第五十一話
剣真は息を切らし、泥だらけの足を引きずりながら駆けてきた。目には焦りがあり、その声は震えていた。
「至急の知らせ、殿!申し上げます‼南平亮輔様が桶狭間にて討死致しました‼」
その場が静寂に包まれる。
大士は驚愕し、膝が崩れそうになるほどの衝撃を受けた。しかし、一瞬目を閉じ、感情を押し殺す。今、自分が動揺すれば、家臣たちの士気はさらに落ちる。彼は言葉を発さなかった。
隣にいた鷲雪は、剣真の腕をつかみ、問いただす。
「えっ!その情報は本当なの⁉南平亮輔様が尾張のうつけ者ごときに討ち取られたというの⁉」
剣真は困り顔で頷き。
「はい、本当です。南平亮輔様は討ち死にしました」
鷲雪は絶望の色に染まり、頭を抱えながら叫ぶ。
「ありえない‼南平様は二万五千の兵を率いたのですよ‼それに対して尾張のうつけ者は二千五百……どう考えてもあり得ない話です‼」
その場に漂う緊張を解くように、ぴーが水筒を差し出した。
「とりあえず一口飲め」
鷲雪は勢いよく水筒を一気に飲み干す。
ぴーは空の水筒を見つめ、呟く。
「おい、一口って言ったのに……」
大士は静かに言葉を発する。
「ありえないことが起こるのが戦の恐さです」
大士の声は冷静だった。しかし、その瞳の奥には、計り知れぬ決意が宿っていた。
「この混乱の中、大切な情報を届けてくれてありがとう」
剣真は深く頭を下げた。
「はい」
そして、大士は陣中に向かって大声で命じた。
「皆の者!すぐに撤退準備を‼」
大士軍は桶狭間を離れ、大樹寺へと向かう。しかし、彼らの背後には勢いに乗っている八坂軍の軍勢が迫っていた。
八坂軍の指揮官が槍を振りかざし、叫ぶ。
「逃がすな‼必ず麒麟の首を取れ‼」
大士は家臣達に向かい、大声で
「皆、大樹寺はもうすぐだ‼」
と励ます。
大士達は八坂軍の猛追を必死に振り切りなんとか自分の領土(三河)の大樹寺へと逃げ込んだ。
八坂軍は寺の門の前で立ち止まり、指揮官は悔しそうに歯を食いしばった。
「くっ……逃げ込まれたか」
側近の男が尋ねる。
「攻め込みますか?」
指揮官は迷わず首を振った。
「寺に攻め込むのはさすがにまずい。天罰が下る」
「では、どうするんですか?」
指揮官の目が鋭く光る。
「奴らは必ず出てくる。それまで、ここを囲む」
「なるほど」
「皆に伝えろ。奴らに常に罵声を浴びせ続けろ」
「承知しました」
八坂軍は大樹寺を囲み、大声で
「さっさと出てこい‼」
「臆病者!」
「落ち武者!」
と叫び始めた。
大士は一人静かに寺の奥へと歩き、美鷹の墓の前に立った。そして、ゆっくりと膝をつく。
「美鷹……俺はお前との約束を守りたい。戦で穢れた世を、浄土のような平和な世界に変えてやるんだ。今は窮地だが、何が何でもこの約束を果たす。だから……見守っていてくれ」
一連の流れを陰から見ていた鷲雪の頬を一筋の涙が伝った。鷲雪はその涙を拭い静かに
(私が何としても大士家のこの窮地を切り抜けさせて見せる)
と決意する。
彼女は大士の元へと歩み寄る。
「鷲雪ちゃん!いつからここにいたんですか」
「さっき来たばかりですよ」
「そっか。さて、外は八坂の兵で溢れかえっておりますか?」
「はい。蟻の出る隙間もないくらいです」
大士は優しい口調で微笑みながら
「よし、奴らを蹴散らして岡崎へ向かいますか」
「殿……蹴散らすって、本気で言っていますか?」
大士の瞳に、決意の炎が宿る。
「あぁ。時代が私を必要としているのなら、必ず岡崎に戻れる」
鷲雪はその言葉を聞き、目をまん丸くする。
