第三十二話
夜の帳が下りた南平館。
寝台の脇に、松風忠清は膝を立てて座っていた。灯明のほのかな光に照らされた寝顔は、今しがたまで激闘にさらされたとは思えないほど静かだった。
「……ん」
微かに目を開いた大士に、松風は顔を覗き込んで小さく笑った。
「おっ、目を覚ましたか。」
「松風殿……?」
松風は申し訳なさそうに
「すまぬな、遠慮せずガンガンいって」
大士は松風の右手を両手で包み込むように握って一番いい笑顔で
「松風殿、今日私に初めて本当の友が出来ました」
「えっ?」
「私を思ってあのような場を設けてくださったんですよね」
松風は真顔で
「えっ?違うけどホントにムカついてたからただの憂さ晴らしだけど」
「えっ‼えっ‼」
めちゃくちゃ驚く、大士に松風は思わず涙し、大士を力づよく抱き締め
「……俺の思い、ちゃんと伝わってたのか……」
「はい、しっかり受け止めました」
「……なあ、大士。なんでそんなに簡単に人を信用できるんだよ。」
「人を疑って、本当に大切な人の言葉が聞こえなくなったらって考えたら……それが恐いんです。だから私は、どんなこともまずは信じてみようと決めているんです」
松風は下を向き頭を抱えながら
「麒麟殿は完璧すぎるわ、だから親しみづらいんだよ」
「親しみづらい?ですか・・・」
「そう、親しみづらい」
「言いづらい事を伝えてくださりありがとうございます。僕は親しみやすいように改善していきます」
松風は思わず笑いながら
「真面目すぎるだろ‼」
と声を上げた松風の前で、大士はにゅっと顔をしかめ、口を歪めて変顔を披露した
「どうした?どうしたんだ?何なんだ!その顔は‼」
「親しみやすくなるように皆を笑わせる努力をします」
「おい、変な方向に行くなよ」
大士は部屋を出る時わざとジャンプし鴨居に頭をぶつける
「いたぁ~」
と言いながら後ろにいる松風を見る。松風はめちゃくちゃ心配そうな顔で
「おい、おい、変な方向に行ってるって」
翌朝、大士はなぜか頭に尋常でない長さのちょんまげをのせて現れた。
「おはよう! おはよ~よ! おはおっは~‼」
家臣たちは皆、言葉を失ってぽかんと見つめるだけだった。
皆がひそひそと
「打ち所……悪かったんだな」
「ありゃ、いかれちゃってるな」
松風は
「……助走がないと笑いには届かんのだよ、麒麟殿……」
と呟いた。
甲斐の国、躑躅ヶ崎館。 その空気は重く張りつめ、夏の雲が城の瓦を鈍く照らしていた。
「殿、南平亮輔の使者が参っております」
「通せ」
不動家当主・不動仙一の声は威風を張り、その一言で座が静まる。
やがて広間の奥から、背筋を伸ばした武者姿の男が現れる。
「南平家家臣、松風忠清と申します。はじめまして」
仙一は肘を突き、顎を傲然と上げた。
「ほう…よく来た。何用じゃ?」
「南平家と、不動家とで同盟を結びたく参りました」
「……同盟?」
仙一の顔が、急に強張る。
「うちと南平が、なぜ?」
松風は一礼したまま、目をそらさず答える。
「大国同士、手を取り合い、国を豊かにする道を――と、我が主は考えております」
そのときだった。
「舐めてんのか‼」
雷のような怒声が、場の空気を裂いた。
「えっ……いやっ!」
「何が“同盟”じゃ、ボケ‼ この乱世、戦してなんぼだろうが‼」
周囲に居並ぶ家臣たちが目を伏せ、誰一人声を挟もうとしない。
だが、ただ一人――その怒気を制した者がいた。
「父上、落ち着いてくだされ」
それは、不動仙一の嫡子・信一だった。
「松風殿は、何もおかしなことを言っておりません。むしろ、民を思う立派なお考え――」
「黙れ‼」
仙一は立ち上がり、容赦なく息子を蹴り飛ばした。
「お前は不動家の当主になる男の癖になんだ!その弱腰は‼」
家臣たちが慌てて止めに入るも、仙一の怒りはおさまらない。
「こいつに当主は譲らん!こいつが当主になったら、絶対に不動家は亡びるからな‼」
信一は床に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、氷のように冷たかった。
