第三十話
三河の国、岡崎城正門前。
まだ朝もやの残る静かな石畳に、ひとつの籠が用意されていた。
その傍らに、病弱そうな岡崎城城主の父・大士健馬がしゃがみ込み、小さな息子――大士麒麟の頭をそっと撫でていた。
「すまぬな、麒麟。父が不甲斐ないばかりに…」
六歳の麒麟は、その言葉を知る由もなく、あどけない寝顔を見せて静かに眠っている。
健馬はそっと息子の頬を撫でる。
「元気で達者でな…」
ぽたり。健馬の涙が、麒麟の柔らかな頬に落ちた。
健馬の覚悟と断腸の想いが、言葉の奥に宿っていた。
健馬はゆっくりと立ち上がり、従者に向き直る。
「では、南平様のもとにお届け、お願いいたします。」
「はっ!」
籠が担ぎ上げられ、駿河へと出立する。森の中へと姿が消えてゆくその後ろ姿を、健馬は、何も言わず見送り続けた。
大士を見送った十日後、肺を患っていた健馬は息を引き取った。
そして岡崎城城主は矢梅奴男が城主の座を引き継いだのであった。
南平金々の館は昼下がりの穏やかな陽射しに包まれていたが、その広間の片隅には、異質な静けさがあった。
部屋の隅に座るひとりの幼子――大士麒麟。小柄な体はきちんと正座しているが、背筋にはどこか強ばりがあり、目はじっと床を見つめていた。
「おい、今度大士家から来た子供、全然喋らないな。」
「まぁ、六歳で親がいないんだ。しかたないよなぁ。」
遠巻きに侍たちが囁き合う中、襖が静かに開いた。
南平亮輔――南平家当主南平金々の長男で次期当主の、気さくで物腰柔らかな青年が、大士に近づく。
「おっ、麒麟。飯でも食いに行かないか?」
その声は柔らかく、まるで凍った心に陽を差すような響きだった。
大士は一瞬、顔を上げ――そして、はにかむように頷いた。
「はっ、はい…」
その声はまだ小さく不安げだったが、確かに他者に応えようとする意志がこもっていた。
亮輔は満足げに微笑み、そっと手を差し出した。
「よし、まずは飯からだな。今日は焼き味噌団子があるぞ。」
大士の目が、ほんのわずかに輝いた。
南平亮輔に連れられて、大士は静かに広間を出た。館の縁側を歩く足音が、心なしか緊張の糸を緩めていく。
「麒麟、味噌団子は好きか?」
亮輔の問いに、大士は
「すみません、食べた事がないです」
と呟くとその答えに亮輔は目を見開いて
「おっ!じゃあ初めてか‼いいじゃんか麒麟‼」
嬉しそうに笑う亮輔に、大士は思わず目を見合わせ――そしてすぐに視線をそらす。
それでも、その頬はほんのり紅をさしていた。
やがて通された膳の間。焼き味噌団子の香ばしい匂いが漂うと、麒麟の鼻がひくひくと動いた。
亮輔が団子を一本差し出す。
「これな、ちょっと焦げてるくらいが旨いんだよ。俺が手伝って焼いたからな、味は保証しないけど。」
大士は両手で丁寧に受け取り、静かに一口。
ふわりとした食感と、ほんのり焦げた味噌の香りが舌に広がる。
大士は目を丸くして――ゆっくりと、にっこり微笑んだ。
「…おいしい。」
亮輔は目を見開き、それから破顔した。
「麒麟!美味しいか‼美味しいか‼」
大士はこくりと頷いた。
南平館に迎えられてからというもの、亮輔は大士をまるで弟のように大切に扱った。
最初は硬かった大士の表情も、毎日のように共に囲む食事の中で、少しずつ和らいでいった。
「おい、今日は甘酒粥だぞ。身体があったまるからな。」
亮輔の気遣いに、大士は小さく微笑み、静かに「いただきます」と言う。
その声は、前より少しだけ大きく、確かな響きを持っていた。
やがて亮輔は、大士にもっと広い世界を見せようと考える。
「麒麟には、剣だけでなく心も磨いてほしい」
そう語った亮輔は、南平家と縁の深い名刹――長院寺の門を叩く。
山海上人。かつては武に通じ、今は慈悲と学問に生きる僧侶であった。
本堂での面会ののち、上人は大士をじっと見つめて微笑んだ。
