第五十六話
ここ春日山城では
金崎は薄暗い灯りの下、自室で一人静かに盃を傾けていた。外は風が唸り、障子の隙間から冷気が忍び込む。酒の香りが漂う中、突然、廊下を駆ける足音が響いた。
「殿――‼」
襖が勢いよく開かれ、家臣が息を切らして飛び込んできた。
金崎は眉一つ動かさず、盃を置いて静かに問う。
「どうなされましたか?」
「たくさんの国衆が…城に参っております!」
「わかりました。こちらにお通しください」
数刻も経たぬうちに、国衆たちが雪崩のように部屋へ押し入り、顔には焦りと絶望が滲んでいた。
「不動信一に城を落とされました!」
「我も同じく…!」
「我も…!」
次々と声が上がり、部屋の空気が一気に張り詰める。金崎は一拍置き、静かに立ち上がった。
「わかりました。私に任せてください」
その言葉に、家臣の一人が顔を青ざめさせて叫ぶ。
「お待ちくだされ、殿‼ お断りくだされ‼ 不動の騎馬隊は強すぎます!我らに犠牲が出るのは必至です‼」
家臣達が戦を恐れるのも、無理はなかった。
不動信一――その名は、五百年にわたり甲斐の国を治めてきた名門・不動家の当主として、日ノ本にその威名を轟かせている。彼が率いる騎馬隊は、まるで雷鳴のように戦場を駆け抜け、敵陣を一瞬で蹂躙する。人々は畏敬を込めてこう呼ぶ――「日ノ本一の騎馬隊」
信一は四十代後半にして、まるで筋肉で編まれた鎧を纏っているかのような体躯を持ち、その一挙手一投足には鍛え抜かれた武術の冴えが宿る。剣を握れば風を裂き、馬に跨れば地を揺るがす。戦場ではまさに鬼神の如き存在であり、彼の姿を見ただけで兵の士気が崩れると言われている。
その不動信一が、今まさに金崎家の前に立ちはだかろうとしている。
家臣たちの顔に浮かぶのは、恐怖ではなく、絶望だった。
沈黙が落ちる。金崎は家臣の目を真っ直ぐに見据え、低く、しかし力強く言い放つ。
「助けを求められたら必ず助ける。それがこの家の家風ではないですか」
「しかし…!今までの敵とは格が違いすぎます‼」
「金崎家は義を重んじる家。どんな強敵であろうと、助けを求められたら戦わねばならぬ」
その声には揺るぎない決意が宿っていた。家臣達は言葉を失い、ただ金崎の背に武士の覚悟を見た。
朝もやが立ち込める館山城の城門前。士郎は竹箒を手に、黙々と掃除をしていた。空気は澄み、鳥のさえずりが遠くから聞こえる。
その時、蹄の音が近づき、豪華な馬に跨った男が現れた。
「よっ、来たよ!士郎!」
士郎は目を見開き、驚きと喜びが入り混じった声を上げる。
「おっ?遼太?遼太‼」
遼太は笑顔を浮かべ、馬から降りると
「頼みごとがあって来たんだ」
「そうかぁ~しかし、遠かったろう~」
遼太はわざと偉そうに士郎の肩をポンポンと叩いて
「ホント遠かったわ~しっかりもてなせよ」
士郎はわざと丁寧な口調で返す。
「今から引き返して頂いても構いませんが」
二人は笑い合い、空気が一気に和らいだ。
士郎は遼太を連れて、静かな廊下を進んでいた。畳の上に響く足音が、緊張と期待を物語る。経丸の部屋の前に立ち、深く一礼して声をかける。
「経丸様、我が友・遼太が天羽家に頼みごとがあるとのことです」
襖が音もなくスッと開き、経丸が静かに姿を現す。凛とした佇まいに、遼太も思わず背筋を伸ばす。
「遼太さん、遠いところをわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
経丸は丁寧に頭を下げ、二人を部屋へと招き入れた。
部屋の中は香の香りがほのかに漂い、静謐な空気が流れている。座が整った瞬間、襖の向こうから足音が近づき、妹・凛が湯気の立つ茶器を手に現れた。
「お茶をお持ちしました」
その気配りに、士郎が思わず声を上げる。
「おっ!気が利くな、凛‼」
経丸が凛におじきをしながら
「凛ちゃん、ありがとうございます」
遼太は笑顔で
「おっ、ありがとう!士郎と違ってめちゃくちゃ気が利くやん」
士郎は得意げに胸を張り、遼太に向かってニコニコしながら
「だろう~?めっちゃ気が利くだろ」
そう言いながら、凛の肩に腕を回す。
「自慢の妹‼」
凛は顔を赤らめながら、兄の腕を勢いよく振り払った。
「兄貴やめろ‼ 恥ずかしいわ‼」
そのやり取りに、部屋の空気が一気に和み、皆が笑い声を上げた。
だが、遼太の表情がふと引き締まる。場の空気を察した経丸も、静かに姿勢を正す。
「経丸さん、今度金崎家は不動家と戦をすることになりました。援軍のお願いに参りました」
経丸の眉がわずかに動く。
「不動家…あの甲斐の国の不動家ですか?」
遼太は真っすぐ経丸の目を見て
