35話 二つ目の妖怪道(3)
僕は、ついその人がいるであろう方角に視線を移してしまった。
背中の方から圧倒的な存在感を感じる。
失敗してはいけなかった。それを重々わかっていたはずなのに、まるで僕が視線を外すのを待っていたかのようにその人は僕のすぐ傍まで近づいていた。振り返ると、開いた扉の隙間から伯爵が冷たい眼差しで見下ろしていた。
冷え切った殺意が僕の体を委縮させる。
逃げることはできなかった。腰が抜けた上に体が固まってしまっていた。
無言で長く白い手が伸びてくる。尖った爪の並んだ五本の指が僕の視界を遮って行く。
嗚呼……騙された。
やっぱり他人の言う事なんて信じちゃいけなかったんだ。いつもこうやって痛い目に遭うのに全然学んでいない。
あのお姉さんが僕にあんなことを言うから、僕は――
――いや、違う!
足を思い切り伸ばし、手と足をバタバタさせながら離れる。
しかし、勢いづいて体勢を崩し、うつ伏せに倒れてしまった。
「いっつ……」
膝と顎を打った。けれど、捕まらなかった。
「いつから聞いていた……」
殺意の詰まった眼差し。焦燥に塗れたその顔は今にも僕を殺そうとしている。
見られた。聞かれた。口を閉ざさないと。殺さないと。
そんな思考が聞こえてくるみたいだ。
「――逃げろォオ!!!」
僕は死ぬかもしれない。これだけ伯爵に近づいてしまった。
一瞬の思考の後、僕が考えたのはそれ以外の結果だった。皆の命、それも大事だけれど、なにより伯爵の思い通りにさせたくないと叫んだ。
ああそうさ。他人の、それもあんな怪しいお姉さんの言う事なんて信じる方がおかしい。例え言っていたことが間違っていなかったとしても、僕がこうして確認するなんてどうかしてた。
――でも、それは僕が今迄の僕だったらの話。
ゴブリンを殺した。怖くて仕方なくて、罪悪感が拭えなかった。それでもこの世界は生と死を盲目的に強制する。逃げ場なんて無い。本当にどうかしてる!!
今もだ。伯爵は僕の命を何とも思っちゃいない。優しい顔は仮面で、偽善心でもなんでもなく自分の利益に飢えたハイエナだ。
逃げるのが当然。それでも僕は一人で逃げなかった。怖かったから!
僕が一人で生き延びても、この先また罪の意識で耐えられなくなる。どうしようもなくて自殺してしまうかもしれない。
『その時、てめえは抗えたはずなのに、助けられなかったと泣きじゃくるのか』
あの人の言った言葉が今でも脳裏に残ってる。
僕は、そんなのは嫌なんだ!!
あの人の思い通りになっているんだろうな……。でも、今だから言える。
やっとこさ出た声で二階の寝ている皆まで聞こえている自信はない。
すぐさま伯爵に喉を掴まれた。それ以上声を出させまいとする伯爵の形相は変貌していた。
高潔で誠実な顔は消え失せており、怒りに打ちひしがれたまるでバケモノ。いや、まるでドラキュラだ。
赤い唇から覗く二本の牙、青白い顔、血走った目付き。ドラキュラを彷彿とさせる風貌である。
……声を出せない。殺させれる……!!
「偶に来る者はいたが、ここは私の神聖な場所だ。誤魔化していたが、どうしてキミのような愚かそうな者が……!!」
「どうした!?」
いち早く来た人がいた。
一階で佐草さんと寝泊まりしている梶ヶ谷さんだ。白い寝巻姿で、おそらくすっぴん。慌てた様子で駆けつけてきた。
僕の声に反応を示してくれたのは嬉しいけれど、それよりも逃げて欲しかった。
彼女は僕の有様を見て、信じられないような顔をしたかと思えば、憤怒に苛まれる。
「なにしてんの!!」
「ちっ……バレてしまったか。
いや、まだ間に合うか。キミ達二人を処理すれば、まだ状況は変わらない!!」
伯爵が梶ヶ谷さんへ向けて手を掲げると、どこからともなくコウモリがやってきた。梶ヶ谷さんを覆うように跳び回って動きを封じているようだ。
「なに、こいつら……やめ!?」
いつの間にか梶ヶ谷の口が黒いもので覆われていた。このコウモリは、ただのコウモリじゃない。梶ヶ谷さんの口も封じられてしまった。
梶ヶ谷さんが……! っ――この!!
