っ」
気恥ずかしさのあまり身をよじりながらも、やがてルカは観念したように、私の背中にそっと腕を回してくれた。彼の体からは、石鹸の匂いと、日向の匂いがした。
「……今日の午後、上手くいくように、ずっと祈ってるからね」
「ええ。私、頑張るわ」
私は体を離し、彼のまっすぐな瞳を見つめ返した。
「向こうに着いたら、絶対に手紙を書くわ。帝国にどんな本があったか、どんな景色だったか、全部ルカに教えてあげる。だから、あなたも返事を書いてね」
「うん。約束する。僕も、こっちでいっぱい本を読んで、エララが知らない知識を蓄えておくよ」
私たちは、夜が完全に明け、太陽の光が庭の芝生を黄金色に染め上げるまで、そうして笑い合っていた。この孤児院で過ごす最後の、そして最高の朝だった。