「戦、戦で皆が疲弊してることがわからぬ父上こそ不動家を滅ぼそうとしてるのではないか」
仙一は止めに入っている家臣達を蹴散らし信一の胸倉を掴んで
「貴様‼もう一度言ってみろ‼」
信一は全く臆することなく
「何度でも言いますよ」
「おやめください」
家臣たちが慌てて止めに入る。
怒りの矛先を失った仙一は、次に松風を指さした。
「おい、こいつが来たせいでややこしくなったんだ‼ 地下牢にぶち込め‼」
松風は驚き
「えっ⁉」
「父上、そのような事をしては南平家と戦になります。丁重に接するべきです」
「うるせぇな!黙ってろ‼」
命を受けた家臣たちは、松風に容赦なく手をかける。
松風は抵抗せず、ただ一度、信一をじっと見据え、そして連行された。
夜。躑躅ヶ崎館の地中にある石牢の奥。湿気に満ちた暗闇の中で、松風は壁に背を預け、静かに目を閉じていた。
その時、「きぃ…」という音と共に、重い格子戸がゆっくりと開いた。
「うちの馬鹿オヤジが…すまぬ。この闇夜に紛れて逃げてください」
現れたのは、不動信一。手には灯籠、背には軽い外套。明らかに“逃亡”を補助する意志を持った出で立ちだった。
松風はわずかに目を見開き、静かに首を横に振った。
「それは…できません」
「なぜ?」
「私が逃げれば、誰が逃がしたか大騒ぎになるでしょう。信一殿、あなたまで疑われかねない。さらに、逃亡となれば南平家と不動家の関係は破綻し、戦に発展するおそれもあります」
信一は沈黙した。松風の落ち着いた声音は、まるで地に根を張った老木のように揺るがなかった。
「不動殿の気が変わるまでは、私はここで辛抱いたします」
その言葉に、信一はしばし何も言えなかった。やがて目を細め、微かに笑んだ。
「なんと、凄いお方だ‼毎晩、顔を出します。必要なものがあれば、遠慮なく申してくれ。食も着物も、本くらいならこっそり届けます」
「信一殿、あなたはお優しいお方ですね。あなたが当主になってくれる日を楽しみにしてます」
信一はほんの少しだけ頬を紅く染めながら、頭を下げた。
「…ありがとう。では、また明晩」
扉が静かに閉まり、再び闇が戻る。
それから信一は毎晩地下牢に松風の様子を見に行った。
南平家館の上座間。 重たく張りつめた空気の中、飯岡誠の怒声が室内を揺らす。
「殿‼ 松風はもう二か月も戻っておりませぬぞ‼」
南平は表情を曇らせた。
「……そうなんだよ。心配で何度も不動家に文を送ったけど、 “こちらで厚遇しています” という返答ばかりで……。 帰参の時期は、一切書かれていない……」
「殿、まさかまだお気づきでないのですか!? 裏切られたのですよ‼ 松風に‼」
「忠清が、裏切るはずがない‼」
飯岡は拳で畳を叩き、言葉を遮った。
「何を悠長な‼ 二か月‼ 二か月ですぞ‼」
そこに白井も口を挟む。
「殿、二か月戻らぬなど尋常ではありません……! 不動方に寝返ったと見て然るべきかと‼」
南平は、揺らぐ心を必死に押しとどめるように反論した。
「いや……もう少し、待ちましょうよ」
「ダメだ‼ 先月も、同じことを言っただろ‼」
「そうだ‼ もはや待つ価値などない‼」
「しかし……」
「しかし、じゃない‼ 裏切りには示しが必要だ‼ 他の家臣への戒めにもなる‼」
飯岡の目が鋭く光る。
「今すぐに――松風の息子、剣真の首をはねるべきです‼」
「そうだ‼ それが一番だ‼」
南平は目を伏せ、か細く口を開いた。
「……いや、それは、できない……」
「殿がやらぬと言われるのなら、私が執行します」
その言葉に、南平は大慌てで立ち上がり
「わ、わかった‼ わかりました……! 大士に命じます……。剣真の首を――」
と叫んだ。
「ふむ、それは妙案ですな」
白井がにやりと笑う。
「大士は松風の親友。処刑を命じれば、あやつの忠義も試せますな。 殿にしては素晴らしい采配……!」
南平は蒼ざめたまま
「……はぁっ……」
と呻くだけだった。
「では、早急に命を下されよ」
「……わかりました」
誰にも、気づかれてはいなかった―― 南平の拳が、膝の上で震えていたことに。




