逸れ猿2
それは、いまから二十年前。若い女が一人、嵐の山道を走っていた。
「……はっ、早く、あいつらに見つかる前に……!」
追ってから逃げるため、女は先を急ぐ。着物の袖や裾から覗く細い手足は傷だらけだった。
「いたぞ!」
振り返ると男が二人。見つかった。
慌てて逃げ出そうとした女は足を踏み外す。
「?!」
男たちの怒鳴り声。ゴゥゴゥという風の音を聞きながら、女は崖から落ちていった。
パチパチと聞こえる音で、女は目を覚ます。
気がつくと女は柔らかな布団に寝かされていた。身体を起こし、周りを見渡す。
「(起きた)」
「?!」
驚き振り返ると、声の主は焚き火の側にいた。全身が毛むくじゃらの袖のない着物を纏った、大きな猿。
「化けモノ!」
女は叫んだ。目の前の化け猿から逃げようと立ち上がると体に激痛が走る。
「ッツ!」
「(動くな。お前、崖から、落ちた)」
〈化け猿〉は、女を布団に寝かしつける。襲う激痛に、女は黙って〈化け猿〉に従う。
目の前の出来事に混乱する女は、〈化け猿〉の群れが山奥にあると旅人の男から聞いたことを思い出す。
「私は、〈化け猿〉の群れに捕らえられたの?」
女は呆然と呟く。
「(群れ、もうない)」
〈化け猿〉は首を横にふる。
〈化け猿〉の群れがないとはどう言う事か。そんな混乱する女に〈化け猿〉は告げた。
「(おまえ、オレの、嫁、なれ)」
「はぁ?!」
自分の今の状況、〈化け猿〉が告げた言葉に女は混乱のあまりそのまま意識を失った。
〈化け猿〉からの嫁発言から数日が経った。
「(これ、食え。うまい)」
〈化け猿〉は優しく女を起こす。取ってきた山の幸を煮込んだ汁物の椀を女に差し出す。
「……ありがとう」
女は〈化け猿〉の差し出す椀を受け取り、汁物を口にする。あれから〈化け猿〉は甲斐甲斐しく、女の世話をする。
〈化け猿〉に世話をされながら、数日前の〈化け猿〉の言葉を女は思い出す。〈化け猿〉は、女に嫁になれと言ってきた。
「……私は所詮、遊女」
「(ゆうじょ?)」
女の呟きに、〈化け猿〉が首をかしげる。
〈化け猿〉がどんな反応を見せるかと、女は隠すことなく自分の素性を告げた。
「男に色を売る女のことよ。私はその遊女だったのよ」
淡々と吐きだすように、〈化け猿〉に話す。
女が遊女になった理由は珍しくもない。12歳の時に、住んでいた村が飢饉に襲われた。そのため、生活に苦しんだ両親が女を遊女長屋に売った。ただ、それだけのこと。
「子供を身籠ったこともあったわ」
「(お前、子がいるのか)」
「いないわ。堕したもの」
遊女長屋に売られた女は生きるために男たちに身体を売る。そんな時に、父親が誰かわからない子供を身籠った。
子供を身籠った女は仕事ができない。だから、遊女長屋の主は、堕胎薬を女に差し出した。
女は薬を飲み、腹に宿る子供を堕した。遊女として生きる女には珍しくもない話。
遊女長屋の主が、戦う兵の慰めのために、遊女たちを戦場に送る話を聞いた女は逃げだした。それが、嵐の夜の出来事。
淡々と他人ごとのように語る女を〈化け猿〉がジッーと見ていた。
「……何?」
「(お前、大変、だった。それでも、お前、頑張った。偉い)」
〈化け猿〉の手が女の頰に触れる。
「(もう、大丈夫)」
〈化け猿〉の言葉が胸に響く。
何が大丈夫だ、同情などいらない、そう言って、〈化け猿〉の手を振り払えばいい。それなのに、自分を抱き寄せる〈化け猿〉の手を振り払うことが、女はできなかった。
唇を噛み締め、泣き出しそうになる涙を女は必死に抑えた。そんな女を〈化け猿〉は黙って抱きしめた。