「殿・・・」
大士は優しい口調で鷲雪の目を見つめ
「だから絶対に大丈夫だよ」
鷲雪は両手で大士の手を握って
「殿は、この時代に必要とされているお方です。だから……絶対に大丈夫ですね」
「おう、ありがとう」
そう言って大士は微笑み、鷲雪の手に目をやる。鷲雪は慌てて手を放した。
「あっ!申し訳ございません!」
大士は優しく呟く。
「鷲雪ちゃんの手は温かいな」
鷲雪の顔は瞬時に赤く染まった。
「えっ!あっ……すみません」
大士は穏やかに頷いた。
「鷲雪ちゃんのおかげで落ち着いたわ」
大士はその言葉に驚くことなく、静かに微笑んだ。そして真正面から、まっすぐに答えた。
「ありがとう」
その一言が、どこか温かく、柔らかい響きを持っていた。
鷲雪は目をそらし、小さな声で呟く。
「その顔はズルいですよ……」
彼女の声はかすかに震えていた。冷たい夜気とは違う、何か別の感情が入り混じったような響きだった。
「では、今日はここでゆっくり休むとし、明日の早朝ここを出立します」
鷲雪は静かに頷いた。
「はい」
夜の名残を残した薄暗い空の下、大士軍は静かに息をひそめていた。大士は刀を握り締め、兵たちに向かって力強く告げる。
「今から八坂軍を蹴散らし、岡崎へ向かう!皆の者、必死について参れ‼」
「はっ‼」
大士が先頭切って大樹寺を出ようとしたその時
「殿、殿はやはりこの時代に必要とされているお方です」
「うん?」
鷲雪が前方を指差した。
「殿、あちらをご覧ください——」
大士が視線を向けると、霧のような薄靄の中から静かに現れた影——それはニホンカモシカだった。
大士の目が見開かれる。
「えっ……カモシカを見れるなんて縁起がいい」
鷲雪は微笑にながら
「神の使いですよ」
「神の使い?」
カモシカはゆっくりと近づき、大士の服の袖を軽く噛んで引っ張った。大士の胸に、ある思いがこみ上げる。
「もしかして……美鷹が、美鷹が導いてくれるのか……」
カモシカは静かに背を向け、歩き出す。大士はその後を、兵たちとともに追った。
門が開く。
八坂軍の指揮官が鋭く叫んだ。
「門が開くぞ‼鉄砲隊、用意‼」
兵たちが銃口を構える。
しかし、門から現れたのは——ニホンカモシカを先頭とした大士軍の姿だった。
「……おい、なんだ……なんだあれは‼ニホンカモシカじゃないか⁉」
その場にいた兵たちがざわめく。
指揮官は眉をひそめ、戦場に不穏な空気が漂うのを感じた。
「神の使いを撃っては我らに天罰が下る。皆、銃口を下に向けろ」
「はっ‼」
大士軍は、八坂軍が銃を下ろすのを確認すると、静かに進軍し岡崎へ向かった。
指揮官は去っていく背中を見送りながら、歯ぎしりし、悔しげに叫んだ。
「くっそ‼覚えてろ‼次は必ず討ち取ってやるからな‼」
岡崎城の城門が開くと同時に、松風が駆け寄り、大士を強く抱きしめた。
「よくぞ!無事だった‼」
松風の声には安堵と強い感情がこもっていた。
「はい、なんとか」
戦場を駆け抜けた疲れが体にのしかかる。兵たちの息遣いは荒く、鎧には血と泥がこびりついていた。しかし、大士は休む間もなく、次の戦を考えていた。
松風は大士の肩をつかみ、言った。
「とりあえずゆっくり休め」
だが、大士は静かに首を振る。
「すみませんが、その時間はありません」
「八坂軍が攻めてくるか」
「はい。だから、金丸殿と協力し、亮輔様の仇を討つ‼皆の者、汚れを落としたら弔い合戦の準備を‼」
「はっ‼」
岡崎城に緊張が走った。兵たちは刀を握り締め、決戦の準備を進める。




