第四十九話
夜八時――清州城・評議の間。
蝋燭の火がちらちらと揺れる中、八坂家の重臣たちは今にも飛びかかりそうな勢いで喚き散らしていた。
「突撃だ!戦わずして滅ぶか!」
「いや、籠城だ!敵は数で勝る、正面から当たって勝てるわけが――」
その中央、上座に座す男はただ、目を閉じたまま沈黙を貫いていた。
八坂翔平。
だらしない身なりの若き当主は、まるでその騒ぎが聞こえていないかのようだった。
やがて、襖が静かに開かれた。
入ってきたのは、年老いた小柄な爺や。彼は深刻な表情で頭を下げる。
「殿……敵の先鋒、大士軍が丸根砦と鷲津砦を……いとも簡単に落としました」
その一言に、騒ぎはさらにヒートアップした。
「見ろ!南平軍はもう目前だ!手を打たねば――!」
「籠城が最善だ!無駄な血を流してはならん!」
その時、ふいに八坂が目を開け、低く鋭い声を響かせた。
「……少し、静かにしてくれぬか。爺やが話しておる」
その一言に、騒ぎはぴたりと止んだ。
部屋の空気が一瞬にして凍りついた。
八坂は静かに爺やに目を向ける。
「すまぬ、もう一度話してくれ」
「はい。敵の先鋒、大士軍が丸根砦と鷲津砦を、ほぼ無抵抗のまま落としました」
「やはり強いな、南平は……死者は多く出たか?」
「いえ。戦況が不利と見るや、皆すぐに降伏しました。大きな損害は出ておりません」
八坂はほっと息を吐き、笑みすら浮かべる。
「おし、それでいい」
その瞬間、肥満体の重臣・大久保が立ち上がって怒鳴った。
「それでよい、じゃないでしょうが‼ 南平亮輔は刻一刻と迫っているんですぞ! 我ら、どうするおつもりですか⁉」
続けて、剃髪頭の血気盛んな元木が吠える。
「もう突撃しかねぇだろ‼」
「馬鹿が!籠城だ!」
「戦力をここで蓄えたってお前の贅肉と一緒で無駄な事だ‼」
「突撃なんてすればお前の禿げ頭みたいに負け散らかすだけだ」
「やんのか、コラ‼」
「いいぞ、やってやるよ‼」
爺やは間に入り、必死で
「おやめください!殿の前ですぞ!」
と言って止めようとする。
八坂はニヤニヤしながら二人の肩を叩いて
「なぁ、なぁ相撲で勝敗決めようぜ‼」
そう言った瞬間、大久保の肘が跳ね、八坂の顔面に思いっきりヒットした。
「ぶっはッ!」
周りもざわつき二人は喧嘩を止める。
「殿っ‼殿大丈夫ですか‼」
爺やが駆け寄る。鼻から血がツーッと垂れ、八坂は苦笑い。
「おぉ……いてぇ。鼻血出ちゃった」
大久保は顔面蒼白になり、即座に地に伏せる。
「殿!まことに、まことに申し訳ございません!この身、切腹してお詫びを――!」
八坂は手を振り笑いながら
「いいよ、いいよ、わざとじゃないんだから」
そう言って立ち上がり、集まった家臣達を見渡す。
八坂は優しい口調で
「明日は早い、いつでも戦えるように準備しておいて。それでは皆すぐに寝てね。おやすみなさい」
大久保が慌てて
「殿⁉ ちょ、ちょっと待ってください!」
大久保が声を上げる。
「この一大事に、作戦すら決まっていないのに……寝るんですか⁉」
八坂は淡々と
「睡眠は大事だよ。心身が健康なら、南平に負ける理由なんてない。俺たち八坂家には――お前らがいるんだから」
その瞬間、元木がついに
「殿はこの戦捨てたんですか‼」
と声を荒げた。
八坂は立ち止まり、真剣な表情で振り返った。
「お前らは俺を“主”と認めてついてきてくれてる。……だから、俺は――お前らがいる戦で、絶対に負けない」
そして、いつもの柔らかな笑みを浮かべて言う。
「だから今日は早く寝てね」
そう言い残して、翔平は部屋を出ていった。
沈黙の残る座敷に、大久保がぽつりと呟く。
「やはり、あの殿では八坂家は滅ぶ」
元木が続ける。
