第四十八話
空は暗雲に覆われ、時折、雷鳴が空を裂く。
豪雨が土を濡らし、馬の蹄がぬかるみに鈍く響く中、一人の男がその先頭に立つ。
三河の誇りを背に、大士麒麟は、まさに風となって戦の地へ駆けた。
「豪雨と雷鳴の桶狭間に、一人の男が歴史を変えるため、先陣を切って崖を駆け下りる――」
翌朝、大士は自身が率いる五千の兵を従え、尾張へと進軍を開始した。
目指すは――八坂軍の守りの要、丸根砦と鷲津砦。
尾張那古野城敷地内
よれよれの服を着て髪の毛ボサボサのだらしのない格好だがどこか人を惹きつける雰囲気を持つ若きイケメンで身長百九十㎝を超えるほど高くい二十三歳の男、八坂翔平がお供の哲也を連れて馬乗りから帰って来て馬を小屋に戻って来ると
「殿、今日もお疲れ様です」
優しい口調で登場した小柄の六十代後半くらいのおじいさんに八坂は
「おぅ、何か変わった事は?」
「いよいよ、南平亮輔が攻めて来ます‼」
その言葉に、翔平の顔から笑みが消えた。低く、鋭いで
「それはまことか!」
「まことでございます。相手の兵力は二万五千」
八坂はニヤッとしながら
「ほー、まぁ我が軍の十倍かぁ~!見せ場が来たな‼」
爺やは瞳を輝かせて
「天下を取る八坂翔平にとって、これ以上ない好敵手でございますな‼」
八坂は少し笑いながら
「言い過ぎじゃないか爺や」
爺やは真剣な表情で
翔平が笑いながらも肩をすくめると、哲也は真顔
「いや、言い過ぎじゃないです!八坂翔平は絶対に日ノ本を平定し天下人になる男です‼」
と言い切った。
丸根砦前に布陣した大士軍。砦を囲むように陣を構えた大士は、兵たちの前に立ち、声を張り上げて
「敵の数は少ない!三河武士の強さを思い知らされてやりましょう‼」
「おうー‼」
「皆の者、突撃‼」
一斉に鬨の声を上げ、三河軍は丸根砦へとなだれ込んだ。
砦の守備はわずか五百。晴天の中、攻城戦が開始された。
先陣を切るのは――鷲雪。
「殿に恥をかかすな‼絶対に攻め落とせ‼」
ぴーが鷲雪に向かって
「先走んな‼」
と叫びながら必死に鷲雪に付いて行く。
戦が始まって、一時間足らず。
予想に反し――丸根砦はあっけなく陥落した。
鷲雪は鎧を脱ぎながら目を丸くする。
「えっ? あれ? 麒麟様……簡単に落ちましたね……?」
大士は険しい顔で周囲を見渡した。
「……何かおかしい。これほど早く落ちるとは……もしかすると、罠かもしれません」
「そうですかね、でも、敵は完全に怯えてましたよ? 兵力差に怖気づいたんじゃないですか? それに……八坂翔平って“うつけ者”って評判ですし」
大士は険しい顔を崩さず
「とりあえず鷲津砦も落としますが皆に慎重に行動するように伝えてください」
「わかりました」
大士の声は静かだったが、そこには張りつめた緊張が滲んでいた。
大士の軍勢は千の兵を丸根砦に置いて残り四千の兵と共に鷲津砦に向かった。
そして――
驚くべきことに、鷲津砦も、ほとんど戦らしい戦もなく落ちた。
拍子抜けするほどの勝利。
将兵たちは沸き立ち、歓声を上げて士気は高まる。
大士軍が勝利に浮かれる中、大士は険しい顔で
「何かがおかしい……」
そう口にすると、すぐそばにいた鷲雪が肩をすくめながら言った。
「殿、ちょっと考えすぎじゃないですか? 敵が弱すぎただけかと……」
その瞬間
「考えすぎではない‼」
普段は穏やかな大士が、珍しく声を荒らげた。
その怒声に、鷲雪はもちろん、周囲にいた兵士たちまで息を呑んだ。
鷲雪の目が揺れた。驚きというよりも――戸惑いと、少しの恐れ。
ぴーは心配そうに
「おい、珍しく言葉が強くないか」
その言葉に、大士はハッとしたように目を見開いた。
「……!」
一拍の沈黙ののち、大士はすぐに鷲雪の方へ向き直り、