僕は、梶ヶ谷さんに意識の向いた伯爵の胸元を蹴りつける。
「ぐっ……!?」
意表を突けたようで、漸く解放された。
苦しさで咳き込んでしまうが、なんとか立ち上がることができた。
「み、みん……エホッ、エホッ!」
ダメだ、声がまだ……。
「私の計画を潰すつもりか、小さく力もないキミが! そんな事は不可能だ、好奇心に煽られて調査に来てもこうして失敗している。死に目を見ることになるぞ、貴様等全員ッ!!
交換条件を出してやろう少年。さっきの話は聞いていたな?」
交換条件? なんのつもり……そうか。伯爵は僕、もしくは梶ヶ谷さんに状態異常回復魔法を持っている可能性を捨てられていないんだ。だから、殺すことはできない。今はまだ。
ということは――
「状態異常回復の手段を持つ者、キミは知っているのではないかね。それを教えてくれさえすれば、キミだけは生かしてやる」
やっぱり……。
梶ヶ谷さんも状況をなんとなく理解したらしい。不安な面持ちで首を振っている。言うな、ということなんだろうが、これで居るということがバレたかもしれない。
伯爵は笑う。この交換条件を僕が断らないという絶対的自信があるらしい。暗闇の中で見える尖った牙が僕の首筋に噛みつきたくて仕方が無いかのように脅迫してくる。
確かに僕は弱いし、頭もよくはない。騙されやすくて、前までなら直ぐに答えてしまったかもしれない。いや、実際別の交換条件なら直ぐに答えてしまったはずだ。状態異常回復の手段を持つ者を言えば、全員の命を助けてやる――とかね。
牢屋で捕まっていたお姉さんに言われてから僕はずっとこういうシチュエーションを予想していた。僕はグズだから、直ぐに死んでしまうかもしれないって。それでも僕は好奇心に勝てなかった。だから考えたんだ、その時は僕は責任を持って死のうって。
「――……知らない」
好感は持たれなかったらしい。伯爵の形相が再び赤信号となった。
「私は嘘を見抜くのに自信があるんだ。キミが、自分が持っていると言っても、見抜く自信があった。そんな回答が出るとは思っていなかったからね……失望だよ。
殺しはしない、が――死に目を見るのは確実だ!!!」
「――カマイタチ」
梶ヶ谷さんの周りに飛び回っていたコウモリ達が次々と床に落ちていく。代わりに風でできた刃が彼女の周囲を守るように飛んでいた。
「少年と違ってこっちの少女は才能に秀でているようだ。その才能、おそらく折るのはたやすかろう」
「最初から怪しいって思ってたけど、もう本性出したわけ?」
梶ヶ谷さんが腕を広げると、風の刃は周辺の壁に激突していった。
伯爵に向けるでもなく、僕は制御できていないのだと残念に思う。伯爵も揶揄うように笑みを零した。
「これだからド素人は。魔法の使い方も知らな――」
けれど、その意味を理解したのはカマイタチが壁に激突してこの屋敷を揺らしてからである。
梶ヶ谷さんは、皆を起こす為に魔法を放ったのだ。
木製の壁に切り込みを入れていく音は凄まじく、うるさいほどだ。
「天才の間違いじゃない」
「ちっ……ガキが……!!」
得意顔をする梶ヶ谷さんに対し、伯爵の眉間に皴が寄る。
二階から多くの足音が聞こえ始めて、梶ヶ谷さんの作戦は成功したことを証明した。
「――皆、逃げて! 伯爵は、悪者だよ!!」
でも、まだだ。さっきの話じゃ伯爵は僕達を一握りで潰せるほどの力を持つ。武蔵野くん達の修練の模様を観察していた伯爵なら、実力を測り終わっていてもおかしくない。
これだけ近くにいる僕と梶ヶ谷さんは間違いなく助からない。
梶ヶ谷さんが直ぐに魔法を使わなかったのは、使わなかったのではなく使えなかったから。まだ梶ヶ谷さんは魔法発動までのタイムラグが長いんだ。それには修練が必要だけれど、梶ヶ谷さんは元はセーリジュリア公国に留まっていた。特別魔法の修練が必要ではなかったし、戦いにおいては武蔵野くん達のようには努力していなかっただろう。才能はあっても、伸ばすことができていなければそれは意味を成さない。
伯爵の体が強張る。拳を握り、めりめりと外套が破れていった。
「貴様等……生きてここを出られると思うなよ……必要ない者以外は全員、皆殺しだァアッ!!! お前達! 餌が逃げるぞ、とっとと捕まえやがれェエ!!!」
野太い声が屋敷中を駆け巡った。
伯爵には仲間がいる、この屋敷に住まう召使達だ。中にはあの大男もいる。全員を逃がすには突発的な今はでは難易度がハードモード過ぎる。
でも、それは僕達だけならの話。もうここまで大事になっちゃったんだ、やるしかない……!
