第三十一話
六年の月日を経て、長院寺を離れる日が来た。 蝉の声が耳に遠く、寺の境内はいつになく静かだった。
大士は、本堂の前で山海上人の前に正座し、両手をついて深く頭を下げる。
「和尚様、長らくお世話になりました。今日より南平家に仕官いたします。」
大士の声は静かで、しかし心の奥から震えていた。
山海上人はしばらく何も言わず、背を伸ばして空を見上げる。 朝の光が松の枝を照らし、朱色の屋根瓦に淡い反射を落としていた。
やがて上人は、ふっと微笑み、いつもの穏やかな声で言った。
「麒麟。よく、ここまで来たな。」
「和尚様の教えのおかげでここまで来れました」
「お前はもともと賢かったが、それ以上に、深い優しさを持っていた。 その優しさを、決して手放してはならぬぞ。」
大士はこみ上げる想いを押し殺すように、唇を結んでうなずいた。
立ち上がると、山門の外に四年前に父が亡くなり駿河の国の当主のとなっていた亮輔の姿が見える。馬が二頭、並んでいた。
「もう行け。振り返るな。」
山海上人の声に、大士は小さく一礼して背を向ける。 だが――一歩、二歩と歩んだところで、背後から大きな声で
「いつでも戻ってこい‼」
大士は驚き、こらえきれずに振り向いてしまった。 そこには、両袖を組んだまま、慈しみに満ちた師の姿があった。
隣の亮輔も思わずもらい泣きする。
風が吹く。蝉の音が戻る。
旅立ちの馬が、静かに足音を鳴らした。
こうして、大士は南平家の家臣として仕えることになった。
南平家は
文に通じ、書を解し、弓馬剣術にも秀でたその姿は、若き俊英と称され、南平の寵臣とすら呼ばれるようになっていった。
だが――
その影で、屋敷のあちこちに冷たい視線が生まれていた。
「……あれが“寺育ち”の小僧か。」
「文武両道だとか言っても、しょせんみなしごだろ?」
「それがなにを偉そうに、急に殿のお傍付きとはな…」
老臣・飯岡誠、実直だが気の短い白井高里、そしてその下に連なる中小姓たち―― 南平家の古参たちは、異例の昇進に胸の内を掻き乱された。
一方の大士は、その空気を悟っていながらも、あえて正面から抗おうとはしなかった。
夜、書庫に籠もり、日中の働きぶりを振り返るように筆を走らせる。
「力は、敵よりも己の慢心を討つものと心得よ」
かつて山海上人に言われた言葉が、脳裏に静かに甦る。
忠誠と才を磨いても、人は必ずしも認めてはくれぬ。 ――されど、自分の心が濁らぬ限り、それでいい。
そう己に言い聞かせるように、大士は静かに筆を置いた。
南平家の一角。ひそやかな一室に、荒んだ声がひそひそと集まっていた。 飯岡と白井が家臣らを前に、あからさまな敵意を吐き出していた。
「おい、あの新米、生意気だと思わないか?」
と飯岡。
若手の一人が目を細めながら
「はい、めちゃくちゃ生意気です。」
白井が唇を歪めながら
「飯岡殿はお前らがあいつをどうするか、楽しみにしておられるぞ。」
「はい‼」
数人が拳を握り、呼応する。
やがて飯岡と白井は満足げに立ち上がり、その場を後にした。 残された若手たちは目を見合わせ、低く声を潜めて話し始める。
「おい、襲撃して殺すか?」
「殺す? それは過激じゃないか?」
「何ゆうちょうなこと言ってんだよ。飯岡殿と白井殿があいつを良く思ってないのは確かだろ?」
「…それはそうだな。俺も気に入らない。」
「けど、殿に気に入られてる大士を殺すなんて、ただじゃ済まねぇよ。」
「事故死ってことにしちまえばいいんだよ。」
「おっ、いいね!」
「それだ、それがいい!」
するとその時、部屋の奥で腕を組んで座っていたひとりの男が、静かに声を発した。
「……まぁ、待てよ。」
若者たちがハッと振り返ると、立ち上がったのは、日頃から一目置かれる男――大士の七つ年上の松風忠清だった。背丈は高く、鍛え上げられた体は着衣の上からでもその力強さを感じさせる。
「松風殿、何か意見でも?」
と、ひとりがたずねる。
松風はゆっくりと前に出ながら、鋭い瞳で全員を見渡した。
「皆が手を汚すまでもない。俺が一騎打ちで奴を皆の前で恥をかかせてやる。」
ざわ…と空気が揺れた。