「まだ心の奥に風が吹いておるな。だが、この子の中には“真”がある。」
こうして大士は、山海上人の導きのもと長院寺に入ることとなった。
写経、漢詩、礼法、五経…。すべてが初めて尽くしだったが、大士は目を逸らさず学び続けた。
時に亮輔が訪ねてきては、経典の裏に隠した団子を忍ばせたりして、寺の静寂に笑いを生んだ。
ある日、山海上人がぽつりとつぶやいた。
「この子は、いずれ日ノ本の柱となるやもしれぬ。ならば――知を刃に変える術、教えねばな。」
大士の眼差しは、既に少年のそれではなくなりつつあった。
長院寺での日々は、静かで厳しく、そして豊かだった。 山海上人の教えは単なる知識ではなく、“どう生きるか” を問うものだった。
ある日。経の時間を終えた大士に、上人が静かに語りかける。
「麒麟。武は争うための手ではない。人を救うために磨くのだ。心なき剣は、やがて己の首を斬ることになる。」
大士はその言葉を胸に刻んだ。 以来、剣術の稽古でも「勝ち」に固執せず、「意味」を見つめるようになっていく。
昼の静寂が長院寺を包んでいた。蝉の声すら遠慮がちに聞こえる夏の日、大士麒麟は廊下の縁に膝をつき、経を写し終えた巻物を膝に載せたまま、ぽつりと庭を見下ろしていた。視線の先に、静かに揺れる竹の葉。それは幼きころに別れた両親の面影のようでもあった。
「やあ、今日も学問づけか。ちょっと寺を抜けて、団子でもどうだ?」
声の主に振り向くと、南平亮輔が肩に風呂敷包みを担いで立っていた。変わらぬ調子で笑みを浮かべ、懐かしき友に向ける眼差しはどこか兄のような温もりがあった。
大士は戸惑った顔を向けた。
「すみません。和尚の許可なしに寺を抜け出すことはできません。」
亮輔は心底楽しそうに笑った。
「相変わらず真面目だなぁ〜。麒麟がそう言うと思って、ちゃんと許可取ってあるよ。」
「そうなんですか?」
その時だった。彼の背後から、ぬうっと姿を現したのは――山海上人。
「初耳ですなぁ〜」
「げぇっ‼ 和尚様‼」
亮輔は肩を跳ね上げ、風呂敷が床に落ちそうになった。山海上人はその様子を
見て笑った。
「相変わらずだなぁ〜、亮輔は。」
「す、すみません…和尚」
それでも亮輔は眉を下げ、子どものような声で謝った。
上人はふっと優しい目で麒麟を見やり、静かに告げた。
「亮輔。今日は連れ出してやってくれ。」
「えっ! 和尚、いいんですか?」
「麒麟には息抜きが必要だ。あまり詰め込みすぎると、学問の道も狭くなる。」
亮輔はふっと息を飲み、心の底から驚いたように笑い出した。
「……え、俺のときは? 六年間一度も外出許可、下ろさなかったのに…」
山海上人はすかさず、ぴしゃりと笑顔で言い放った。
「そりゃそうだろうが! 週に一度勝手に抜け出すやつに許可なんか出すもんか‼」
三人の笑い声が廊下に響く。その音はまるで寺の古い梁をゆすり、こだまするようだった。
町の茶屋で囲む粗末な団子。 亮輔は箸で団子をちぎりながら、ぽつりと言った。
「麒麟。お前、変わったな。」
大士は目を丸くする。
「前は、自分を閉じ込めてる感じだった。 でも今は、何かを越えようとしてる。――その“何か”は、まだ分からないけどな。」
沈黙。
大士は湯飲みを両手で包み、低く言った。
「私は亮輔様の役に立ちたい絶望の淵にあった私の人生を始めさせてくださった亮輔様の役に立ちたいそう思って今日まで修行に励みました」
亮輔は驚いたように大士を見つめ、それから泣きながら
「お前は、なんていい奴なんだ」
大士は真っすぐ亮輔を見て
「ありがとうございます」
亮輔は大士の背をそっと叩いてこう言った。
「俺は駿河の当主になった。修行が終わったら迎えに行く。そして俺を支えてくれ大士」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」




