第六十五話 敵軍を谷へ誘い込んだら、逆に俺たちが包囲された
「……包囲された?」
エリオは、伝令の言葉を繰り返した。
白霧峡谷。
王国軍三千。
帝国軍先鋒五千。
その背後に、さらに帝国軍の別働隊が現れた。
「……敵の兵力は?」
「約四千!」
エリオは地図を見つめた。
「……九千か」
三倍の兵力差。
しかも、敵は高地を確保している。
「……やられた」
ガイゼルは、最初から罠を見破っていたのだ。
帝国軍本陣。
ガイゼルは、報告を聞いて頷いた。
「……王国軍三千を包囲しました」
「そうか」
「指揮官は、エリオという若い参謀です」
ガイゼルは少し考えた。
「……黒岩谷の男か」
「ご存じですか?」
「ああ」
ガイゼルは静かに答えた。
「以前、私の罠にかかった男だ」
副官が笑った。
「……今回も同じですね」
しかしガイゼルは笑わなかった。
「いや」
「……将軍?」
「今回の作戦は、悪くない」
「……そうなのですか?」
「地形の選び方も、誘導方法も改善されている」
ガイゼルは続けた。
「だが、まだ若い」
そして、静かに命じた。
「包囲を狭めろ」
白霧峡谷。
帝国軍の攻撃が始まった。
矢が降り注ぐ。
盾が砕ける。
兵士たちが倒れる。
「……防御陣形!」
エリオが叫んだ。
「盾を前へ! 負傷者を中央へ!」
王国軍は、必死に防御を続けた。
しかし、敵は高地から攻撃してくる。
「……エリオ様!」
副官が叫んだ。
「このままでは、持ちません!」
エリオは歯を食いしばった。
黒岩谷。
また、同じことを繰り返すのか。
また、自分の命令で兵を死なせるのか。
「……撤退する」
エリオは静かに言った。
副官が驚いた。
「……撤退?」
「そうだ」
「ですが、敵に背後を取られています!」
エリオは地図を見つめた。
「……西側の斜面だ」
「……はい?」
「西側の斜面は急だが、登れないわけではない」
「……しかし、荷車は通れません!」
「捨てる」
エリオは即答した。
「物資より、兵を守る」
撤退は、困難を極めた。
負傷者を背負い、兵士たちは急斜面を登った。
帝国軍の矢が飛んでくる。
「……急げ!」
エリオは最後尾に立っていた。
副官が叫んだ。
「エリオ様! 先に撤退してください!」
「断る!」
「……ですが!」
「俺が命令した作戦だ!」
エリオは剣を抜いた。
「最後まで、ここにいる!」
数時間後。
王国軍は、ようやく峡谷を脱出した。
しかし三千人のうち、帰還できたのは約二千二百人。
八百人が、戦死、負傷による取り残し、または行方不明となった。
エリオは、報告書を握りしめていた。
「……また、八百人か」
その数字は、あまりにも重かった。
アルフォンス城。
レアルは、報告を受けていた。
「……白霧峡谷で敗北しました」
ミディアが静かに言った。
「帰還兵、約二千二百人」
「……そうか」
「エリオは、生きています」
レアルは頷いた。
「……よかった」
しかし次の瞬間。
エリオが執務室へ入ってきた。
「……レアル様」
その顔は、青ざめていた。
「……申し訳ありません」
エリオは膝をついた。
「私の判断で、また兵を失いました」
レアルは黙っていた。
「……私は、指揮官失格です」
沈黙が落ちた。
やがて。
レアルは、静かに口を開いた。
「……エリオ」
「はい」
「お前は、なぜ撤退した?」
エリオは顔を上げた。
「……兵を守るためです」
「そうか」
レアルは頷いた。
「ならば、以前とは違う」
エリオは黙った。
「黒岩谷では、敵の罠に気づくのが遅れた」
「……はい」
「今回は、包囲された後でも撤退路を見つけた」
「……ですが!」
「失った兵が戻るわけではない」
レアルは静かに答えた。
「だから、責任は取る」
エリオは唇を噛んだ。
「……はい」
レアルは続けた。
「だが、お前を更迭するつもりはない」
エリオは驚いた。
「……なぜですか?」
レアルは答えた。
「お前が、まだ成長できるからだ」
その夜。
エリオは、一人で兵舎にいた。
机の上には、戦死者と行方不明者の名簿。
一人一人の名前が書かれていた。
エリオは、静かに呟いた。
「……もう、負けたくない」
しかしその言葉は、以前とは違っていた。
勝ちたい。
敵を倒したい。
そうではない。
「……もう、誰も無駄に死なせたくない」
エリオは、名簿を閉じた。
そして、地図を広げた。
「……ガイゼル」
その名前を、静かに呟いた。
「次は、必ず」