「梶ヶ谷さん、こっちだ!」
「う、うん!」
梶ヶ谷さんの手を取って走った。
目指すはあの隠し階段。地下にいるあのお姉さんを解放する!!
「逃がすか、チビガキ共!!」
皆、どうにか逃げ延びててくれ!
あの人ならどうにかしてくれる確信は、正直言って無い。あれだけ傷付いているんだ。手錠を外すことはできても、肝心の戦闘じゃそれほど役に立たないかもしれない。
だから、これは賭けだ。あの人がなんとかしてくれる、そう信じてこの道を選ぶ。あの人が言ったんだ――
『オレの傍がこの世で一番……いや、全世界で一番安心できる場所だってことをな!!!』
だけど、その賭けに梶ヶ谷さんを巻き込むわけにはいかない。
人二人分の狭く長い東側通路に入ると、通路と対面するように並ぶ扉が幾つかあった。
何度か来たことがある為、部屋の中がどういう構造になっているかは把握している。
「ここから外に出るんだ!」
「え、ちょ……! 水野!?」
窓のある部屋に梶ヶ谷さんを押し込んで、扉を閉めた。
窓から外に出て壁伝いの角を曲がった先に佐草さんのいる部屋がある。一階に誰かが来る保障はないし、彼女の安否は梶ヶ谷さんに任せよう。
振り返ると、伯爵がこちらを睨んでいた。暗闇に光る赤い瞳が二つ、揺らめいている。
逃げる合間に倒しておいた置物の台座や照明を跨いで歩いて来ている。
つまづいて隙を作ってもらいたかったけど、そんな簡単じゃないか……。
「なんだその目は。まさか貴様、私から逃げ延びおおせる算段でもあるつもりか? 言っておくが、私は獲物を逃がしたことは生涯ありはしない。そこから逃がした女のガキも、他のガキ共も、私の下僕共に捕縛され、貴様のせいで拷問を受けることになる。貴様が私の計画の邪魔をしようとしているがためにな!」
「……どうしてこんなことを……あなたは一体なんなんですか!」
「これだから好奇心というものは困る。死にたがりに多い傾向だな。しかし、いいだろう。もはや隠す意味もない。
私は、吸血鬼――ジルド・バギル・レイモンド。人間や魔物とは別の存在として知られる。いや、こちらの世界では一応魔人という定義にはなっているが、貴様等はこっちの名の方が馴染みがあるんじゃないかね」
ヴァンパイア……? 人間に化けて、僕達を騙していた正体がヴァンパイア……。コウモリ野郎ってそういうことだったのか。あのお姉さんは知ってたんだ!
部屋の場所は、まだ先だ。隙を見せるわけにはいかない。
幸運なことに伯爵以外に僕を狙う者がいない。おかげで逃げ道は確保されている。
不安なのは、伯爵の方が脚が速いこと。屋内だから障害物が多いし、床も滑る。走るのが得策とは言い切れない環境のおかげでここまで逃げ込んでこれたけれど、あの部屋に入るとほとんど障害物がないから隠し階段まで辿り着ける気がしない。
「貴様を見れば、私を畏怖しているのがまるわかりだ。怯えて動けず、先程は滑稽に思ったものだが、実に勇敢な心を持っている。状況に他者が加わることで、反射的に体を動かした。それは私の最も警戒する相手の行動と瓜二つだったよ。
だが、貴様には欠けているものがある。それは力とか知能とか目で見て判るものではなく、恐怖を挑戦心に変える底力だ。自分一人でできることは限られていると線を引いて、攻めることをしない脆弱な精神。キミの中にあるのは死への恐怖だけ、そんな者は運には恵まれない」
「……僕があなたをここに釘付けにできている。それだけで僕の役割は終えているんですよ」
伯爵は、全てを見透かしているかのような笑みを浮かべた。