「本当に申し訳ない……本当に、申し訳ない。感情的になってしまって……」
と言って深く頭を下げる。
鷲雪もすぐに頭を下げ返し、震える声で。
「いえ、戦が終わっていないのに軽はずみな言動をした私が悪いです」
「いや、これは私が全て悪いです。鷲雪さんは何一つ悪くないです」
大士は胸に手を当て、深呼吸をしたあと、再び冷静な声に戻って告げた。
「……今すぐ、全将兵に伝えてください。敵は恐らく、何かを隠している。浮かれるのではなく、気を引き締めて備えるようにと」
鷲雪は頷き、真剣な表情で言った。
「はい、必ず。私から、しっかり伝えます」
「……ありがとうございます。お願いします」
二人のやり取りを聞いていたぴーは、そっと空を見上げた。
さっきまで快晴だった空が、どんよりした雲が一面に広がっていた。
「何か、嫌な感じがするなぁ」
と呟くのだった。
――その頃、
麒麟・大士の軍より遅れて進軍中の南平亮輔本隊にも、報せは届いていた。
「丸根砦、鷲津砦……両砦、落ちたとの報せです!」
家臣の声に、南平は大きく目を見開いた。だがその瞳には驚きではなく、安堵と、誇らしさがあった。
「よくやった! 麒麟……‼ さすがは、俺が見込んだ男よ!」
声を上げて笑う南平のそばで、飯岡が腕を組みながらうなずく。
「殿、これでおわかりになったでしょう。やはり、八坂翔平など大した男ではありません。三河武士が押し入っただけで、尻尾を巻いて逃げるような腰抜けです」
白井も鼻で笑いながら続ける。
「そうだ。うつけ者とは聞いていたが、あれはまったくその通りのただのうつけ者だったというわけだ」
「……いや。まだ安心できませぬ。どうにも引っかかる。あまりにも、簡単すぎる」
飯岡は大きく溜息をついた。
「殿、臆病すぎます。せっかくの勝ち戦、堂々と構えていればよいものを……」
そう言うと、飯岡は布に包まれた何かを指差した。
「殿のためにご用意しました。これからは、この豪華な籠に乗ってご進軍を」
兵たちが布を外すと、そこには煌びやかな金塗りの籠が現れた。
装飾は派手で、誰の目にも南平の存在を誇示する代物だった。
南平は顔をしかめ、首を横に振った。
「何言ってんです。こんなものに乗れば、敵に居場所を知らせるようなものじゃないですか。奇襲でも受けたらどうするんですか‼」
飯岡はあからさまに呆れた表情を浮かべた。
「はぁ……殿、それだから“バカ殿”などと表裏で呼ばれるのです。将とは堂々と構えてこそ価値があるのですよ。奇襲? そんな“たられば”ばかり考えていては戦はできませぬ」
白井も追い打ちをかけるように笑いながら言う。
「そうですよ、殿。敵はすでに総崩れ。八坂翔平など尻尾を巻いて逃げたも同然。南平家の威光を見せつけましょう。籠に乗って行軍し、尾張を越えて――そのまま京都に上洛するのです!」
「はぁ?はい⁈」
南平はあっけにとられたように、息を飲んだ。
「……まだ、戦が終わったわけではない。油断すれば、何が起きるかわからぬ。なぜ、今そんなことを……」
飯岡は強い口調で。
「“なぜ”じゃねぇよ‼ せっかくの勝ち戦なんだ。威勢よく突き進まねぇで、どうするってんだ!」
白井もまた、声を荒らげて南平に迫る。
「天下人になる気はねぇのか⁉ いつまで“農民気質”でいるつもりだ⁉ お前は――南平家の当主だぞ‼」
その言葉に、南平は何も言えなくなった。
指先が、無意識に小刻みに震える。
「……俺は、本当に、将に向いているのだろうか……?」
その胸中を、誰も知ることはなかった。
ただ一つ、彼の脳裏には、昨夜の麒麟・大士の言葉が焼き付いて離れなかった。
「無理をして続けるよりも、自分が心から望む道を……」
だが、今はその道を選ぶ勇気も、時間も――なかった。