「はい、その不動家です」
士郎は唇を震わせながら、声を絞り出す。
「日の本一最強の騎馬隊、不動家と戦うなんて…ヤバすぎだろ‼」
士郎の声が部屋に響き渡った。凛とした空気が一瞬揺らぎ、皆の視線が彼に集まる。遼太は眉をひそめ、経丸は静かに湯飲みに口をつけた。
「戦はいつやる予定ですか?」
その言葉が落ちた瞬間、士郎が立ち上がり叫んだ。
「えっ!経丸さん援軍を出す気ですか‼」
凛がすかさず兄の袖を引っ張り、鋭く言い放つ。
「兄貴‼黙って‼」
士郎は口をつぐみ、凛の真剣な目に押されて座り直す。部屋の空気が再び張り詰める。
遼太は背筋を伸ばし、はっきりと
「二十日後です」
経丸は静かに目を閉じ、しばし沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「二日後ですか…すぐに支度をしましょう」
士郎は慌てて
「待って!待ってください‼ 経丸さん‼ 今回ばかりは援軍なんか出せないですよ‼」
声は震え、目には焦りが宿っていた。
「相手は不動信一ですよ!自分が当主になるために、実の父親を国外追放した冷酷で血も涙もない奴ですよ‼ そんな恐ろしい奴とは関わらない方がいい…ましてや戦うなんて、以ての外です‼」
部屋の空気が一気に重くなる。士郎の言葉は鋭く、しかしその裏には恐怖と天羽家を守りたいという切実な思いが滲んでいた。
凛が静かに立ち上がり、兄の肩を掴んで言い放つ。
「兄貴、言いたいことはわかるけど、口出しすぎ‼ 天羽家の方針を決めるのは経丸さんの役目なんだから‼」
その声には、凛の覚悟と信頼が込められていた。士郎は言葉を失い、妹の真剣な眼差しに押されてゆっくりと座り直す。
経丸は二人のやり取りを黙って見つめていた。やがて、静かに立ち上がり、
「不動信一がどれほど冷酷であろうと…」
その声は低く、しかし確かに響いた。
「どれだけ最強であろうと…」
一言一言が重く、部屋の隅々に染み渡る。
「仲間――金崎家から助けを求められているんです。立たない理由はありません」
沈黙が落ちた。誰も言葉を発せず、ただ経丸の背に宿る覚悟を感じていた。
士郎は拳を握りしめ、凛は目を伏せて唇を噛んだ。遼太は静か深くに経丸にお礼を言った。
その瞬間、天羽家はただの一族ではなく、義を貫く者として戦の舞台に立つことを決めたのだった。
その夜、天羽家は静かに、しかし慌ただしく戦支度を始めていた。兵は甲冑を磨き、馬は蹄を鳴らし、空気には緊張が張り詰めていた。
士郎は一人、海辺に立っていた。月も雲に隠れ、波の音だけが耳に届く。漆黒の海は、まるで未来を映す鏡のように何も語らない。
背後から足音が近づく。
「士郎、暗すぎて何も見えないだろ」
遼太の声が、静寂を破った。
士郎は目を細めたまま、海を見つめながら呟く。
「それがしの未来みたいだなぁ~って思ってさ」
遼太は苦笑しながら肩をすくめる。
「お先真っ暗ってことか。上手いね、士郎」
士郎は皮肉っぽく振り返る。
「誰のせいでこうなったんだか」
遼太は少し俯きながら、士郎の肩を軽く叩いた。
「助かるよ、士郎。ありがとう。そして…ごめんな」
士郎は目を伏せ、声を震わせる。
「ホントだよ。危険な戦に巻き込みやがって…」
遼太は士郎の肩をポンポンと叩きごまかすように笑いながら
「大丈夫、大丈夫。金崎家は強いから、負けることはないさ」
だがその言葉とは裏腹に、士郎の目から涙がこぼれ落ちた。
「おい、泣くなよ!泣くなよ!大丈夫だから!」
遼太が慌てて声をかける。
士郎は嗚咽をこらえながら、言葉を絞り出す。
「ごめん…マジごめん…本当に怖いんだ…怖くて、怖くて…経丸さんは前線で戦う人だから…経丸さんに何かあったらって思ったら…」
遼太は真剣な顔で士郎の肩に手を置く。
「大丈夫。あの人は天に好かれてるお方だ。簡単に死にやしないさ」
士郎はその言葉にすがるように遼太にしがみついた。
「えっ!経丸さんって天に好かれてるお方なのか‼ それじゃあ絶対に大丈夫じゃん!マジで良かった…マジで良かった…!」
遼太は士郎の勢いに押され、少し困惑しながらも笑う。
「それは…良かったな。なぁ、良かったな…」
士郎はふと顔を上げて、眉をひそめる。
「ところで…なんでそんなことお前がわかるんだ‼」
遼太はドヤ顔で答える。
「勘だね」
その瞬間、士郎の拳が遼太の肩に飛んだ。
「バカ‼」
「ごめんって!でも大丈夫だから、絶対に大丈夫だから!」
士郎は涙を流しながら、声を震わせて叫んだ。
「遼太…本当に頼むよ‼ 経丸さんには…怪我一つさせないでくれよ‼」
遼太は真剣な目で頷いた。
「わかってるって」