「そして“あいつは使えない”と、殿に見せてやる。 …殿の目を覚ましてみせよう。」
「それはいいですね‼松風殿、頼みますよ‼」
「あぁ!任せとけ。」
翌朝、陽が射し込む南平屋敷の一室にて。 大士は拭いたばかりの槍を並べていた。そこへ松風が現れる。
「おはようございます、大士殿。今日の体調は?」
「おはようございます、松風殿。絶好調ですよ。松風殿は?」
「そりゃ、絶好調さ。」
「それはいいですね!」
言葉のやり取りは和やかだった――その瞬間までは。
松風は目を細め、声を低くして言った。
「大士殿。今日、中庭で一本、真剣勝負してほしい。」
「勝負…? 私とですか?」
「おう。今後をかけた勝負だ。」
「やる前から…結果がわかっていませんか?」
「いいからやるんだ。」
松風の瞳は、笑っていなかった。
麒麟は一拍置いて、うなずいた。
「――わかりました。」
中庭には、すでに異様な熱が立ち込めていた。 家臣たちが縁にひしめき、中央には南平の姿もある。
大士は驚きながら周囲を見回す。
「これは…いったい…?」
松風は視線すら寄こさず、平然と告げる。
「皆の前で、若手家臣の一番を決めようと思ってな。」
「死ねぇ‼ 大士‼」
「松風殿‼ やっちゃえ‼」
「殺せ‼ 殺せ‼」
怒号が響き、中庭はまるで戦場の熱気に包まれる。
大士は静かに右手を差し出し
「――わかりました。決めましょう。殿に、誰が一番忠義ある者かを。」
だがその手は、松風に荒々しく払いのけられた。
「お前を殺すからな‼」
木刀を手に、両者は構える。
打ち込まれる音。はじける気合い。 だがその均衡は、すぐに崩れた。
力の差は明白だった。大士は一方的に叩かれ、投げられ、地に這った。
それでも大士は立ち上がる。倒れては、立ち上がり。打たれては、また前に進んだ。
松風は眉をひそめる。
南平が心配そうな表情で
「おい、やりすぎじゃないか‼」
止めに入ろうとするが周りの家臣達がそれを止める。
何度も何度もぶっ飛ばされてもそれでも大士は立ち上がり松風に突っ込んで行く。
松風はそれを真正面から受け止めてぶっ飛ばす。
(こいつ、やはり只者ではないな)
ざわつく家臣たち。
「本気で殺す気じゃないか…?」
「そうだよな、このままじゃ奴は死ぬぞ!」
「何ビビってんだ!殺してもらうのが目的だろ‼」
「しかし、あいつはバカだな。松風殿に勝てるわけないのに何度も正面から突っ込んで行って」
「いや、まて…松風殿とここまで戦おうとしたやつ、今まで誰かいたか?」
「あんなに勇気ある奴初めて見たかもしれない・・・」
「勇気じゃねぇ、あれは自分の実力がわからないバカって奴だ。ちゃんと考えなくても七つも上の松風殿に勝てるわけないってわかるだろ。それなのに戦ってる奴は本物のバカなんだよ。俺ら危なかったなぁ~あんなのが殿に贔屓されて俺らの上司になってたら俺ら意味もなく突撃とかさせられて無駄に討ち死にするとこだったぜ」
「いや、俺は凄いと思うわ・・・」
「俺も凄いと思う・・・」
「俺も」
「はぁ?お前ら何言ってんの?」
南平は泣きながら大声で
「頑張れ‼頑張れ‼麒麟負けてないぞ‼」
「大士殿、負けるな!負けるな‼」
と次々に叫ぶ群衆に対してやすべぇは
「何だ!お前ら雰囲気に流されて手のひら返して気持ちわりぃな」
と吐き捨て勝負を最後まで見ずに去って行った。
大士は、ついに膝を突いた。
しかし目は、まだ光を失っていなかった。
「……つっよい……!」
その一言を残し、大士は崩れ落ちた。
静寂――のち、松風が叫ぶ。
「皆の者‼ これでもまだ、大士殿が“贔屓されてる”と申すか‼」
誰一人、言葉を返せなかった。
松風は木刀を地に突き立てた。
「大士殿は、殿から正当な評価を受けている。俺はそう思う。 これでも文句がある奴は――この松風忠清が相手してやる‼」
その瞬間、中庭の空気が変わった。 侮蔑は敬意へ、嘲りは誓いへと変わる。
陰からその様子を見ていた飯岡と白井は、顔を見合わせた。
「あいつ…厄介かもしれんな。」
「……早いとこ“処分”が必要ですね。」
この一件から大士の文句を言う家臣は大幅に減ったのであった。