「そうだ!そうだ!あの殿はホントのうつけじゃ!お家の窮地にぐっすり寝てられるんだから」
大久保が元木に
「お主と初めて気が合ったな」
「そうだな!」
大久保は振り返り、他の家臣たちに問いかける。
「皆も思うだろ? あの殿じゃダメだと!」
「そうだ!」
「その通りだ!」
と家臣達は一斉にわめき散らかす。そのとき、爺やがぼそりと呟く。
「……いつの世も、足を引っ張るのは“無能な味方”だ」
「今なんて言った⁉」
元木と大久保が爺やに詰め寄る。
爺やは怯まず、きっぱりと断言した。
「殿は、いずれ天下を取る男だ。……信じ切れないお前らこそが、この程度の戦で喚いている“みっともない連中”だって言ったんだ」
元木が
「さっきそんな酷いこと言ってなかっただろ‼」
と怒鳴ると爺やは目を細め、にやりと笑う。
「聞き取ってたんだな、ちゃんと」
「バカにしてんのか、コラ‼」
「いいや。明日の戦は殿の凄さがわかる絶好の機会だと思う」
そう言い残して、爺やはすたすたと部屋を後にした。
その背中を、誰も追うことができなかった。
清州城、八坂翔平の私室。
外は雷の残響がわずかに響き、夜空はまだ荒れ模様だった。
灯りの落ち着いた明かりの中、八坂翔平は薄い羽織一枚のまま、座布団に座り込み、小さく呟いた。
「天ちゃん、どうしたらいい? 南平が攻めて来るよ……」
その声は、あの自信満々な若き当主のものとは思えないほど、小さく不安に満ちていた。
側で静かに座るのは、翔平の妻・天子。
整った美貌を持ち、なにより凛とした優しさがその佇まいに滲んでいた。
天子は、翔平の背をそっと撫でる。
「南平は……そんなに強いの?」
八坂は、まるで子どものように彼女の膝に頭を預けながら甘えるような声で
「強い……強すぎる……っ。日ノ本の四天王大名のひとり……東海道一の弓取りって呼ばれてる。僕じゃ、勝てないよぉ~……」
外で見せる八坂の顔とはまるで別人。
八坂はこの部屋でだけ、天子の前でだけ、素の弱さをさらけ出す。
天子は黙って、翔平の背を優しくさすり続ける。
まるで、嵐に晒された子狐を包むように。
そして、柔らかな声で囁いた。
「翔ちゃん。私はね、翔ちゃんならきっと――南平を倒して、この国を守ってくれると……本気で思ってるよ」
八坂が顔を上げると、天子は微笑みながらその頭をそっと撫でた。
「私はね、翔ちゃんが――天下人になる人だと、心の底から信じてるから」
その言葉に、翔平の目が大きく開かれた。
「……おっし‼」
勢いよく体を起こし、彼は笑顔を浮かべた。
「天ちゃん、それ言ってくれたらもう百人力だよ! ありがとう‼」
天子も笑みを浮かべ、今度は翔平の両頬を人差し指と親指でふにっとつまむ。
「翔ちゃん、明日は――翔ちゃんの……いや、日ノ本の歴史的な日になるよ」
八坂も負けじと天子の頬を両手で挟んでにっこりと笑い
「もちろんさ! 天下人への、大きな第一歩にしてみせる‼」
その言葉と同時に、八坂は天子をそっと抱きしめ、深く、優しいキスを交わす。
戦を前にした若き夫婦の時間。
ただ静かに、お互いの心を確かめ合う。
「明日、早いから寝るわ」
「そうねぇ、おやすみなさい」
八坂は布団に入ろうと立ち上がるが、ふいに子犬のような表情で振り向く。
「……ねぇ、天ちゃん。やっぱり、ちょっと不安で……眠れなくなるかも。明日の戦に支障が出るから、今日は……天ちゃんと、手を繋いで寝てもいい?」
天子はくすりと笑いながら、そっと近寄り、八坂の頭を撫でる。
「まったく……翔ちゃんは、ほんとに甘えん坊なんだから」
八坂は照れたように笑い、二人は並んで布団に入った。
その手は、互いの温もりを確かめるように静かに握られていた。
――戦の朝は、すぐそこに迫っていた。




